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第4章 早苗(VOL.5)

 いつの頃からか、社会人に勝ち組、負け組というレッテルが張られるようになった。勝ち組は人生を謳歌し、負け組は社会のゴミのように蔑まれる。その言葉も、ここ最近は使われなくなった。勝ち組だった 人間も、いつ負け組に転落するかわからないからだ。

 まさしく、明日をも知れぬ戦場となった証である。

 家のローンを抱え、子供の学費に多大な出費を強いられる。こんな世の中になっても、いや、こんな世の中だからこそか、小さな会社より大手だとの信奉で、無理してでも塾へ通わせる。

 クビを切られた社員は、それらの負担が重くのしかかり、これまで夢見てきた人生が足元から崩壊する。それでも会社は、不幸な人間を大量生産するのをやめない。まるで、切られた社員が悪いとでもいうように。

 バブルの頃までは、出世競争に乗り遅れても飼い殺しになるだけで、解雇まではされなかった。しかし今は、まともに仕事をしていても、いつ解雇されるかわからない。

 今や、社員は、完全に使い捨ての駒となってしまった。

 それらのことに敏夫が気付いたのは、綾乃に出会ってからだ。

 出世競争に付いていっていた分、敏夫は、会社という魔物の邪悪さに気付くのが遅れた。それと、クビを切られたのではなく、早期退職したことも、気付くのが遅れた要因だった。

 今、敏夫は、くだらぬプライドだけで仕事ができないということを、嫌というほど知っている。

 プライドとはなんだろう?

 そう敏夫が考えたとき、「杉田さん」早苗の呼ぶ声が聞こえた。

 我に返って、早苗を見る。

 早苗は、心配そうに敏夫を見ている。

「大丈夫ですか?」

 自分の言ったことで、気を悪くしたのではないだろうかと思っているようだ。

「あ、ああ、ごめん。ちょっと、思い出してたんだ。昔の自分をね」

「すみません。わたしが、変なことを訊いたものだから」

 申し訳なさそうに、早苗が謝る。

「いや、清水さんのせいじゃないよ」

 敏夫が手を振った。

「俺は、本当に気にしていないから、そんなに恐縮しなくってもいいよ」

「本当ですか?」

 疑わしそうな顔で、早苗が上目使いに除き込んでくる。

「本当だ」

 敏夫が、きっぱりと首を振る。

「ああ、よかった。わたし、てっきり、杉田さんの気を悪くしちゃったのかと思いました」

 早苗が安堵の表情を浮かべた。心底、ほっとしているようだ。

「悪いな、気を遣わせちゃって」

 敏夫が微笑んだ。

「ええと、どこまで話したっけな。そうそう、そんなとき、ふとしたことで、ある人と出会ったんだ。その人がね、気付かせてくれたんだよ。一番大切な人は誰かってね。俺にとって、一番大切な人は女房なんだ」

 早苗は食い入るように敏夫の顔を見ながら、真剣に耳を傾けている。

「俺はこの会社に入って、思うように成績が上がらなかったもんだから、女房や子供に当たっていたんだ。恥ずかしい話さ」

 敏夫が自嘲の笑みを漏らしたが、早苗は非難するでもなく、ただ黙って聞いている。

「そんなわけで、その人と出会った時は、妻とも子供ともうまくいってなかった」

「今は、うまくいってるんですか?」

 恐る恐るといった口調で、早苗が口を挟んだ。

「ああ、お蔭さまでね。一番大切な人が女房だと気付いて、俺は考えさせられた。仕事が苦しいからって、家庭に当たってどうする。家庭を守るために働いてるのに、本末転倒じゃないかって。このままだと、家庭は崩壊してしまう。事実、女房は離婚を考えていたみたいだ。そうなっていたと思うと、ぞっとするよ」

「どうやって、奥さまとの関係を修復したんですか?」

 俄然、興味が湧いたのか、早苗の眼が輝いている。

「ひたすら声をかけた。行ってきます。ただいま。ごちそうさま。お休みって。最初は無視されていたけど、だんだんとほぐれてきてね、なにかいいことでもあったのと訊いてくれたんだ。それをきっかけに、仲直りしたというわけさ」

「どのくらい、そうしてたんですか?」

「さあ、二週間くらいかな」

「二週間ですか、辛かったでしょうね」

「俺は、一年くらい、いや、転職活動中も含めると、二年近くも女房に辛い思いをさせてきたんだ。二週間なんて、なんてことないよ」

 敏夫は、早苗の言葉を恥ずかしそうに打ち消した。

「素敵な旦那さまですね」

 早苗がなんともいえぬ笑顔を向けてくる。

「俺が? まさか? 冗談はよしてくれよ。俺が素敵な旦那だったら、最初から女房に当たったりはしていないよ」

 この人は、本気で言っている。

 これまで、男の嫌な部分を数多く見てきた早苗には、新鮮な驚きだった。

 


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