表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/72

第5章 幻の人(VOL.5)

 茂樹と付き合って楽しかったのは、最初の数ヶ月だけだった。

 初めは、茂樹も猫を被っていたに違いない。付き合い始めて数ヶ月もすると、徐々に本性を現してきた。

 それからは、楽しいことより、苦痛のほうが多くなった。いつしか茂樹の顔色を窺うようになり、機嫌を取るようになった。それでも、茂樹は直ぐにキレた。なにげないことでも、自分の気に入らないことがあると豹変した。

 多分、その頃から、自分の茂樹に対する愛は冷めていったのだろう。これまで別れずにきたのは、綾乃の言うとおり、情と、茂樹が怖かったからだ。

 いや、それだけではないと早苗は思った。

 自分の思い上がりもあった。あんな男でも、自分はまっとうに立ち直らせる自信があったのだ。

 今にして思う。くだらない男を自分が立ち直らせることにより、充足感を味わいたかったのだ。

 自業自得だ。

 唇を噛みしめる。

 あんな男を選んだのも自分。もっとだめにしたのも自分、そして、別れる踏ん切りもつかない。

 いったい、わたしは、なにをやっているんだろう。

 後悔と自責の念が、後から後から湧いてきた。

 叫びだしたい衝動を、かろうじてこらえた。気を緩めると、自分を抑えきれなくなりそうだ。

 落ち着け。そう思い、大きくひとつ深呼吸した。

「綾乃さんの言う通りです。わたし、やっぱり別れることにします」

 なにかを吹っ切るように、早苗が決然と言った。

「もし、清水さまの彼氏が会社へ押しかけてくれば、清水さまはどうなされるおつもりですか?」

 早苗が答えを導きだすまで、早苗の心の動きを読み取るように冷静な眼でみつめていた綾乃が、その眼と同様、冷静な声で問いかけた。

 早苗は考えた。

 もし、そうなったら、いや、茂樹なら絶対にそうするだろう。そんなことになれば、自分は間違いなくクビになるに違いない。それだけならまだいい。どこへ行っても、茂樹は付きまとってくるだろう。

 どうすればいい?

 急速に、早苗の心に不安が芽生えた。

「もう少し、時間が必要ですね」

 早苗の動揺を見透かしたように、綾乃が落ち着いた口調で言う。

「時間?」

「そうです。清水さまのお話を聞いていると、清水さまの彼氏は非常に危険な方です。こう言っては申し訳ありませんが、小さなお子さんが、そのまま成りだけ大人になったようなものです。それも、甘やかされて、我儘に育ったお子さんですね。それに、お子さんというのは、物に執着し、弱いものをいたぶるのがとても好きでらっしゃいます。そんなことで、清水さまの身に危険が及んだり、会社にいられなくなるという事態はお避けにならねばなりません」

「どうすれば?」

 早苗が問いかけても、例の妖しい含み笑いを漏らしただけで、綾乃からの返答はなかった。

「では、今日はこれでお終いです」

「ちょっと、待って。わたしは、どうすればいいの?」

 早苗が身を起こして、縋るような眼で綾乃を見つめた。

 早苗の視線を、綾乃は静かに受け止めている。その眼からは、なにも読み取ることはできない。

 黙って見つめ返す綾乃に、早苗の心が揺れた。

 始めは苛立ち。それが怒りに代わった。

 早苗の心を映すように、早苗の眼に怒りの炎が宿る。

 それでも綾乃は、静かに、早苗を見つめ返すだけだ。

 そのまま、しばらくの時が流れた。やがて、早苗の心が少しずつ落ち着いてきた。綾乃から視線を外し、早苗がため息をつく。

 人に答えを求めちゃいけない。また、求められる問題でもない。これは、自分で快活することだ。

 綾乃に縋ろうとしていた自分を戒めた。

 その時、早苗の前に一枚のカードが差し出された。

「これは?」

 ぼんやりとした眼でカードを見、それから綾乃を見る。

「清水さまのポイントカードです。今日は、特別に二ポイント付けさせていただきました」

 右手でカードを受け取り、早苗はカードを見た。

 カードには、枠が四つあった。なぜか右端の枠だけ、ひと際大きい。

 左二つには、「向」と「真」という文字が、綺麗な字で書かれてあった。

 裏には、大きく「自」と筆で書かれてある。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ