第1章 敏夫(VOL.2)
それからの敏夫の生活は一変した。
小遣いを減らし、高級クラブへ足を運ぶ代わりに、安いスナックへと鞍替えした。
妻の里美には、車も中古の大衆車に乗り換えてくれと頼まれた。その差額で、少しでも繰り上げ返済をしたいのだと。
敏夫は、車を変えても維持費は変わらないし、近所の手前そんな恥ずかしいことができるかと突っぱねた。それならば、もっと小遣を減らして、酒は家で飲んでくれと頼まれた。
惨めな気持ちだった。
俺は、家族のために頑張っているのに、なんでここまで我慢しなけりゃならないんだ。
それを、里美にぶつけた。
「だったら、お前も働けよ」
敏夫は家計を知らない。里美が家計簿を見せても理解できないし、逆に無駄遣いが多いと怒る始末だ。
少しでも家計を浮かせようと、特売品を求めて、里美がスーパーを駆けずり回っていることも、昼間は電気を消してテレビも点けず、極力電気代を浮かせていることも知らなかった。
言えば、「俺のせいなのか」と逆ギレするだけである。
これ以上、あの人に求めるのは無理だ。それに、あの人だって頑張っているんだし。
そう思った里美は、専業主婦をやめて働くことにした。
しかし、里美と同じ状況の人々は、掃いて捨てるほどいる。
資格もなく、手に職もない里美は、必死で探した挙句、時給の安いパートにありつくのがやっとだった。
里美のパート代。これだけでは、ボーナス時に設定していたローンには、とても追いつかない。
それに、子供も二人できたので、里美のパートは途切れ途切れになり、養育費も重くのしかかってきた。
二人の両親は、どちらもそれほど裕福ではない。それにもかかわらず、両方の親は、出来る限りの援助をしてくれた。
といっても、たまに孫に服を買ってくれたり、食糧を送ってくれる程度で、ローンの返済までしてくれる余裕はなかった。
そうして、金融機関から借りられるだけの借金をして返すという、自転車操業に陥っていった。
そんな状況が長年続いて限界が目前に迫ったとき、敏夫の会社が早期退職者を募った。敏夫が五十路まであと少しというときである。
里美はここぞとばかり、敏夫に退職を迫った。
このまま会社にいても給料が上がる見込みはなく、退職金すら見込めない。今ならば、退職金に上乗せがある。
入社してから三十年弱、会社に愛着があるというより、外の世界を知らない敏夫は、環境が変わるのを嫌った。
渋る敏夫に、里美は離婚をちらつかせて、強引に退職させてしまった。
ここにきて敏夫は、ようやく事の重大さに気づかされた。
里美の勧めに従い、渋々ながら会社を辞めた。
そのお蔭で、借金を返せたばかりか、余ったお金でローンの繰り上げ返済をしたため、残りのローンは 安い賃貸を借りている程度にまで減った。
こうしてローン地獄からは抜け出せたものの、敏夫は、新たな苦労を背負い込むこととなった。
いくら不況とはいえ、上場企業ともなれば、中小や零細とはまったく違う。
まず、余程のことがない限り倒産の心配がない。それに、いくらカットされたとはいえ、給料もそこそこだし、ボーナスも出ないということはない。
だが、小さな会社は違う。そもそも、給料が驚くほど安い。ましてや、ボーナスなぞ出ればめっけもので、出なくて当たり前の会社も多い。その上、仕事がきつい。今までだったら、アシスタントか専属の部署が行っていた仕事までもを自分でやらなくてはならない。まさに、一人で二役も三役もこなさなければいけないのだ。
敏夫は、今の勤め先が見つかるまでに半年を要した。それでも、順調にいったほうだ。大手に勤めていたのと、再就職支援を受けたことが幸いしたのであろう。
しかし敏夫は、大きな衝撃を受けた。出身大学も自慢できるし、勤めていた会社も自慢できる。だから、直ぐに就職先が見つかるものと高を括っていた。
そう、敏夫は、あまりにも世間を知らなさすぎたのだ。