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第8章 浩太と由香里(VOL.5)

 敏夫に目を向けられた浩太は、思わず下を向いて目を逸らした。

「お父さん、あなたのおっしゃることはわかります。ですが、最初から小さな会社に入るより、いい大学を出て、大きな会社に入ったから、あなたも立ち直れたのではないですか」

 自分から目が逸れたのをきっかけに、若松が反撃してきた。

「そんなことはありません」

 敏夫が、言下に否定する。

「気持ちを切り替えるのと、学歴や職歴は関係ない。事実、私と同時に辞めた人間のうち何人か知っていますが、未だに職が決まっていない者や鬱になった者もいます。その大半は、わたしより学歴が上です」

「それは、たまたまでは」

 若松は、どうしても高学歴から一流企業への就職が、人生にとって最良の道だという思いを崩したくないらしい。

 敏夫の目が、一瞬、憐れむように悲しみを帯びた。

「先生は、高学歴から一流企業への就職が、なぜ幸せだとお思いですか?」

 敏夫の質問に、若松の言葉が詰まる。

「それは、やはり学歴があるということは人に誇れることですし、大きな会社に勤めていれば、人間としても立派かと。それに、給料もいい」

 ややあって答える若松に、敏夫が即座に突っ込む。

「学歴がない人間は、立派ではないと」

「そんなことは言ってません」

 顔を赤らめる若松に、敏夫が追い打ちをかける。

「それに、さきほども申しましたように、今は大きな企業といえども、いつでも倒産の危機を孕んでいます。優良企業が必ずしも大きな企業ではない」

 敏夫がここまで容赦ないのは、すべては浩太のためである。それと、これを機に、若松が少しでも考えを変えてくれたら、世間を知ってくれたらという思いもあった。

 いくら親が教えていくこととはいえ、教師の影響も学生には大きい。その教師が、現実の社会を知らぬ夢想だけで、子供将来を左右する役目を負うのは、日本の将来にとってもよくないし、子供達にとってもよくない。

 若松と会話していて、その思いが強く敏夫に湧き上がっている。

「先生は、教職に勤められて何年になります?」

「三十年です」

 若松が胸を張った。

「じゃあ、教え子も沢山おられるでしょうね」

「ええ。その中には、いい大学に入って、大きな会社に就職した生徒も沢山いますよ」

 若松の声は、自信に満ち溢れていた。

「そうですか。その教え子達は、みんな幸せですか?」

 若松が、えっという顔をする。

「いや、そこまでは」

 先ほどの自信に満ちた声が萎んでいる。

「では、大学に行かなかった子や、それほどいい大学に行けなかった子は、みんな不幸になっていますか?」

 容赦なく、敏夫が畳み掛ける。

「いや、それも…」

 若松が、消え入りそうな声で答えた。

「では、なにを根拠に、先生はさきほどのようなことをおっしゃったんでしょうか?」

 敏夫は、心底教育というものに失望した。多分、若松だけではないだろう。

 教育とは、一体なんだろう?

 人生とはなんぞや、幸せとはなんたるかということを深く考えもせず、ただ世間一般の常識、いわゆる世迷い事を信奉して、それを生徒に植え付ける。

 そこには、生徒個人の性格も適正も感情も価値観も、一切考慮されていない。世間が夢想する、幸せの大量生産をしようとしているだけのことだ。

 そこからこぼれていった生徒のことなど、一切経慮していない。

 ただの教師の欲であり、ステータスなのだ。

 そんなのは教育とは呼べず、ただの学習塾と変わりがない。

 人間とは、所詮、見栄と欲の塊ではないかと、敏夫は痛感した。と同時に、またひとつ成長できたような気がした。



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