第4章 早苗(VOL.4)
敏夫の笑顔を見て、早苗は一瞬安堵したが、直ぐに真顔になって手を振った。
「いえ、そんなことは」
「いいよ、否定しなくても。本当のことだから」
敏夫が、穏やかな笑みを浮かべる。
「確かに、つい前までは、俺も持っていた。それは、清水さんもわかっているだろう」
早苗は、顔を赤らめて俯いてしまった。
「清水さんが聞きたいのは、そんな俺が、なんで変わったかということなんだね」
早苗が黙って頷く。
「確かに、そんなプライドは、なかなか取り払えないものな」
苦笑して、敏夫はジントニックを一口飲んだ。早苗は両手を膝に置いて、敏夫の顔を見つめている。
「まあ、そう固くならずに、清水さんも飲んでよ」
「はい」
敏夫に勧められて、早苗も目の前に置かれてあった梅酒ロックを手に取った。
「俺が変われたのはね、ある人のお蔭なんだ」
「ある人の?」
飲みかけていたグラスを口から離し、早苗が訊いた。
「そう、あの時の俺はね、仕事だけじゃなく、妻や子供ともうまくいってなかったんだ。清水さんのいう通り、くだらないプライドのせいでね」
そう言って、敏夫が遠い眼をする。
あの頃は地獄だった。
敏夫は退職してから、初めて綾乃に会うまでの辛い過去を思い出していた。
なかなか決まらなかった就職口。度々、エージェントにたしなめられたこと。それでも、こいつはなにを言っているんだとしか思わなかった。
今の会社に採用が決まっとき、嬉しさよりも、情けない気持ちが先に立った。大手に勤めていた俺が、なんでこんな小さな会社に勤めなきゃいけないのかと。
こんな会社だったら、直ぐに営業成績はトップになるだろうと思っていた。それなのに、全然うだつが上がらなかった。
自分が悪いことに気付かず、会社や取引先のせいにして荒れた。
自分は孤独だと思い、むしゃくしゃして、妻や子供に当たっていた日々。
今ならわかる。それもこれも、すべてはくだらぬプライドのせいだったと。
敏夫は幼い頃から、勉強をしない子はろくな大人になれないと、厳しく両親に躾けられてきた。
将来、立派な大人になるためには、学生のうちに勉強しておくことだ。でないと、惨めな生活を送ることになる。いい大学に入って、大手の企業に就職する。それが幸せなのだと。
敏夫は両親の言葉を信じて、ひたすら勉強してきた。中学、高校と部活もしないで、ただ、学校と塾に通いつめ、家でも勉強に明け暮れる日々を過ごした。
その結果、人様に自慢できるような、名だたる大学に進学できた。それでも、敏夫は油断しなかった。 大学がゴールだと思い、志望通りの大学に入学できたことで油断した者は大勢いた。
そういう奴らは、入学と同時に遊び始めた。講義にも顔を出さず、学業そっちのけで青春を謳歌していた。
馬鹿者共が。
そういった学生を、敏夫は腹の中で小馬鹿にしていた。
本当のゴールは、就職なんだ。いい会社に入ることこそ、本当のゴールなんだ。
そう思っていた。いや、親に思わされていたのかもしれない。
その甲斐あって、優良企業に就職できた。
入社仕立ては有頂天だった。これで、幸せな人生が送れると。しかし、直ぐに就職がゴールではないことを思い知らされた。
熾烈な出世争い。大手は社員数が多い。反して、上にいける人数は限られている。それに、良い大学の出身者など掃いて捨てるほどいた。
そこは戦場だった。命を取られないだけましだが、まぎれもなく戦場だったのだ。
油断していると、飼い殺しにされる。一生、日の目を見ることができない。
会社という名の戦場では、学歴は入社時と仕事ができる者にのみ有利に働いた。仕事のできない者には、学歴はなんの役にも立たないどころか、却って不利になるけだった。仕事のできる、同じ大学の出身者と比べられるからだ。
学校では、そんなことは教えてくれなかった。学校が教えてくれたのは、ただただ、良い成績を取ることだけだ。
あれだけ敏夫を洗脳してきた両親も、そんなことは言ってくれなかった。敏夫が恨み言を言ったとき、ただ頑張れと励ますことしかしなかった。
それでも、敏夫はなんとか脱落せず、競争に付いていった。
そんな厳しい社会でも、バブルの頃まではまだよかった。
バブルが弾け、不況が長引き、リーマンショックが追い打ちをかける。日本全体が出口のない迷路に迷いこんだとき、社員を守るべき会社が、社員に牙を剥いた。鋭い爪をたて、社員に襲いかかってきたのだ。
減給、賞与カット、リストラという名の大義名分のもとに行う首切り。
調子のいいときは、どんどん人を雇い入れるくせに、いざ会社が危ういとなれば、情け容赦なく大事な社員を切り捨てる。社員や家族の生活なんか知ったことじゃないとでもいうようにだ。
過労死、鬱による自殺。我慢して勤めても、いつ死が待っているかわからない。馘になれば、たちまち生活が貧窮する。
今、会社は、本物の戦場になった。




