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第6章 茂樹(VOL.4)

『幻庵・心穏堂』

 初めてこの文字を見てから、まだ一ヶ月も経っていないというのに、早苗の胸には、懐かしさと同時に熱いものが込み上げてきた。

 早苗は、前回と同じように、躊躇いなく扉を開けた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 見たかった顔、聞きたかった声。

 綾乃が、この前と同じように、頭を下げて出迎えてくれた。

「こんばんは~」

 明るい声で、早苗が挨拶する。

「どうやら、ポイントカードがお役に立てたようですね」

 微笑む綾乃に、

「うん、ありがとう。綾乃さんって素敵」

早苗が明るく答えた。

「ふふ」

 これも懐かしい、妖しい含み笑い。

「綾乃さんがわたしの前に現れてくれたってことは、次の転機がきたんですね」

 早苗が、直球でぶつける。

「ふふ」

 綾乃が躱しながら、早苗を施術室へと生じ入れた。

「ずいぶん、疲れが取れてらっしゃいますね」

 綾乃が丹念に早苗の身体をまさぐりながら、嬉しそうに言う。

「本当ですか? だとしたら、綾乃さんのお蔭です」

 嬉しさに弾んだ声で、早苗が応えた。

「そんなことはありません。清水さんが努力なさったからですわ。あれから、どうなさってたんですか?」

 綾乃に問われるままに、早苗はあれからのことを語った。

「清水さまは、ご立派な方でいらっしゃいます」

 早苗の話を聞き終えて、さらりと言った綾乃の言葉は、お世辞でもおだてでもなく、真実の響きを帯びていた。

「そんな、わたしがここまでこれたのは、すべて、綾乃さんと杉田さんのお蔭です」

 早苗の言葉にも、照れや謙遜はない。本当に、そう思っているのだ。

「いいえ、杉田さまのご助力もあったでしょうが、やはり清水さまが、本当にご自分を変えたいと、努力なさったからですわ」

「へへ、ありがとう」

 照れくさそうに、早苗が素直に礼を言う。

「ふふ」

 今度の含み笑いは、妖しくはなく、楽しげな響きを帯びている。

「でも、まだ、一番の問題が残ってるんだ」

 早苗の声が、急に暗くなる。

「恋人ですね。茂樹さんとおっしゃったかしら」

「うん。よく考えたらね、わたしが茂樹に持っているのは、愛情じゃなく、ただの情だとわかった。綾乃さんの言った通りよ。それも、今では、ほとんどなくなってる」

 早苗のもの言いは、まるで姉に言っているようだ。早苗は、今では綾乃を姉のように慕っており、その気持ちが言葉に表れていた。

「そうですか」

「別れようと思うんだけど、素直に、はいそうですか、という奴じゃないから」

 茂樹は、あれから二度ほど、早苗のマンションにやってきた。

 一度目は、早苗を罵倒し、暴力をふるってから三日後である。いつものように、早苗のことなど斟酌なく、深夜にやってきた。

 いつもなら寝ている時間だったが、あの時は悩み抜いていた時期だったので起きていた。

 早苗が起きていることにびっくりはしたものの、理由を問うこともせず、早苗を殴ったことなど忘れたようにけろりとして、腹が減っているから飯を作れと要求した。

 相手にするのも面倒だったので、早苗は言われるままに、有り合わせのもので茂樹の腹を満たしてやった。空腹が満たされると、今度は早苗の身体を要求した。これも、早苗は拒否することもせず、淡々と抱かれた。

 事が終わったとき、さすがになにかを感じたのだろう。

「なにかあったのか」

心配そうな顔もせず、茂樹が訊いてきた。

「ちょっと、会社でね」

 そう答えた早苗に、「そうか」とだけ言ってそれ以上訊くことはせず、茂樹は金をせびり、早苗がいくばくかの小遣いを与えて寄越すと、そそくさと帰っていった。

 この人は、わたしのことなんてどうでもいいんだ。わたしがどれほど悩んでいようと関係ない。この人は、自分のことしか考えていない。

 わかっていたことだが、改めて認識した。と同時に、初めて茂樹に対して憎しみを覚えた。

 それから数日後、またもや、茂樹が深夜にやってきた。それも、かなり酔った状態でだ。そのときも、早苗は起きていた。自分を見つめる作業がピークに達しており、早苗は憔悴しきっていた。

 いつものごとく、勝手に部屋に入ってきた茂樹が、そんな早苗の顔を見て愕然とした。

「どうしたんだ?」

さすがに、少し真剣な表情で訊いてきた。

 早苗は、今日は茂樹のためにご飯を作るつもりも、抱かれるつもりも、金を与えるつもりもなかった。

「ねえ、茂樹。わたし、会社を辞めるかもしれない」

 嘘をついた。

「お前が会社を辞めたら、金はどうするんだ?」

 なにがあったのかも訊かず、茂樹が口にした言葉はそれだった。

 早苗は、悲しそうに首を振った。

「わかんない。あんたに取られて貯金もないし、どうしよう?」

「俺のせいにするんじゃねえよ。いいか、なにがあったか知らねえけどな、簡単に辞めるなんて考えるんじゃねえぞ」

 理由を訊くこともなく、慰めの言葉を口にすることもなく、そう捨て台詞を残して、茂樹はそそくさと出ていった。

 茂樹が去ったドアを見つめながら、別れようと、早苗は強く決意していた。

 別に、茂樹を試したわけではない。茂樹の相手をするのが面倒だったので、咄嗟に嘘をついたのだ。

 それが、決定的に、早苗から茂樹に対する情を消し去る結果となってしまった。


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