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第5章 幻の人(VOL.1)

 敏夫と早苗の帰る家は反対方向なので、駅で別れた。

 早苗は、敏夫と違って都心部に住んでいる。

 一人暮らしなので、探せば家賃の安い貸家もあるのだ。もっとも、贅沢を言わなければだが。

 早苗は、別段お洒落に暮らしたいとは思っていなかったので、通勤に便利という合理的な基準で選んでいた。

 実家は青森で、東京の大学へ進学したため、大学時代から親許を離れて暮らしていた。

早苗の父親は、東京へ行くくらいなら大学なんかに行くなと、早苗の東京行きを許さなかったが、青森でも田舎の方に住んでいたため、就職口があまりないのを理由に、父親の反対を押し切って、早苗は東京の大学に進学した。

 大学に進学せず就職を選んでいたとしても、町役場か農業関係しかなかった。

 普通の企業に就職しようとすれば、実家から最低でも二時間以上はかかるし、バスの終わる時間が早いので、同僚と食事にも行けないし、残業もままならない。

 なにより、早苗は東京の生活に憧れていた。

 中学を卒業する頃には、なにがなんでも東京へ行くと決めていた。たとえ、父親と絶縁しようとも。

 早苗の父親は、過保護というより、どちからかというと支配欲の強い人間だった。

 父親の言うことに従っていれば、就職も転嫁先も、父親が決めていただろう。常に、自分の手元に置いておけるようにだ。

 そんな父親から、逃げたかったのもある。

 母親が後押ししてくれたのも大きかったが、最終的には東京へ行くことを許してくれないのだったら縁を切るという一事が効いた。

 いくら支配欲が強いといっても、娘に縁を切られてはたまらないと思ったのだろう。

 それだけ、早苗は本気だったのだ。

 今日は、杉田さんを誘ってよかった。

早苗の気分は、いくぶん晴れていた。

 まだ忸怩たる思いはあるが、それより早苗は、杉田の言った『幻庵』のことに心を囚われていた。

 そんなお店が、本当にあるのだろか?

 杉田の話を信じるとは言ったものの、それでも早苗は、半信半疑だった。

 そんなお店が、本当にあったらいいな。

 どんな店だろうか? 

 早苗は心の中で、あれこれと思い描いた。

 こう言っては失礼だが、あの杉田があそこまで変貌したのだ。

 杉田が入社してきたとき、早苗は一目見て、これは駄目だと思った。案の定、うだつが上がらなかった。そのくせ、プライドだけは人一倍高い。

 そんな杉田を、早苗は冷ややかな眼で見ていた。それが、今一番頼れる存在になろうとは。

 早苗は、これまで誰にも愚痴をこぼさず、なんでも一人で決めてきた。嫌なことがあっても耐え、障害があれば跳ね返してきた。いつも、自分ひとりの力でそうしてきた。

 今は、杉田のことを信頼している。

 早苗がこれまで出会った男性の中でも、稀有の存在だ。

 杉田を見ていて、人ってやる気になれば、こんなにも変われるものなんだという驚きと、自分も変わりたいという思いを抱いた。

 早苗は、決して強い人間ではない。自分でも、それはわかっている。人に頼らず、なんでも一人でやってきたのは、ただ、意地があるからだ。

 寂しさや悔しさで、夜眠れないこともあった。幾度も挫けそうになり、その度に、田舎に帰ろうと思った。

 それを思い留まらせたのは、父親に対する意地、会社に対する意地、世間に対する意地。そして、なにより、自分に対する意地のためだ。

 変わりたい。杉田さんのように強くなりたい。

 今の杉田を見ていると、無理をしているようには見えない。自然体で臨み、生き生きとして見える。

 自分は無理をしている。自然体でいようと心掛けてはいるが、今の自分では、無理をせざるを得ない。

ため息をついた。


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