第3章 綾乃(VOL.1)
月曜日、会社へ赴く敏夫は、いつもとは違い、足取りが軽かった。
相変わらず子供たちとの会話はなかったが、妻の里美とよりを戻せたのが大きかった。
やっと、一歩踏み出せたのだ。
この調子でいけば、きっと仕事もうまくいくと、敏夫は思っていた。
しかし、現実はそう甘くなかった。
里美との仲を修復してから二週間、敏夫は頑張った。
最初の一週間は気分が高揚していたこともあり、結果が出なくてもそれほど落ち込みはしなかった。
しかし、二週目も終わりになると、いくら頑張っても結果を出せない自分に、敏夫の精神は疲弊していた。
ようやく、やる気が出てきたのになんてことだ。いったい、俺のなにがいけないんだ。
自問自答する日々が続いた。
里美には、もう家では当たらないと誓った。
ここで自分が元に戻ってしまったら、今度こそ家庭は崩壊してしまう。それだけは避けたかった。それが余計に、敏夫の心に負担を強いていた。
初めて綾乃に出会ったときと同じように疲れた顔で、希望の丘商店街を歩く敏夫の目に、ふと懐かしい看板が飛び込んできた。
『幻庵・心穏堂』
そういえば、ここ最近、この看板を見ていなかったような気がするな。
毎日ここを通っているというのに、あれ以来、敏夫はこの看板を目にした記憶がない。
敏夫が気にも留めなかったのか、あるいは、敏夫の心が疲れたときだけに現れるのか?
そんなことはどうでもいい。
敏夫は、迷わず店へ入った。
「お待ちしておりました。杉田さま」
この前と同じように、親しみのこもった笑顔で、綾乃が迎えてくれた。
その顔を見て、敏夫はなぜか救われた気分になった。
「お久しぶりです」
敏夫も、綾乃に負けないくらいの笑顔で挨拶した。
前と違って、敏夫の言葉遣いが変わっている。
「そのご様子ですと、少し、心の負担が軽減されたようですね」
「うん、妻と仲直りできた。これも、綾乃さんのお蔭です。ありがとう」
なんのためらいもなく、礼の言葉が口から出てきた。
「違います。杉田さまが頑張ったからですわ」
綾乃がさらりと答えて、敏夫をカーテンの向こうへと案内し、着替えを差し出す。
「まだ、だいぶ、心がお疲れでございますね」
敏夫の背中を、微妙な指使いで圧しながら、綾乃が敏夫の耳元で囁く。
「うん、疲れた。妻との仲は戻ったんだけど、仕事が思うようにいかなくて。子供たちとも、あのままだし」
母親に甘える子供のように、素直に答える。
「そうなんですか。でも、一挙にうまく進めようなんて、無理がありますわ」
「そうなんだよな。里美と仲直りできたときは、すべてがうまくいきそうな気がしていたんだが、世の中それほど甘くはなかったよ」
マッサージ台に顔を押し付けているため、敏夫の声はくぐもっていたが、その声には、ありありと自嘲の響きがあった。




