第5章 幻の人(VOL.5)
茂樹と付き合って楽しかったのは、最初の数ヶ月だけだった。
初めは、茂樹も猫を被っていたに違いない。付き合い始めて数ヶ月もすると、徐々に本性を現してきた。
それからは、楽しいことより、苦痛のほうが多くなった。いつしか茂樹の顔色を窺うようになり、機嫌を取るようになった。それでも、茂樹は直ぐにキレた。なにげないことでも、自分の気に入らないことがあると豹変した。
多分、その頃から、自分の茂樹に対する愛は冷めていったのだろう。これまで別れずにきたのは、綾乃の言うとおり、情と、茂樹が怖かったからだ。
いや、それだけではないと早苗は思った。
自分の思い上がりもあった。あんな男でも、自分はまっとうに立ち直らせる自信があったのだ。
今にして思う。くだらない男を自分が立ち直らせることにより、充足感を味わいたかったのだ。
自業自得だ。
唇を噛みしめる。
あんな男を選んだのも自分。もっとだめにしたのも自分、そして、別れる踏ん切りもつかない。
いったい、わたしは、なにをやっているんだろう。
後悔と自責の念が、後から後から湧いてきた。
叫びだしたい衝動を、かろうじてこらえた。気を緩めると、自分を抑えきれなくなりそうだ。
落ち着け。そう思い、大きくひとつ深呼吸した。
「綾乃さんの言う通りです。わたし、やっぱり別れることにします」
なにかを吹っ切るように、早苗が決然と言った。
「もし、清水さまの彼氏が会社へ押しかけてくれば、清水さまはどうなされるおつもりですか?」
早苗が答えを導きだすまで、早苗の心の動きを読み取るように冷静な眼でみつめていた綾乃が、その眼と同様、冷静な声で問いかけた。
早苗は考えた。
もし、そうなったら、いや、茂樹なら絶対にそうするだろう。そんなことになれば、自分は間違いなくクビになるに違いない。それだけならまだいい。どこへ行っても、茂樹は付きまとってくるだろう。
どうすればいい?
急速に、早苗の心に不安が芽生えた。
「もう少し、時間が必要ですね」
早苗の動揺を見透かしたように、綾乃が落ち着いた口調で言う。
「時間?」
「そうです。清水さまのお話を聞いていると、清水さまの彼氏は非常に危険な方です。こう言っては申し訳ありませんが、小さなお子さんが、そのまま成りだけ大人になったようなものです。それも、甘やかされて、我儘に育ったお子さんですね。それに、お子さんというのは、物に執着し、弱いものをいたぶるのがとても好きでらっしゃいます。そんなことで、清水さまの身に危険が及んだり、会社にいられなくなるという事態はお避けにならねばなりません」
「どうすれば?」
早苗が問いかけても、例の妖しい含み笑いを漏らしただけで、綾乃からの返答はなかった。
「では、今日はこれでお終いです」
「ちょっと、待って。わたしは、どうすればいいの?」
早苗が身を起こして、縋るような眼で綾乃を見つめた。
早苗の視線を、綾乃は静かに受け止めている。その眼からは、なにも読み取ることはできない。
黙って見つめ返す綾乃に、早苗の心が揺れた。
始めは苛立ち。それが怒りに代わった。
早苗の心を映すように、早苗の眼に怒りの炎が宿る。
それでも綾乃は、静かに、早苗を見つめ返すだけだ。
そのまま、しばらくの時が流れた。やがて、早苗の心が少しずつ落ち着いてきた。綾乃から視線を外し、早苗がため息をつく。
人に答えを求めちゃいけない。また、求められる問題でもない。これは、自分で快活することだ。
綾乃に縋ろうとしていた自分を戒めた。
その時、早苗の前に一枚のカードが差し出された。
「これは?」
ぼんやりとした眼でカードを見、それから綾乃を見る。
「清水さまのポイントカードです。今日は、特別に二ポイント付けさせていただきました」
右手でカードを受け取り、早苗はカードを見た。
カードには、枠が四つあった。なぜか右端の枠だけ、ひと際大きい。
左二つには、「向」と「真」という文字が、綺麗な字で書かれてあった。
裏には、大きく「自」と筆で書かれてある。




