第8章 浩太と由香里(VOL.3)
家庭訪問の当日、風邪と偽って敏夫は会社を休んだ。
早苗にだけは、本当のことを伝えてある。
「頑張ってください」
早苗は、笑顔で励ましてくれた。
約束の時間まであと三十分。不思議と敏夫の心は落ち着いていた。言うべきことは決まっているのだ。敏夫の心には、迷いも躊躇いもない。
約束の時間丁度に、浩太の担任がやってきた。
若松という、教師になって三十年のベテランだ。敏夫とそう歳が違わない。
若松は、なるべくいい大学に進学し、大きな会社に就職することこそが、子供の将来において絶対だと、敏夫の父親と同じ考えを持っていた。
教師は、勉強を教えるのが仕事だ。一般の社会のことは、ほとんど知らないと言っても過言ではない。
敏夫はそう思っている。その考えは当たっていた。
若松は挨拶を済ますなり、大学へ行くことの大切さを、敏夫と里美に諄々と説いて聞かせた。
浩太は黙って俯いている。
ドアの外で盗み聞きしていた由香里は、いつ敏夫が反論するのかと、苛々しながら耳をそばだてていた。
「ご理解頂けましたか?」
長々と喋った後に若松は、敏夫と里美に向かって得意げに尋ねた。
敏夫が重々しく頷く。
「おっしゃることは、よくわかります」
初めて、敏夫が口を開いた。これまで、得意げに若松に喋らせていたのは、敏夫が営業として培ったテクニックだ。
自分の意見を通そうと思えば、まず、相手の言いたいことをすべて喋らせた後で、徐々に反撃していくのが一番効果的だ。
人は、自分の言いたいことを途中で遮られると、その者の話に耳を傾けなくなる。反して、自分の言いたいことを喋り終えた人間というものは、相手の話も聞いてやろうという気になる。相手の話を肯定してみせればなおさらだ。
敏夫は、そんな人間の習性をよくわかっている。
これからは、俺の番だ。敏夫が反撃に出る。
「ですが、いい大学、大きな会社に就職したとして、それが本人にとって幸せだとは限らない。そう思いませんか?」
これも、営業としてのテクニックのひとつだ。自分の考えを押し付けるのではなく、相手に質問を浴びせていく。それで相手は、考えざるを得なくなる。そうすれば必然的に、自分の言っていることを聞き流すことはできない。
「そんなことはありません。大企業に就職することこそ、人生においての幸せなんです。そのために、今のうちに一生懸命勉強して、少しでも上位の大学に入るべきなんです」
自信を持って、若松が答えた。
日本は、教育の在り方をもっと変えたほうがいいな。例えば、教師になる資格を、社会人経験三年以上にするとか。
静かな眼で若松を見ながら、敏夫はそんなことを考えていた。
終身雇用の昔ならば、若松のような考えもそれなりに正しかっただろう。しかし、時代はめまぐるしく変化している。十年一日で同じ考えを持っていればとんでもない目に合う。時代に取り残されていくのだ。
まあ、閉鎖された世界にいる者にはわからないか。これは教師ではなく、親が教えることなんだろうな。
そう考えた敏夫は、若松との話の中で、浩太に教えていこうと思った。
「では、お聞きしますが、今の時代、大手でも潰れる時代ですよ。そうでなくても、人員削減やリストラなんか当たり前になっている。先生のおっしゃるように、いい大学に進学して、大きな会社に入ったからといって、そういった目に合ったら、それこそ目もあてられないんじゃないんですか?」
「そ、それは…」
若松が一瞬たじろいだ。が、直ぐに体制を立て直す。
「あなたがおっしゃるように、そんなことがあるかもしれない。でも、それはほんのごく一部で、そういう人は運が悪かったと言うしかない。それに、リストラに合うような人は、駄目な人でしょ」
やはり、運で片づけるか。
なんで、いい大学、大きな会社が幸せに繋がるという図式を盲信している者に限って、幸せでなくなったとき、運が悪かったで片づけるんだろう?
敏夫は不思議だった。
多分、自分の信じていたものに裏切られたとき、それまでの過去が音を立てて崩れていくのに耐えられないのに違いない。だから、運が悪かったで片づけようとするのだろう。
過去の経験から、敏夫はそう分析している。
そういう人間はなかなか立ち直れないため、なにをやってもうまく事が運ばず、その度に無気力になってゆく。自分がそうであったように。




