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第4章 早苗(VOL.8)

 敏夫は、『幻庵』のことを打ち明けるべきかどうか思案した。

 しばらく悩んでいたが、早苗の切羽詰まった表情を見て決心した。

「清水さん。あなたにだけは打ち明けよう」

 敏夫が、真剣な眼差しを早苗に向ける。

 早苗が緊張しながら、無言で頷いた。

「最初に言っておくけど、これから話すことは突拍子もないことだから信じられないかもしれないけど、すべて本当のことなんだ」

 そう前置きして、敏夫は『幻庵』のことを話しだした。

 早苗は、食い入るような眼で敏夫を見ながら、耳を傾けている。

「と、いうわけなんだ」

 すべて話し終えた敏夫が、早苗の反応を窺うように、覗き込むように早苗の目を見つめた。

「信じるか信じないかは清水さんの勝手だけど、最初に言ったように、これは本当のことなんだ。決して、あなたをからかっているわけじゃない」

 早苗が信じていることを確信して、敏夫がそう締め括る。

「確かに、信じがたい話ですけど、でも、わたしは信じます。そんな話、咄嗟に造れるものでもありませんし、なにより、杉田さんが嘘をつくとは思えません」

「ありがとう」

 敏夫の胸中は複雑だった。

 綾乃のことは里美にも言わなかったのに、早苗には話してしまった。本当に、これで良かったのだろうか? しかし、どうしてか、言っても構わないという気になった。

「わたし、明日にでも、その店へ行ってみます」

 早苗の瞳に、希望の光が灯っている。

「それはいいけど、見つかるかどうかわからないよ」

「どういうことですか?」

「俺はね、毎日、その店の前を通っているはずなんだけど、不思議なことに、看板を見た記憶がないんだ。店へ入った二回以外はね」

「そんなことが…」

「あるんだ」

 敏夫が早苗の後を引き取った。

「毎日注意してるわけじゃないけど、ふと思いついたときに、今日こそは看板を見てみようと思って通るんだけど、気がついたら商店街を抜けているんだ」

「そんな……」

 早苗が、信じられないという顔をしている。

 そうだろうな。

 実際、敏夫も信じられないのだ。

 幾度か目を皿のようにして、店があったと思われる近辺を歩いたが、看板は見つからなかった。そして、商店街を抜けたとき、そんなことは忘れていた。あとから、ふっと、そんなこともあったっけという、かすかな記憶が蘇るだけだ。

「あの店は、名前のとおり、本当に幻なんじゃないかな。心が、どうしようもないほど悲鳴をあげている。そんなときに、ふと現れる。俺は、そう思っている。自分から探し求めても無駄なんだって」

「そんなことが、本当にあるんでしょうか?」

「わからない。でも、事実、俺はそれで救われたよ」

「そうですか」

 早苗が項垂れ、悄然として肩を落とす。

「清水さん。あなたがわざわざ出向かなくても、あなたが本当に助けを必要としたとき、あなたの前に、あの店が現れる。俺は、そんな気がする」

 早苗を励ますつもりで言ったのではない。ならば、逆効果だ。ありもしないことを言うなんて、余計に早苗を傷つけるだけだ。

 落ち込む早苗を見るうちに、敏夫は、本当にそんな予感がした。店のことを話したのも、こんなことを言ったのも、綾乃さんの意思が働いているのかもしれない。そう思った。

「だと、いいんですけど」

 力のない声で言う早苗に、

「大丈夫、きっとそうなるよ。もし、そうならなくても、俺ができる限り相談に乗る。そして、できる限りのことはやらしてもらう」

 言葉に力を込めて、早苗の目を見つめる。

「どうして、わたしにそこまでしてくださるんですか?」

「俺は、あなたのお蔭で、ここまでこれたと思っている。あのとき、あなたが、快く俺の頼みを聞いてくれたから。それからも、いろいろと教えてもらった。だから、あなたが困っていたら、できる限り力になりたいんだ」

 本当にそう思っている敏夫の言葉は、真実に溢れていた。

「わたしは、そんな大したことはしてません。でも、ありがとう」

 早苗が、深々と頭を下げた。

 下を向いた早苗の瞳が潤んでいたことには、敏夫は気付かないふりをした。



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