第8章 浩太と由香里(VOL.7)
親父から、父さん、そして今は、お父さんに格上げか。
なんだか、浩太の中で自分が昇進していっているようで、敏夫は思わず胸のうちでにやけた。
「なんだ?」
そんなことをおくびにもださず、優しい口調で応える。
「ありがとう。先生にあそこまで言ってくれて。俺、お父さんが、自分の恥をあそこまでさらけ出してくれるなんて、思ってもなかったよ」
敏夫を見つめる浩太の目は、キラキラと輝いている。
「恥か? 自分では、恥なんて思ってなかったんだがな。うん、言われてみれば、確かに恥だ。すまなかったな、おまえに恥ずかしい思いをさせちまって」
敏夫は怒ることなく、逆に、浩太に謝った。
「いや、違うよ。俺は、そんな意味で言ったんじゃない。嬉しかったんだ」
浩太が、躍起になって否定する。
「いいんだ、気にするな。俺は、なんとも思っちゃいないから」
敏夫が、優しい眼差しで、右手を軽く振った。
「うん」
浩太が素直に頷く。
「これまで、お前達になにもしてやれなかったくせに、随分と偉そうなことを言っちまって、すまなかったな」
声は静かだったが、敏夫が本気で謝っているのが痛いほど伝わったのだろう。浩太は、ぶんぶんと首を横に振った。
「そんなことないよ。今日、充分してくれたじゃないか」
敏夫に素直に出られて、気恥しさのあまり、浩太の顔が赤くなっている。
「それより、お父さん。お父さんって、あんないい大学を出ていたんだ。俺、びっくりしちゃったよ」
「大学だけが人生じゃないって、俺を見てれば、よくわかるだろ」
敏夫が笑いながら言う。
「そんなことないよ」
またもや、浩太が激しく首を振った。
「今日は、お父さんの話が聞けてよかった。お父さんが、俺にどんな考えを持ってくれているのかもわかったし」
いつになく、浩太は素直だ。
今日の敏夫の言葉が、浩太の胸の氷を溶かしたのだ。
「そうか」
これで一歩、子供に近づけたかなと思い、敏夫が灌漑深げに頷いた。
「とにかく、ありがとう」
照れくさそうに礼を言って、浩太がリビングを出ていこうとした。
「お父さん、それに、お母さん」
ノブに手をかけた浩太が振り返る。
敏夫と里美が、黙って浩太の顔を見る。
「俺、今からじゃ遅いかもしれないけど、大学に行くことを考えてもいいかな?」
遠慮がちに言った。
「なあに、遅くはないさ。人生は長いんだ。一年くらい浪人したって、どうってことはないさ。さっきも言ったように、おまえの人生はおまえのものだ。おまえの思う通りにすればいい」
敏夫が励ますように、明るい声で答える。
「そうよ、浩太。お父さんの言う通りよ。わたしは、浩太が大学へ行こうとどうしようと別に構わないけど、じっくり考えて、あなたの好きなようにすればいいわ」
里美が、穏やかな声で続いた。
「うん、そうする。俺、じっくりと考えてみるよ」
潤んだ瞳でそう答えた浩太は、涙を見られたくないかのように、急いでリビングを出ていった。ドアの横に張り付いていた由香里にも気付かずに。
「あなた、今日はありがとう」
二人になったとき、里美がそう言って頭を下げた。
「礼を言われることなんかないよ。それより、俺はあれでよかったのかな? 浩太はああ言っていたが、浩太に恥をかかせちまったのかもしれないな」
里美が静かに首を振る。両手で敏夫の右手をそっと握った。それから、しなだれかかるように寄り添った。
「立派だった。わたし、あなたを見直したわ。先生がどう思ったかは知らないけど、そんなのは関係ない。わたしは、あなたを誇りに思う。きっと、浩太もそう思っているはずよ」
「だと、いいんだけどな」
自信なさげな口調に、「もっと自信を持ちなさいよ」言って里美は、握った両手に力を込めた。
「クソ親父」
由香里は、自分の部屋で呟いていた。その言葉に、憎しみはこもっていない。代わりに、戸惑いがあった。
あんな恰好いいところを見せられたら、軽蔑なんかしてられないじゃない。
敏夫の話を聞いていて、由香里は敏夫の胸に飛び込んでいきたい衝動に、幾度も駆られた。
これまで、軽蔑し、憎んでいた父親を好きになってきた。それが、由香里を戸惑わせ、不安な気持ちにさせている。
これから、どう接してゆけばいいのか?
由香里は頭を抱えた。しかし、心に爽やかな風が吹いてもいた。
それから暫く、何事もない日々が続いた。
子供達との仲は、急速には接近しないものの、ゆっくりと絆を築きつつあった。
若松の訪問から、敏夫が休みの日は、家族みんなで食卓を囲むようになった。ぎこちなくはあるが、ぽつりぽつりと会話も交わすようになっている。
すべてがうまく回り出している。
これからやってくる試練など思いもよらない敏夫は、これまでにない充実した日々を過ごしていた。




