第5章 幻の人(VOL.4)
茂樹は、早苗が思っていた以上にお子ちゃまだった。気にいらないことがあると、直ぐに拗ねる。それが段々とエスカレートしていって、キレるようになり、今では、平気で手を出すようになっていた。
付き合い始めた頃は、まだ、派遣の仕事をまじめにしていたのだが、この頃は早苗に小遣いをせびり、パチンコやスロットに呆けて、働こうともしない。
早苗は、昨日のことを思い出していた。
会社の帰り、待ち合わせをして居酒屋で酒を酌み交わし、二人で早苗のマンションへ帰ってきた。
茂樹は、めずらしく上機嫌だった。パチンコで大勝したらしい。
「ねえ、茂樹。私たち、付き合って三年よ。将来のこと、どう考えてるの?」
パチンコで勝って喜んでいる茂樹に、半ば愛想を尽かしながら、早苗が訊いた。
「また、その話かよ」
途端に、茂樹の機嫌が悪くなった。
「俺は、まだ結婚なんて考えちゃいないって、何度も言ってるだろ」
「じゃあ、いつ考えるの?」
「面倒くせえ女だな。結婚、結婚ってよ。二人が愛し合っていれば、それでいいじゃねえか」
「そんなこと言うけど、わたしだってもう若くはないのよ。早いうちに子供を産んでおきたいの」
「子供?」
茂樹が険呑な目で、早苗を見据えた。
「お前が子供を産んだら、誰が稼いでくるんだ?」
「茂樹は、働く気はないの」
早苗は暴力の予感に怯えながらも、はっきりと訊いた。
「あるさ。俺を紐呼ばわりしねえでくれよ」
「だったら、なんで、そんなことを言うの」
「お前が、あんまりうぜえからだよ。だいたいな、俺は、今、社会勉強してるとこじゃねえか。そのうち、大きな会社に入ってばりばり稼いでやるさ」
昂然と言い放つ茂樹に、早苗が半ばキレぎみの口調で口ごたえする。
「なにが、社会勉強よ。毎日、なにもしないで、パチンコをするのが社会勉強なの」
言い終わらぬうちに、早苗の頬が鳴った。ぶたれた頬を手で押さえた早苗の髪を茂樹が掴み、左右に激しく振る。
「生意気なことを言うんじゃねえよ。女のくせによ」
「イタイ、イタイ、やめてよ」
叫ぶ早苗に手心を加えることもなく、なおも茂樹は、早苗の髪が抜けるかと思うほど、強く揺さぶった。
「いいか、俺をこんなにしたのは、お前なんだぞ」
茂樹は髪を離して、早苗の顎を思い切り掴んだ。早苗を自分に向かせて、噛みつくように言う。
「まじめに働いてた俺を、小遣いを渡して飼いならそうとしたのはお前なんだ。わかってるのか」
そう言って、突き飛ばすように、早苗の顎を離した。
「酷い。わたしは、茂樹が困っているからと思って、茂樹が泣きついてくるから、お金を渡していたのに。いつか茂樹が、真面目に働いてくれる。そう思って、茂樹の言うとおりにしてきたのよ」
「だから、そのうち働くつってんだろ」
茂樹が怒鳴った。
「いつよ。いつになったら、働くっていうの」
「うるせえんだよ。このアマ」
茂樹が、早苗を蹴り倒す。
早苗の我慢も、限界に達した。
「別れてやる。もう、あなたとはやってられないわ」
身を起こすと、唾を吐きかけんばかりの勢いで啖呵をきった。
「なんだと」
なおも、茂樹が手をあげようとしたとき、
「これ以上暴れると、誰かが警察を呼ぶわよ。このマンションは、それほど防音されてないんだから。もしかしたら、もう誰か呼んでるかもね」
早苗が静かな声で言う。
「チッ」舌打ちした茂樹が、「今日は、帰る」言って、もう一度、早苗を蹴った。
「いいか、お前がなんと言おうと、俺は、お前と別れる気はないぜ。もし、俺を裏切ったりしみろ。ずっと、お前に付きまとってやる。会社にも押しかけてやるからな。それだけは覚えとけ」
捨て台詞を残して帰っていった。
茂樹が帰ったあと、早苗は泣いた。痛いのか、悔し涙なのか、それとも、あんな男を彼氏として選んだ自分が情けないのか、自分でもわからなかった。
「そうなんですか。それはさぞかし、ご心痛のことでしょう」
早苗の話を聞き終えた綾乃が、痛ましそうな声を出した。その中に、わずかに怒りも含まれている。
「それで、清水さまはどうされたいのですか?」
「わからない。昨日は別れてやると思ったけど、朝になってみると、やっぱり未練があるのかなって」
早苗が涙声で答える。
「未練ではなくて、情ですね」
「情?」
「そうです。愛情ではなくて、ただの情。三年も付き合っているんですもの。情が移って当たり前ですわ」
「情…か? そう…、かもしれない」
いや、そうだ。
綾乃の言うとおりだ。茂樹に対して、自分の愛はもう冷めている。
それが今、はっきりとわかった。




