第1章 敏夫(VOL.4)
敏夫は、前職と同じ営業職に就いた。
入社したては、大手で培ってきた経験を活かせば、それほどの時を要さずトップに躍り出る自信があった。しかし、その思惑は見事にはずれた。
まず、会社の代紋が通用しない。敏夫は成績を上げるため、大物狙いで大手の会社を訪問して回ったが、どこも門前払いを喰わされるだけで、担当者に会うことすらできなかった。
以前勤めていた会社なら、社名を言えば大抵商談までは漕ぎつけられたものだが、今の小さな会社では、胡散臭そうな眼で見られて、相手にもしてくれないのだ。
いかに優秀な営業マンといえど、代紋がなければその実力を発揮しようがない。逆に、代紋を背負っていれば、それなりの腕でも成績を上げることができる。
何十社にもすげなく追い払われて、ようやくそのことに気付いた。
そこで、敏夫は方針を変えた。ターゲットを中堅どころに切り替えたのである。しかし、そこでも成績を上げることはできなかった。
大手と違い、たまに会ってもらえるものの、代紋を背負った会社との競合に合い、ことごとく大手に持っていかれた。
小さな会社なら小さな会社なりの攻め方がある。この時の敏夫は、まだそんなことに気付きもしていなかった。就活中に心を入れ替えたとはいえ、未だ過去の自分を捨て切れていなかったのだ。
それだから、上司の言うことも聞かず、教えを乞うこともせず、考えることも反省することもしなかった。入れてもらった恩も忘れて、成績が上がらないのはすべて会社のせいにした。会社を呪い、恨みすらした。
何度も辞めたいと思ったが、ここで辞めてしまっては、またあの地獄を味わうことになる。それだけは嫌だと思った敏夫は、仕方なく、小さな会社を相手にすることに、再度方針を転換した。
小さな会社であれば数が多いし、大手と競合することもあまりない。その思惑は当たって、門前払いされることもしょっちゅうだったが、会ってくれるところもそこそこあった。
しかし、またもや敏夫は、問題に直面した。お金である。どんなに良い商品を勧めても、「いくらになる?」まず、口にするのはお金だった。
大手であれば、商品価値を認めたら、それなりの値段で決着が着く。値引されることもあるが、その変わり大量に購入してくれたり、高い商品を買ってくれたりしたものだ。
しかし小さな会社は、安い商品ひとつを買うのにも、値段にいちゃもんをつけてくる。良い商品にはそれなりの原価がかかっているので、どうしてもこのくらいの値段になると敏夫がいくら説明しても、相手は頑として譲らない。
大手だったら、物の価値というものがわかっているのに、小さな会社はそんなこともわからないのか。
敏夫は、内心そんな会社を見下していた。しかし、わかっていなかったのは敏夫のほうだった。
いくら小さな会社とはいえ、そんなことは百も承知なのだ。いや、小さな会社だからこそ、よくわかっているのかもしれない。
それをわかっていて、値引を要求してくるのである。
それは、小さな会社が生き延びるための手段なのだ。大手と違って、ぎりぎりのところで経営している会社は、少しでも経費を抑えることに必死なのだ。
それもわからず、敏夫は大手を相手にするような感覚で正直にいきすぎた。
敏夫が転職してから、もうすぐ一年になる。その間、今の給料分を稼ぐのがやっとこさで、昇給なぞ望むべくもなかった。ボーナスは成績に応じて査定されるため、貰ったことがない。
ここでも、大手との違いがあった。大手もある程度成績に左右されるが、まったく出ないなんてことはない。最低限、貰える額は決まっているものだ。
このままいけば、近い将来お払い箱になるであろうことを、敏夫は肌で感じ取っていた。だが、どうしようもなかった。焦れば焦るほど、泥沼に沈んでいった。
敏夫は、もうどうしてよいかわからなかった。
当然のことながら、家庭ともうまくいっていない。
転職したての頃はまだよかったが、数ケ月が経った頃から、家族に当たるようになった。家ではいつも機嫌が悪く、ちょっとしたことにも腹を立てて、妻や子供に小言を言うようになったのだ。
最初は気を遣っていた妻の里美も、途中からは態度を変えた。
敏夫が怒っても謝ることがなくなった。それどころか、「自分の甲斐性のなさを棚に上げて、なにを言ってるのよ。そんなに威張りたいのだったら、もっと給料を貰ってきてよ」そう言って、逆に敏夫を詰った。
今では、食事こそ作ってくれるものの、敏夫の存在は完全に無視されている。
高校三年になる長男の浩太は、「いくら頑張って大きな会社に入っても、親父のようになるんだったら、人生を無駄にするだけじゃん。俺はフリーターでもいいから、若いうちに悔いのないよう、好きなことをするんだ」と公言して、ろくに受験勉強もせずに遊び呆けている。
一度、敏夫が怒ったことがあるが、「親父にだけは言われたかねえよ。偉そうに言うんだったら、もっと稼いで家族を幸せにしてみろよ。仕事がうまくいかないからって、俺たちに当たりちらしているお前に、俺を怒る資格なんてねえだろ」そう言って反撃してきた。
敏夫は殴りそうになったが、浩太の方が体格はいい。力では敵わないと思った敏夫は、屈辱に震えながらも我慢した。
それ以来、浩太とは口を利いていない。向こうも避けていた。
長女の由香里は、高校一年生だ。もともと、敏夫のことをあまり好きではなかったが、近頃はすっかり軽蔑しきっていた。
由香里は最近、母の里美にしきりに離婚を勧めるようになった。しかし里美は、言葉を曖昧に濁して、由香里の勧めを躱している。
母が離婚しないのは、自分達子供のためだと、由香里は思っていた。自分達が独り立ちするまで、我慢しようとしているのだと。
由香里は高校を卒業したら、母親と一緒に暮らすべく、美容師の専門学校に入る決意を固めていた。
そんな由香里だから、敏夫を無視するのは当然で、たまに顔を合わすと、露骨に嫌悪感を顔に出した。軽蔑した眼で敏夫を一瞥して、プイと横を向くのである。
敏夫は、会社でも家庭でも、居場所がなかった。自業自得といってしまえばそれまでだが、敏夫の心は追い詰められていて、そんなことを省みる余裕すらなかった。
今日も敏夫は、重たい足を引き摺りながら、家路へと就いていた。敏夫にしてみれば、地獄から地獄への移動である。
(俺は、なんのために生きているんだ? この先生きていたって、なにもいいことなんかありはしない。いっそ、心臓麻痺かなんかでぽっくりとあの世に行けたら、どれだけ楽なことか)
そんな暗澹たる気持ちを抱えながら、錆びれた商店街を歩いていく。
『幻庵・心穏堂』
とぼとぼと歩いてゆく敏夫の眼に、古ぼけた看板が飛び込んできた。