第4章 早苗(VOL.1)
「おはようございます」
敏夫が爽やかな笑顔を浮かべて、大声で元気よく入ってきた。
職場にいた人々が、びっくりして敏夫を見た。
無理もない。これまでの敏夫は、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ぼそぼそと挨拶らしきことを言って、元気なく席に着いていたのだ。
敏夫のあとから出社してくる社員にも、敏夫はひとりひとり元気よく声をかけた。
敏夫は営業部に所属している。といっても、小さな会社だから、狭いワンフロアに事務や経理も一緒に席を置いている。そこには敏夫を含め、総勢10名しかいない。そのうち、営業部は七名だ。もちろん、課などはない。部長が1人いるだけである。あとは、事務が二人に、経理が一人だけだ。
社長だけは、狭いながら社長室を持っている。
「ねえ、杉田さん、どうしちゃったのかしら」
「さあね。おおかた、クビになりそうなんで、そうならないうちに媚でも売っておこうという魂胆じゃないか?」
「なにか、いいことでもあったんじゃない」
そんな言葉が、杉田の眼を盗みながら、ひそひそと囁き交わされている。
それだけ敏夫の変貌ぶりが、みんなを戸惑わせていた。
そんなことなど一向に意に介する様子もなく、敏夫は人が変わったように、いつも明るく振る舞った。
中には、露骨に戸惑いの色を見せる者や、「今から態度を変えても、遅いんじゃないの」と露骨に嫌味を言う者もいたが、それでも敏夫は、嫌な顔ひとつ見せずに受け流した。
得意先にも同じような態度で接し、徐々に好感度を上げていった。新規で飛び込んだ先も、門前払いをくらう頻度が減っていった。
それに連れ、少額ではあるが、売上高が増えていく。
敏夫は、転職して初めて、仕事が楽しく感じられた。いや、こんな気持ちで仕事をするのは、社会人になって初めてのことかもしれない。それだけ、敏夫の毎日は充実したものになっていった。
気持ちの持ちようで、こんなにも違ってくるものなんだ。それに気付かせてくれた綾乃には、感謝してもしきれない。敏夫は、日々綾乃への感謝を忘れなかった。
もちろん、里美への感謝も。
里美との仲は、口を利かなかった時代が嘘のように、あれから睦ましい日々が続いている。
ここで、甘えてはいけない。驕ってしまっては駄目だ。
充実した日々を過ごしながらも、敏夫は、いつも自分を戒めることを怠らなかった。
ある日のこと。
「清水さん」
残業をしていた清水早苗が帰ろうと思い、パソコンの電源を切ろうとしたとき、隣の席の敏夫が呼び止めた。
これまで、挨拶はしても、敏夫に声をかけられたことなど一度もない早苗が、驚いた顔を向けてくる。
時刻はすでに八時を回っており、社内には数人しか残っていない。
清水早苗。もう直ぐ、三十路を迎える年齢だ。
早苗も営業部に所属している。途中入社だが、敏夫より三年早くこの会社に勤めており、やり手で自分より古い社員を追い抜いて、常にトップの成績を収めている。
可愛らしい顔をしているので、心ない男性社員は、顔がいい女性は得だとか、酷いのは枕営業をしているんじゃないかといって、陰で中傷していた。
もちろん、根も葉もないことで、ただのやっかみに過ぎない。
早苗は、前職でイベントや企業展示会などのコンパニオンをしていた。しかし、若いうちしかできない職業でもありセクハラも多かったので、早めに見切りをつけて転職した。
コンパニオン時代に培った会話のテクニックと愛想のよさを武器にして、入社以来みるみると成績を伸ばしていったのだ。
男性社員の言うように、可愛らしい顔が多少役に立つときもあったが、それよりも、相手のセクハラに悩まされることのほうが多かった。
社長や重役連中は、なぜか女好きが多い。
男とはすべからくそんなもので、たまたま権力を握っているからよけい図太くなっているのかもしれないし、英雄色を好むの言葉通りなのかもしれない。
食事や飲みに誘われるのはまだ良いほうで、あからさまに身体を要求してくる者や、夜遅くに会社に呼び出す者までいる始末だ。
相手が取引先だと、セクハラで訴えるわけにもいかない。
ここでも、コンパニオン時代の経験が役に立った。
そんなことは、その時代に嫌というほど経験している早苗だから、角が立たぬよう、うまくあしらう術を心得ていた。
そんな苦労は、男性社員は知らないし、想像もできないだろう。




