第3章 綾乃(VOL.4)
そんな大事なことに、今まで気付かなかったなんて。
昔のプライドを捨てたつもりだったが、まだまだ捨て切れていなかった。
成果を上げるためには、会社や取引先の人間に信用され、また信頼されないといけない。
ポイントカードが示す『信』とは、そのことを指しているのだ。
前の時とは違い、今度は明確にそれがわかった。ひとつ進歩したといえる。
「おわかりいただけましたか」
食い入るようにポイントカードを見つめている敏夫に、綾乃が声をかける。
「ええ」我に返ったように顔を上げて、「ありがとう」敏夫が顔を綻ばせた。
敏夫の礼には答えず、綾乃が小さく頷いた。
「ところで、今日はいくらですか?」
敏夫が、スーツの内ポケットから財布を取り出した。
「お金はいりません」
「それはいけない。このあいだも払っていないのに」
「お代がいらないとは言ってませんわ。それに、もう頂きました」
笑みを浮かべて、綾乃が言う。
「えっ」
敏夫が驚いた。
「いつ? 誰に?」
「誰にって、杉田さまに決まってるじゃありませんか」
「俺、払ってませんよ」
敏夫が怪訝な顔をして、財布の中を見る。
「いやですね、人さまのものを勝手に取ったりしませんよ」
綾乃が口に手を当てて、ころころと笑った。
確かにそうだ。綾乃に限って、人の財布から勝手にお金やカードを抜くはずはない。一瞬でも綾乃を疑った自分を恥ずかしく思い、敏夫は顔を赤らめた。
「わたくしの施術料は、お金じゃないんですよ」
疑われたことなど意に介するふうもなく、綾乃が謎めいた言葉を口に出す。
「じゃあ、なに?」
「それは、お聞きにならないでください」
笑顔ではあるが、口調には、絶対に答えないという固い意志が宿っている。
「わかった。もう、聞かない。でも、本当にいいの?」
綾乃が無言で頷く。
「そう」
敏夫はそれ以上、この話題を続けるのをやめた。
「ありがとう。今日も、気持ちが軽くなったよ。身体も楽になったし」
敏夫はありったけの感謝を込めて、笑顔を浮かべた。
「お気をつけて」
綾乃の声を背中に聞きながら、敏夫は店を出た。
時計を見ると、やはりこの前と同じように、五分と経っていない。どう考えても、一時間以上は過ごしていたはずだが。
そのとき、店には時計がひとつもなかったことに、敏夫は気付いた。普通マッサージ店であれば、施術時間終了を知らせるタイマーを置いているはずなのに、それすらもなかった。
『幻庵』
その名前が、敏夫には引っかかった。
あの店は、現実の世界にあるものなのだろうか?
前の通り、自分は幻を見たのだろうか?
いや、そんなはずはない。あれは、確かに現実のものだった。
敏夫が、ポケットからポイントカードを取り出す。
『感』、『信』そう書かれたカードは、現実に敏夫の手の中にある。
もしかしたら、あの店は別次元にあるのかもしれない。だとしたら、綾乃さんはこの世界の人間ではないことになる。
あの人は、一体?
そこまで考えて、敏夫は思考を打ち切った。
そんなことは、どうでもよいことだ。あの店が、現実のもであろうとなかろうと、綾乃さんが人間であろうとなかろうと。なににせよ、今日もあの人に救われたのだ。
敏夫は、もう一度カードを見た。空の枠があと二つ。
俺は、あと二回、試練を乗り越えなければならないのか?
一回は、子供のことだとわかっていた。
最後の一回は?
それを、今考えたところで仕方がない。今は『信』。これをどうすればよいか、それだけを考えればいい。
それに、あと二回は綾乃さんに会えるのだ。そう思うと、敏夫の心が弾んだ。
カードをポケットに戻し、敏夫は、大好きな妻の待つ家へと足を向けた。




