第6章 茂樹(VOL.3)
茂樹と別れると決めた途端、早苗の心のしこりがほぐれ、羽が生えたように軽くなった。。
綾乃さんの言う通り、茂樹に愛情はない。あるのは情だけだが、今はそれすらも薄れている。
このままずるずると関係を続けていても、自分にとってなんのメリットもない。
早苗には、もう茂樹のことなど、どうでもよかった。
あんな男といても、自分にとって良いところは少しもないどころか、自分が駄目になっていくだけだ。
自分の心に気付いた今では、茂樹との未来は、これっぽっちも描けなかった。
自分の未来のために、早苗は強い決心をした。
なんで、あんな男と結婚したいと思ったのか。
なんで、あんな男の子供を産みたいと思ったのか。
今から思えばぞっとする。
そんなことをしたら、自分の一生をドブに捨てるようなものだ。
「俺を駄目にしたのは、お前だ。まじめに働いてた俺を、小遣いを渡して飼いならそうとしたのは、お前なんだ」
茂樹の言葉が蘇る。
あの時は、なにも言い返せなかった。
違う、悪いのはあんたよ。
今では、そう言い切れる。
男としての誇りがあるのだったら、どんなにわたしがそうしようが受け付けないはずよ。押し付けようとしたりすれば、別れていたはず。仕事も辞め、紐のような存在になったのは、すべてあんたが望んだことよ。
茂樹は、別れる気はないと言った。別れたりすれば、ずっと付きまとい、会社に押しかけるとも。
茂樹ならば、本当にそうするだろう。
屑のくせに、プライドだけは高い。
茂樹は、私を愛してなんかいない。自分から別れるのはいいが、自分が振られるのは嫌なのだ。
それもこれも、すべてはくだらないプライドのせいだ。
茂樹に黙って、引っ越してしまおうかとも考えた。
自分の実家は、茂樹は知らない。面倒くさがって、挨拶に行こうともしなかったのだ。
少し前なら、躊躇わずにそうしていただろう。
だが、今は違う。
実家は知らなくても、自分の会社を知っている。だから、会社に押しかけると言ったのだ。
今は、会社を辞めたくない。それは会社が好きだからでもなく、仕事のためでもない。
確かに、今の仕事は好きだ。でも、探せば、同じような仕事はいくらでもある。それに、別に同じ仕事でなくてもいい。
早苗は、いろんなことを経験してみたいと思っていたので、いくら好きだといっても、今の仕事にそれほど執着はなかった。
早苗が辞めたくない理由はただひとつ、敏夫だ。
敏夫に、恋愛感情は抱いていない。
敏夫に抱いている感情は、もっと崇高なものだ。
早苗にとって敏夫の存在は、尊敬できる人であり、いろんなことを学びとれる師であり、なんでも相談できる頼もしい人生の先輩であり、心を許せる同僚であり、一緒に自己啓発をしていく仲間であり、そしてよきライバルなのだ。
早苗は、敏夫と離れたくない。
杉田さんには迷惑かもしれないが、この人と一緒に仕事をしていると、男というものを信じられる。いつかわたしも、まっとうな男性を恋人に選ぶことができる。自分を、もっと高みに引き上げることができる。
そのために、もっとこの人から学びたい。もっとこの人と一緒に仕事をしていたい。この人と一緒に、自分を磨いていきたい。
一人でも生きてゆける。早く、その自信をつけたい。
その自信がついたとき、自分は初めて心の底から、男を愛せるようになると思っていた。
異性を愛するということがどんなものか、敏夫から教わった。夫婦とはどんなものかも。
私なんか、まだまだだ。
弱気ではない。謙遜でもない。正直な気持ちだ。
自分を見つめ直してからというもの、早苗は、自分の気持ちを誤魔化すのをやめていた。いい意味で開き直っている。
それに、密かな希望を持ってもいる。
杉田さんに、上司になってほしい。
それは、不可能なことではないと思っている。
早苗は、上司の敏夫を見てみたいと、心底思っていた。
杉田さんならいい上司になれる。そして、今の体制を変えることができる。その下で働けば、自分はもっとスキルアップできる。きっと、持てる力以上のことを、嬉々としてこなすだろう。どんな苦労を伴おうとも、だ。
そう確信していた。
そんなんだから、敏夫と離れる気がなかった。
会社を辞める気がない以上、茂樹に黙って住まいを変えても意味がない。
さて、どうしたものか?
思案しながら帰る早苗の目に、懐かしい看板が飛び込んできた。




