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第2章 里美(VOL.1)

「ただいま」

 家へ入ると、台所にいる里美に声をかけた。

 家事をしていた里美の肩が、ピクリと震えた。しかし、そのまま振り向きもぜず、なにやらしている手を止めなかった。

 無理もない。里美との仲に亀裂が生じた頃から、敏夫は帰宅しても無言だったのだ。

 最初からうまくいくとは思っていなかったが、それでも敏夫は少しがっかりして、二階の自分の部屋へと上がっていった。

 食事中も無言だった。なにか話しかけようと思ったものの、暫く続いている習慣はなかなか変えられるものではない。いつものように、気まずい雰囲気が二人を包んでいた。

 子供たちはとっくに食事を済まして、自分の部屋へこもっている。敏夫と顔を合わすのが嫌なのだ。

 ここで、敏夫は気付いた。

 里美だけは子供たちと一緒に食べずに、いつも自分を待っていてくれていることに。なにも会話がなくても、気まずい空気が漂っていても、いつもだ。

 敏夫は、まだ里美の愛情が、自分から離れていないのではないかと思った。それでも敏夫は、里美に話しかける勇気が持てないでいた。

 なにか話さなくては。

 心では焦っているのだが、なにを言ってよいのかわからなかった。

「なあ」勇気を振り絞って、声をかけた。が、「なに?」里美の返事は素っ気なかった。敏夫の顔を見ようともしない。

「いや、なんでもない」

 そう言って立ち上がると、部屋へと戻っていった。

 その日から、敏夫はなるべく挨拶だけはするようにした。しかし、里美の顔色を窺いながら無理をして言っているので、どこかぎこちない。

 そうやって、数日が過ぎた。

 あれから敏夫は、「感」という意味をずっと考え続けている。どれほど考えても答えを見いだせない自分に、苛立ちを覚える日々が続いた。それでも、考えるのをやめなかった。なんとかして、里美の愛情を取り戻したかったからだ。

 今日も答えがみつからず、悄然として帰路についていた敏夫に、思わぬところから視界が開けた。

「いいってことよ。だけどよ、おまえ、俺に感謝しろよ」

 ホームで声高に電話していた若者の言葉が耳に飛び込んできた瞬間、ここ数日、頭にかかっていた靄が晴れた。

 感謝? 

 そうだ、感謝だ。

 これまで里美は、ずっと敏夫に尽くしてきてくれた。こんなになっても、ご飯を作ってくれている。子供達が敏夫と一緒にご飯を食べるのを嫌がっても、里美だけは待っていて、一緒に食べてくれる。会話もないのに。

 俺は、今まで、里美に感謝したことがあっただろうか? 里美のしていることを当たり前だと思っていたのではないか? だから、感謝という言葉が浮かんでこなかったのだ。

 それに気付いたとき、自分がどうしようもないほど里美に甘えていたことを知った。思い切り、自分を罵る。

 心からの感謝。

 カードの裏の「心」が、そう結びついているかどうかはわからない。

 どうであれ、自分のこれからすべきことは、里美に心からの感謝を表すことだ。里美の心の氷が溶けるまで、粘り強く、いつまでも。

「ただいま」

 いつも以上に明るく、大きな声をかける。それが、自然にできた。

 敏夫は、これまで里美に甘えてきたことに気付いてから、素直に里美に感謝する気持ちが湧き起こっている。これまで感謝してこなかった分、次から次へと感謝の念が溢れてくるのだ。

 今の敏夫は、里美と仲直りをするために声をかけるのではなく、里美への一杯の感謝の気持ちから声をかけていた。だから、なにも意識せずとも、自然と顔も明るくなり、声も大きくなる。

「ごちそうさま。今日もおいしかったよ」

 箸を置くと、手を合わせて、心をこめて里美に言った。 

 里美がなにかを言おうと口を開きかけたが、直ぐに閉じた。敏夫に向けられた目は、驚きのあまり大きく開かれている。

「今日は疲れたから、もう寝るよ。おまえも、あんまり無理するんじゃないぞ」

 あまり急ぎ過ぎてはいけない。却って、里美に負担をかけるだけだ。里美の驚く顔を見てそう思った敏夫は、そう言い残して、自分の部屋へと戻った。

 それから敏夫は、朝は「行ってきます」と元気な声で家を出、夜は「ただいま」、「いただきます」、「今日もおいしかったよ」、「おやすみ」と、粘り強く繰り返した。

 何日か経った頃、里美の態度に変化が生じた。

 それは、金曜日の出来事だった。


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