第5章 幻の人(VOL.3)
早苗は導かれるままに、部屋へと足を踏み入れた。
「ずいぶん、お疲れのようですね。心も、お身体も」
早苗の背中を押しながら、綾乃が静かに言う。
「不思議ね」
それには答えず、早苗が呟いた。
「なにがですか?」
「今日、杉田さんから、この店とあなたのことを聞いたとこなの」
言ってから、しまったと思った。
綾乃は、なぜか杉田から聞いたことを知っていたし、自分もそれを認めたが、自分からこんな話ををして、杉田が気軽に教えたとは思われたくなかったのだ。
「あ、でも、誤解しないで。杉田さんは、決して、気軽に綾乃さんのことを喋ったわけじゃないのよ。わたしが…」
「ご心配なさらずに」
慌てて言い繕おうとした早苗を、綾乃が優しく遮った。
「すべて、承知しております。杉田さまを責めることなどいたしませんわ」
その言葉に安心した早苗は、さきほどの話を続けた。
「わたし、杉田さんからここのことを聞いて、どうしても行きたいと思ったの。杉田さんは、わざわざ行かなくても、わたしが本当に助けが必要になったとき、わたしの前に、この店が、綾乃さんが現れてくれると言ってくれたんですけど、まさか、それが本当になるなんて」
「ふふ」
また、綾乃が妖しい含み笑いを漏らした。
「清水さまは、それほどお疲れなんですよ。それに、清水さまは、わたくしの施術を受ける資格がおありです」
「資格って?」
「とても、いい方だということです。清水さまも、杉田さまも。本来は、順調な人生を歩まれるはずだった。それが、なにかのはずみで、少し歪まれた。わたくしは、その歪みを直してさしあげようとしているだけです」
この人は、いったい何者だろう?
そう思ったのも束の間、直ぐにそんなことはどうでもいい気分になった。
こんな出来事自体があり得ないのだから。
それより、綾乃の声が心に沁みてくる。
この人になら、なんでも話せる。
不思議なことに、綾乃の声を聞いていると、自分が素直にねれるような気がした。
「聞いてくれます?」
その言葉が、思わず早苗の口から出ていた。
「どうぞ、遠慮なさらずに」
綾乃に促されて、早苗は、杉田に語ったことをすべて綾乃に打ち明けた。
綾乃の心地よい施術を受けながらなので、気負いも激高もなく、淡々と語ることができた。
「それから?」
早苗が語り終えたとき、綾乃が優しく尋ねた。
「それからって?」
「清水さまが抱えていらっしゃる問題は、それだけではありませんね。身近に、もっと大きな問題を抱えておいででしょう」
早苗の身体がぴくりと震える。
この人は、わたしの私生活を知っている。なぜ?
そんな疑念を抱いたのも一瞬だった。
そもそも、今の状況が異常なのだ。自分のことをすべて知っていたとしても、今さら驚くことはない。
「綾乃さんは、なんでもお見通しのようね」
早苗が、ため息ともつかぬ声で言う。
「ふふ」
またもや、はぐらかすような妖しい笑い。
「実は、彼氏のことなの」
あっさりと認めた。
早苗の彼氏は、彼女より二つ年下だ。彼氏とは、あるコンパで知り合った。名前は宮前茂樹。付き合って三年になる。
二人は、同棲しているわけではない。茂樹は実家で暮らしており、気が向いたときに、早苗の部屋へ泊りにやってくる。ときには、深夜でも平気でやってくる。早苗が寝てるかどうかなんておかまいなしだ。鍵は渡してあるので、勝手に入ってくる。自分が来たときに早苗が寝ていると、ひどく機嫌が悪くなる。
見てくれはいいのだが、中身はまるっきりの子供だった。そこそこの大学を卒業し、そこそこの会社に入ったものの、なにが気にくわなかったのか、二年足らずで辞めてしまった。以来、ずっとフリーター生活だ。
早苗が出会ったときは、会社を辞めて一年目のときだ。最初から見てくれだけで、中身が伴わないことはわかっていた。
しかし、男とは情けない生き物だと思っていた早苗は、中身については気にしなかった。
どうせ、どんな男を選んでも同じようなものだろう。中身なんて、これから自分が変えていけばいい。見てくれがいいだけましではないか。ぶさいくで、情けない男は最悪だ。そんな基準で選んだ。
その選択が最悪だったことに、付き合って直ぐに気付かされることになる。




