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今度こそ死んだのか――意識が朦朧としていたアスターはそう考える。
鬱蒼と生い茂る木々に囲まれ、少年は草のベッドに仰向けで倒れていた。暗々とした湿っぽさは地獄の象徴か、青々とした植物の瑞々しさは天国の象徴か。
否――此処はそのどちらでもなく、アスターにはこの風景に見覚えがある。
ここは、ノイアと共に過ごしたダンジョンのすぐ近く――昼夜問わず、漆黒の闇が広がる『禍時の森』だった。
「どうして……」
何故、生きている。
何故、此処にいる。
大迷宮の地の底、逃避行の為に築いた屋敷の中で――魔導の恩師アルゴノーツに、殺されたとばかり思っていた。
アスターは、意識を失う前の記憶を手繰り寄せる。
――特別なことなんて何もしていないさ。ヒューゴ氏に理由をつけてお嬢さんを討伐するよう進言してみたり、ウィンデル街に黒獅子を解き放ってみたり。
アルゴノーツは嬉々して語っていた。
街ひとつを巻き込んだ悲劇は、自分の描いた絵図なのだ――と。
他者の人生を狂わせることに罪の意識など感じて無さそうな、あまりにも酷い仕打ちだった。
――ちょっと体をイジらせて貰って、研究に協力してもらうって感じかな。
アルゴノーツは嬉々して語っていた。
ノイアの死体を研究で弄ぶ――と、他ならないアスターの前で宣言した。
他者の心を踏み躙ることすら厭わない、あまりにも惨い追い打ちだった。
そして。
――ふっ、この程度で死にはしないよ。…キミにはこれから、もっと多くの死を築いてもらう必要があるんだからね♪
ああ、なんだ。
殺そうとしてたんじゃなくて、生かされていたのか。
仕打ち、追い打ちと来て――峰打ちか。
お前の手でノイアを取り戻せという、お誂えの『生きる理由』まで与えて。
そう。
裏方で構えていればいい筈のアルゴノーツが、自ら表舞台に姿を現した理由――彼はアスターに『殺意を抱かせる為』だけに舞台の上へ降りてきたのだ。
「どこまでも、掌の上って感じですね」
アスターはシニカルな笑みを浮かべた。
「それでも――その上で僕は、無様に踊らなくちゃいけないんでしょう?」
アルゴノーツを追う、ノイアを取り戻す――その過程で、死者も多く出るだろう。
今のアスターは吸血鬼であり、人の血を啜らなければ活動できない存在だから。
「なら……、やるしかないじゃないですか。見知らぬ誰かを傷つけてでも、その結果として屍を築くのだとしても――僕は生き抜いて、ノイア様の尊厳を守ってみせる」
「そんなの駄目だよっ」
その言葉は、アスターが決意を独白したすぐ後に降ってきた。
葉の擦れる木のさえずりの中、音も立てずに猫のように舞い降りた女は、困惑する吸血鬼を見下ろしている。
見覚えのない女だった。体躯は大人びていて、露出度を高めた服装であるから、不健全性を押し出したアダルティな側面はあるのだが――反面、声色や仕草はまったくその器に収まるようなものではなく、子どもっぽい無邪気さに満ちていた。
「貴女はなんですか――アルゴノーツさんの手下ですか?」
そう感じるのも無理はない。持ち前の稚気を発散させ、相手に敵意を抱かせないアルゴノーツの性質に、この女が醸し出す雰囲気はそのまま当てはまるからだ。
「誰それ? おにーさんの言ってた悪い奴のことかな。…そんなことより、ボクは君をここまで運んできたんだから、お礼くらいないのかなっ」
「おにーさん?」
状況的に考えれば、あの大槌を振り回していた赤髪の男のことになるか。
助けてくれた意図は分からないが――そうだとするなら、何故ここにアスターが居るのかも納得がいく。
「あっ、ボクが勝手におにーさんって呼んでるだけで、別に血の繋がった兄妹とかじゃないよっ」
「どうして、僕を助けたんだ?」
「むー、質問が多いなあ……、おにーさんからそういうことは聞いてないんだよ」
「一言も?」
「そうだよ。ただ、君を連れて脱出しろってだけ。後の判断は任せるとも言ってたかな。…大変だったんだよ、あの大穴ほとんど垂直だったからさ。人一人を抱えて駆け上がるなんて無茶もいいところだよ。おかげでギルドの人たちに会わないように、脱出できたんだけどねっ」
「君は……、僕が怖くないのか? 街を火の海に変えたこと、恨んでいないのか?」
「それは――おにーさんが助けろって言ったんだから、何か事情があったんじゃないのかなって……、吸血鬼とかアンデッドとかよく分かんないけど、考えなしに襲ってこないなら、怖くなんかないよ」
黒髪の女は、両手を腰に据えてえっへんと胸を張った。子どもらしさ溢れる得意げなポーズも束の間、急に不機嫌になって頬を膨らませている。
「あっ、そういえば君は――サカナちゃんを虐めたなっ」
「は……?」
「とぼけないでよねっ、サカナちゃんの血を吸ったくせにっ」
そのサカナちゃんが誰なのか分からなかったが――思い当たる人物がひとり居る。ウィンデル街を襲撃したとき、唯一血を吸った少女のことだ。
「しょうがないだろ。僕が生きるために仕方なかった。人を喰わなきゃ生きていけない。吸血鬼っていうのはそういうヤツだ。…僕はこの体になってから、ずっとその宿命に付き纏われている」
アスターはゆっくりと上体を起こして、猛禽類のような目で女を睨みつける。
今の自分は飢えている。渇いている。このアンデッドに変容した体は血を求めているのだと――そんな、訴えるような視線が突き刺さる。
「僕を助けるっていうのはそういうことだよ。そのサカナちゃんって子だけが例外じゃない。君だって食べ物にしか見えていないんだ。分かったら、僕のことなんて放っておいてくれ。…それとも、ここでトドメを刺すかい?」
女は少しばかり逡巡し、太もものホルスターから暗殺用ナイフを抜き取った。
「それでいいんだ。どうせ、僕は一度負けたんだ。…さぁ、殺してくれ」
「嫌だっ」
「なら、僕はニンゲンを殺し続けるだけさ」
「それも駄目っ」
「……っ、じゃあなんだよ!? 生かしもしないし殺しもしない――僕に何を求めてるんだ!?」
女は徐に、ナイフで自分の腕を斬りつけた。
流れ出す血から生臭さが――吸血鬼にとっては、甘く芳醇な香りが漂ってくる。
「どういう、つもりなんです……」
アスターが冷静さを取り戻し、それを問えば。
「君はきっと、自分の意思で人を殺したことないんだね。…ボクなんかと大違いだ」
「えっ……」
「ボクは殺し屋なんだよ――ううん、殺し屋だった。偉い人に言われるがまま、色んな人の命を奪ってた。おにーさんに怒られてからも、実のところ後悔はあんまりしてない。だって、そういう生き方しか知らなかったから。悪いやつを殺せば、人間社会の為になると信じてたしね」
「だったら、なんで……」
「ボクは暗殺のプロだけど、ギルドを勝手に辞めるまで、どういう人が良い人なのか悪い人なのかって考えて来なかった。…でもね、人を殺すっていう選択はいつだって自分で決めてきた。指令だからといって、その時が来たら自分の意思で決めるんだ」
流血が腕から手首、指先へと伸びて――吸血鬼の口腔へと零れ落ちれば、痛めつけられた肉体はみるみるうちに生気を取り戻していく。
「ま、君に責任を持てない殺しをさせたくないっていう、ボクのエゴだよ。だからといって殺して解決なんてしたら、おにーさんに怒られそうだし……、此処まで運んできたのも、無駄になるし……」
「要するに、結論は先延ばしってことですか……」
「うん、たぶん、そんな感じ」
「だったら、吸血鬼を甘く見ているよ」
アスターは深緑が生んだ闇の中に起き上がった。
暗がりで、その朱に染まった双眸が爛々と輝いている。
「鎖に繋がれない吸血鬼を、普通のニンゲンが止めることは難しい。君はそれなりに『出来る』んだろうけど、完全に回復した僕を御することはできないでしょう。そのときに後悔しても、遅いですよ」
「君は――どうしたいのか、よくわかんないよ」
「………」
「ふふん、優しいんだね」
「僕が、優しい?」
「ボクが殺してきた人って、みんな自分のことを守ろうと必死だったから。…他者を慮らなきゃ、そんな言葉出てこないよ」
「そんなことはない……、思い出しなよ、僕は自分の意思で街を焼いたんだ」
「うん、悪いと思う」
「なら」
「でも、それと優しいことは別でしょ。君にも守りたいものがあったから、化け物として人間社会に立ち向かったんじゃないの。ボク知ってるよ、君があんまり被害を出さないように、スラム街の方に騒ぎを広げていったって。そこに住んでる人にはたまったものじゃないし、中途半端なやり方だけど……本当に悪いやつなら、手加減なんて考えずに皆殺しにしてるもん。だから、君はまだニンゲンなんだと、ボクは思う」
「貴女は――僕をニンゲンだと、言ってくれるのか」
目先の女が見せる柔和な笑みに、アスターは膝を折った。
ノイアを亡くしてからずっと、張り詰めていた心が若干柔らかくなった気がした。
「僕は、師匠――ううん、あの男に奪われたノイア様を取り戻したい。それまで、ヒトとして死ぬわけにはいかない。化け物としても死にたくない」
「うん、よく分かんないけど協力するよっ」
変わった女性だ、とアスターは思う。
言葉の端々から子供っぽく、どこか不安定さを感じつつも――相手がどんな存在であれ、物怖じしないのは驚嘆だった。
そう――彼女は他者の心の動きに鈍感であるがゆえに、そして彼女本人がそれを自覚したからこそ、今は不器用ながら他者を理解しようと努力をしている。だから、打ち解けることができたのかもしれない。
「そういえば、名前を言ってませんでした。僕はアスター、パラディール家に仕えて居た元執事見習いです」
「ボクはニナ。ニナ・B・バレンス。ピチピチの十三歳だよっ」
「は?」
「えっ、なに……、何かおかしいことでも言ったかな?」
「いや……、鯖を読むにしても若すぎるかなって」
「えへへ……」
――鯖を読むって、どういう意味だろう?
よく分かってないニナは、とりあえず笑って誤魔化すことにした。




