第8章 浩太と由香里(VOL.6)
「今の会社で、わたしが頼りにしている女性がいるんですがね」
なにも答えられずに俯いてしまった若松に目を落としながら、敏夫が切り出した。
「彼女は、そんないい学歴ではありません。でも、仕事はできる。人間としても立派だ。彼女がいなければ、わたしは今の会社で頑張れなかったかもしれない」
若松が顔を上げた。
「その方が、さきほどおっしゃったきっかけなのですか?」
若松の問いに、敏夫が首を振る。
「彼女はわたしを成長させてくれましたが、わたしが変わるきっかけを与えてくれたわけではありません」
少し突き放したような言い方で答えた敏夫の口調から、それ以上、その話題に触れたくないという意思を感じたのか、若松が話題を変えてきた。
「お父さまは、息子さんにどうなってほしい思っておられるのでしょうか?」
「息子自身が、いい大学に入って、いい企業に就職する。それを目標にしているのだったら、それでもいいでしょう。出来る限り、親としても応援します。でも、そうじゃなくても、わたしは反対しません」
きっぱりと、敏夫が言いきる。
「息子の人生は息子のものだ。社会に入ってしまえば、親の出る幕なんてないし、出しゃばるつもりもない。自分の人生は、自分で切り拓かなくちゃいかんのです」
そう言って、浩太を見る。
「わたしはね、今のうちに、好きなことをすればいいと思ってるんですよ。どうせ、社会に出てから苦労するんです。だったら、若いうちに楽しまなくてどうするんですか。勉強なんか出来なくてもいい、大学なんか行かなくてもいい、大きな企業になんか勤めなくてもいい。そんなものが息子にとって幸せなんて、これっぽっちも思っていません」
敏夫が言葉を切って、もう一度浩太を見た。その目は、慈愛と威厳に満ち溢れていた。
「だから、将来悔いを残さぬよう、息子の好きにさせるつもりです。それが、きっと息子の役に立つと信じてね」
「そうおっしゃいますが、浩太君は、まだ世間というものを知らない。今好きにさせてしまうと、ただ遊び呆けるだけになる可能性があります。そんなことになれば、浩太君の将来は酷いものになってしまいかねません」
若松が、なんとか食い下がろうとする。
世間知らずなのは、あんたも一緒だろう。
それは、口に出さなかった。
「それも、息子の人生でしょう」
にべもなく、敏夫が返した。
「そ、それは……」
いい大学へ入れるにはどうしたらいいかとか、学校がちゃんと教育しろと言ってくる親は大勢いるが、こんな親と接するのは、長い教員生活でも経験のない若松は、これ以上どう接してよいかわからず、言葉が続かなかった。
「それは、あまりに無責任ではないかとおっしゃりたいのですね」
若松の後を、敏夫が引き取る。
若松が、こくんと頷いた。
「親としては、子供の将来を考え、せめて大学までは、子供がなんと言おうと無理してでも行かせる。それが親の務めだ。先生は、そうおっしゃりたいんですね」
またもや、若松が無言で頷く。
「価値観の違いですな。さっきも言ったように、わたしは、大学に行ったからといって、必ずしも幸せになれるとは思っていない。息子には、なにがあっても挫けず、なにがあっても負けないで、世間に立ち向かっていく。そうなってほしいんです。そのために、挫折を味わい、どん底に落ちたって構わない。そこから這い上がれなければ、それは仕方のないことだ。わたしはね、自分がそうだったからよくわかるんです。幸せなんてのは、心の持ちようだってね」
敏夫にそこまで言われても、若松は納得した様子はみせず、憮然とした表情を浮かべていた。
そんな若松に、敏夫がにやりと笑ってみせる。
「なあに、息子が遊び呆けるようなら、この家を叩きだします。そうなれば、生きていくために、嫌でも働かざるを得んでしょう。それで野垂れ死にするのだったら、そんな奴は、大学に行っても一緒でしょう」
そう締めくくって、敏夫が豪快に笑った。
今では若松は、薄気味悪いものでも見るような目付きで、敏夫を見つめている。
「奥さんも、お父様と同じ考えなのでしょうか?」
若松が救いを求めるように、里美を見た。
若松の視線を受けて、里美が静かに頷く。
「わかりました。ご両親がそうお考えでしたら、わたくしは、もうなにも申し上げることはありません」
自分の言ったことの半分も理解していないだろう。
敏夫は、若松の顔を見てそう思った。しかし、父親である自分にここまでは言われては、引き下がるしかないのだ。
敏夫の読みは当たっていた。
若松は、敏夫の話を聞いても、それでも大学へは行くべきだと信じきっていた。
そんな若松が引き下がったのは、敏夫の威厳に打たれたからである。
敏夫自信は気付いていないが、敏夫は一種オーラのようなものを身に纏っていた。
それに、若松は気圧されたのだ。
「お父さん」
悄然として若松が帰った後、浩太が敏夫を呼んだ。




