第4章 早苗(VOL.2)
早苗は、敏夫が苦手だった。
他の男性社員が、自分のことをあまり良く思っていないのは知っている。陰で悪口を言っているのも。 そこに敏夫が混じっていないのはわかっていたが、どこか自分を見下したようなところがあり、それが早苗に、かすかな嫌悪感を抱かせていたのだ。
どういった訳か、最近の敏夫は変わってきている。しかし、早苗も他の社員と同様、クビになるのを恐れて、皆のご機嫌取りをしているくらいにしか思っていなかった。
そんなんだから、敏夫から急に声をかけられて、早苗は驚いたのである。と同時に、なぜ自分に声をかけてきたのだろうと訝しんだ。
「なんでしょう?」
硬い声で尋ねる。
「お帰りのところ申し訳ないんですが、ちょっと相談に乗ってくれませんか」
「相談?」
まさか、自分に手を出そうというんじゃ?
咄嗟にそう思った。
これは決して、早苗の自信過剰ではない。これまで早苗は、男の欲望というものを、嫌というほど見てきた。中には、あからさまに誘いかける者もいるが、大抵の男は、「相談にのるよ」とか「相談にのってほしいんだけど」といった誘い文句を使って突破口を開き、魔手を伸ばそうとしてくるのだ。
それに、これまで敏夫は、早苗に敬語を使ったことなどない。だから余計に、早苗に疑念を抱かせたのだ。
「ええ、明日提出する見積もりを作ったんですが、それを、清水さんに見てもらいたいんです」
敏夫の屈託のない笑顔が、早苗の疑念を打ち消した。同時に、別の疑念が湧き起こる。
あんなにプライドの高い人が、なぜわたしに?
早苗は、敏夫が以前は大手の会社に勤めていたことを知っている。自分を見下したようなところがあるのは、そんなプライドからだろうと思っていた。
「わたしに?」
早苗は、自分の怪訝な感情をそのまま顔に出した。以前の敏夫なら気を悪くするだろうと思ったが、それはそれでいいと、どこか試すような気持ちもあった。
「迷惑だとは思いますが、部長はもう帰ってしまいましたし。明日、10時にアポを取ってあるので、訂正があれば今日のうちに済ませておかないと間に合わないんですよ」
早苗の意に反して、敏夫は気を害することなく、はにかんだような顔で説明する。
「いいけど、でも、なんでなんですか?」
この人は、本当に変わったのだろうか?
敏夫の態度に驚きながら、新たな疑念が湧く。
「なんでとは?」
「だって杉田さん、今まで一度も、見積もりを確認してもらったことなんてないでしょ」
「気付いたんですよ」
なんともいえぬ笑顔を、敏夫が浮かべる。
「僕はね、これまで、くらだないプライドを持ってました。前に大手にいたっていうだけでね。でも、そんなものは、この会社じゃなんの役にも立たない。そんなしようもないプライドにしがみついていたって、成績なんか上がりっこないってことに」
恥ずかしそうに、素直に告白する敏夫を、早苗はまじまじと見つめている。
「今さら遅いかもしれませんが、気付いた以上、僕は出来るだけのことはやりたい」
敏夫は本音をぶつけた。
「最近の杉田さんは頑張ってるじゃないですか。受注も取れてるし。なんで、確認しないといけないんですか」
気付いたからといって、プライドの高い人がここまで変われるものいだろうか?
早苗は、驚きを隠しながら尋ねる。
「受注が取れたといっても、細かい案件ばかりです。でも、明日のは違う。結構、大口の案件なんです」
敏夫が、真剣に説明する。
「そうなんですか?」
敏夫の説明が、早苗には腑に落ちた。しかしまだ、腑に落ちないことがある。
「でも、まだ大谷さんも残ってますよ。なぜ、わたしなんですか?」
「それはね、清水さんが一番出来る人だからです。恥ずかしい話ですが、清水さんのテクニックを少しでも勉強させてもらえたらと思って。これまで清水さんを見下したような態度を取ってきたことは謝ります。虫のいい話かもしれませんが、どうかお願いします」
敏夫が頭を下げた。
早苗の顔に、驚きが広がった。
この人は凄い。
確かに、このままいけば、お払い箱になる日も遠くない。そうなると、この年齢での転職は厳しい。まして、小さな会社をクビになった人間など、雇ってくれる会社なんてどこにもない。
それがわかっていても、プライドの高い人間は自分を変えられない。そうやってどん底に落ちていった人間を、早苗は何人も知っていた。
そんな人間は、そうなったとき、精神に破たんをきたすか、無気力になるか、あるいは卑屈になっていく。しかし、今の敏夫に卑屈さは微塵もない。それどころか、今までと違い生き生きとしており、仕事に貪欲さをみせている。
これまで見下していたことを素直述べ、真摯にに謝り、教えを乞う。
年下や女性なんてのは関係なく、一番出来る人だと言い、自分のテクニックを勉強したいと言う。
なにが、この人をここまで変えたんだろう?
早苗は、激しく興味を掻き立てられた。
「いいわ。見せてくれる」
これまで敏夫に抱いていた嫌悪感は消え失せて、早苗は敏夫に協力する気になっていた。




