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「それでは中に入るが――くれぐれもそそうがないよう願いたい」
「大丈夫だ、オレちゃんの肛門括約筋は健康そのものだぜ」
「そ、そういう意味じゃないと思うっ」
アンフィリテが玄関口の戸に触れると、魔術的な施錠になっているのか光が紋様を描いて走り、両開きの扉が軋んだ音を立てて奥へと開き始める。要人の隠れ家だけあって、館まわりは厳重にプロテクトされているらしい。
「道を外れるまでは魔力遮断で気付かなかったが、少なくともこの屋敷にゃ二重の魔力結界を帯びてやがる。…こんだけ護りが堅いんなら、周辺の警らなんぞ必要なかっただろ」
「万が一ということもあるかもしれない」
「そんなんじゃストレスで早死にするぜ、もっとオレちゃんみたいにいい加減に生きようや」
「考えておきます」
アンフィリテの案内に従い、ザッツたちは洋館の中へと歩みを進める。一片たりとも外に漏れていない眩い照明の数々と、古ぼけた外観とは正反対の豪奢な調度品の数々。三人はどこまでも続きそうな赤い絨毯を歩いている。
お城みたい、とサカナは驚きを口にした。
「こんなところじゃ、逆に休めないかもしれねえな」
ご心配なく、とアンフィリテは言う。
「ザッツさんには古い厩舎を割り当てる予定ですので」
「それって馬小屋じゃねーか! ここに来てさすがにそれはひどいんじゃねーの」
不平を漏らすザッツは振り返って、少し遅れて後ろを歩くサカナに、
「お前もなんか言ってやれ言ってやれ、主導権はこっちにあるんだからなっ」
と、交渉材料を持たない男がなんか言っている。
「で、でもっ」
困ったような素振りをみせるサカナに、アンフィリテは優しく声をかける。
「サカナさん、と申されましたか――ご心配は無用です、貴女はお好きな部屋をお使いください」
「そうそう、好きに部屋をな。…って、なんでこいつだけなんだよっ」
「どこの馬の骨とも分からない男を、姫を同じ屋根の下に泊めるワケにはいきませんので――万が一があっては困ります」
表情ひとつ変えない騎士の女は、淡々と理由を述べる。
「お前の万が一は病的なんだよっ、というか要人って姫様だったんだな」
「もう隠す必要もないでしょう。現リーヴァルト領領主グレイアル様の嫡女――シレット・リーヴァルト様こそが、私の護衛中の要人となります」
サカナはそれを聞いて、目を輝かせている。
「お姫様だなんて夢みたい、これから会えるのかしら」
「ええ、ぜひ貴女には――シレット様に、そのライツの茶を淹れていただきたい」
「そういうことなら、よろこんでっ」
先ほどと打って変わって、紅茶を提供することに抵抗のないサカナに、やれやれとザッツはため息をついた。
「そうなると、オレちゃんはお外で待機ってことになるのか。…くそう、こんなことなら入るんじゃなかったぜ」
期待を裏切るような内装の華麗さを知った今、馬小屋で寝泊りをしろというのは実に忍びない。家具のひとつぐらいくすねてやろうとザッツは思ったが、盗難防止術式が張られている可能性を考えれば、痛い目だけでは済まないので辞めておいた。
アンフィリテは足を止め、落ち込み気味のザッツに向けて、
「厩舎に移っていただく前に、貴方には別室で話をしたいことがあります」
と無表情のまま、言った。
「おっ、それって夜の身体検査ってやつか! お互いのことをよく知るいい機会だし、優しくしてくれよなっ」
ザッツは冗談めいた言葉をけらけらと笑いながら言うが、アンフィリテは動じることなく二の句を継ぐ。
「貴方の大槌に刻まれた印に、気づいてないとお思いですか。…これは、そういう話になると考えてください」
「なんだ、よく知ってるじゃないか――アンタ、そっちをご希望かい」
ザッツは一瞬、真剣な表情を浮かべた。
「分かった、その話とやらを楽しみにしてるぜ」
そしてすぐに元の調子に戻ると、あくびをしながら歩みを再開する。
「ねえ、どういうことなの」
サカナは先のやり取りが気になって、彼に話しかける。
「ん、ちょっと待ってくれ。…あと少しだけ先に進めばわかるから」
「進めばわかる?」
どういうことだろう、と考えること数秒。
黙々と歩く途中、いきなりザッツは少女に向き直って――
「くらえっ」
「え――」
むんず、とザッツは少女の豊満な胸を片手で握りこんだ。
「きゃああっ!」
指が吸い付くように沈み、羞恥からなる黄色い悲鳴が館内に響いてしまう。
人前で、いったいこの男は。
「なにするのよっ――!」
こほん――とひとつ、アンフィリテが咳払いを挟み。
「こちらがシレット様の私室になります。…サカナさん、どうぞお入りください」
「あ…」
まさか。
「やーいやーい、お姫様の部屋の前で変な声出してやんのっ、ざまーみやがれ! お前だけ良い思いはさせないもんね!」
この男はそれを狙っていたのか。
だとすれば何故、目的地が分かっていたのか。
なんと浅ましい、とアンフィリテが小声で言った。
何にしてもサカナは、この男のせいで様々な感情が綯交ぜになって――顔を赤くしたままドアノブに手をかける。
「言っておきますけど、シレット様の魔力結界は、館内の会話が筒抜けですので」
「えっ、そうなの。…オレちゃんやっちまったってやつ?」
ザッツは慌てふためく素振りをみせる。
それを聞いてちょっと安心したのか、サカナは片手を胸に当てつつ。
失礼します、と一声かけて入っていった。
「……」
「ん、どったの?」
「分かってて、やったのではないですか」
二人だけになった廊下で、アンフィリテがそう問いかける。
「いやいや、急にムラっときた――ただのそれだけさ」
「そうですか。…言葉通りに受け取れば、だいぶ危ない男ですが」
「そんな危ない奴と、これから話し合うわけだ。せいぜい食われないように気をつけろよな」
その言葉に返事はなく。
踵を返したアンフィリテと、それに続く食えない男は――別の部屋を目指して歩いて行った。
★ TIPS ★
「波状槌」――アイテム/武器/ランクB
ザッツの背丈よりも大きく、鋼鉄で出来ている魔法槌。平頭部にはある紋章が刻まれている。エンチャント「音狂打」により、叩きつけた部位から強力な爆音波を発生させ、周囲のモンスターたちを昏倒させることができる。「ヘパイストスの鍛冶式」にも使われるほか、ダンジョンコアを破壊するなど、彼にとってこの武器の用途はとても広い。
「キミがサカナさんかあ。…想像してたよりも小っちゃくて、可愛らしいじゃないか」
部屋の中央にどっかり置かれた書斎机のそのまた向こう、安楽椅子に深く腰を降ろした桃色の髪の女性が、目を細めてそう言った。歳は二十歳くらいだろうか。
だが――頭に黄金のティアラを、知的に眼鏡をかけているにも関わらず――どこか稚気を醸し出していて、サカナの抱いていたお姫様のイメージからは、十分に掛け離れているといえる風貌だった。
「あ、あなたが、シレット様」
うんむ、とその言葉に女性はゆっくりと頷いて。
「彼女が言ってたと思うけどさ、私は魔力結界で館内のすべての会話が聞こえてるんだ。もちろんキミの可愛い声も、ばっちり聞こえてたからね」
「さ、さっきの悲鳴は、ご無礼を」
サカナは俯いて、顔を再び赤らめてしまった。
「いいさいいさ、刺激があったほうが人生は楽しいもの。…アンフィは私の我が儘をよく聞いてくれてるほうだけど、万が一万が一うるさくってね。それに比べてキミのカレシは羨ましいな」
「か、彼氏じゃないですっ」
むきになった、とシレットは楽しそうに笑っている。
人種としてはザッツに近いタイプだろう。サカナは理想と現実のギャップに戸惑うしかなかった。
「お茶、いれさせて頂きますね」
「そんなにむくれてたら可愛い顔が台無しだよ――っと、そういえばそうだった。ライツの茶葉を持ってるんだっけ。近くの村々に置いてなくて困ってたんだよ。カナちゃんはそっちの方から来たの?」
フレンドリーにあだ名呼びされているものの、サカナは気にせず茶葉を蒸らし始める。
「ザッツは違うけど、わたしはライツ村の出身なんです」
「えー、それってライツティーが飲み放題ってことじゃん、ずるいなあ」
そこでシレットは難しい顔をした。
「そういえば、あそこの近くにあったダンジョン、無くなっちゃったって聞いたなあ。…もったいないことをする人もいるもんだ」
「もったいない?」
確かにダンジョンは厄災だけでなく、利益ももたらすが――それで痛い目をみたサカナにとっては辛い記憶である。
「うん、もったいないよ――あんな刺激的なところ壊しちゃうなんて、本当にもったいない」
「は?」
刺激的なところ?
このお姫様は、ダンジョンに潜ったことがあるのだろうか。
いけない、とシレットは舌を出す。
「これは内緒なんだけど、この近くには地図に載ってないダンジョンがあるんだ」
シレットは何も書かれていない羊皮紙を机の上から持ってくると、インクのついていない羽ペンを手に取って。
「『狡知』の勇者ヘルメスよ――御身の名の元に、秘された真実を曝け出せ」
彼女の手を離れ、宙に浮いた羽ペンは羊皮紙の上を高速で飛び回り、この森を含む周囲一帯の地形を描く。最後に屋敷からそう遠くない、ある地点に×印を刻むと、役割を終えたペンはぱたりと倒れてしまった。
「このバッテンの部分に、ダンジョンがあってね――退屈なときはこの隠れ家に来て、アンフィと一緒に潜ってるんだ」
嬉しそうに語るシレットに、サカナは戸惑いの表情を浮かべる。
「ま、まさか、この建物って」
「大工さんにお金を握らせて、お父様に内緒で建てちゃった」
「シレット様が、ダンジョンに挑むための」
「拠点でした!」
眼鏡をくいっとあげて、完璧なまでの相槌を入れてくる。
紅茶を注ぐのを忘れて呆然としているサカナに対し、シレットは首を傾げている。
「そ、そんな危ないこと――もっといえばお姫様なのにっ」
「お姫様なんか、なりたくなかったよ」
シレットはきっと年相応の、寂しそうな表情に転ずる。
「アースアルムの国王さまも、諸国に連なる領主さまも、若い頃は大冒険を繰り広げて、知見を得て大成したと語り継がれてる。それに比べて、女として生まれただけで旅に出ることを許してもらえなかった。婦徳を学べ作法を学べ品位を磨け知性を磨けと――毎日のように言われてさ。紋切り型のお父様の教育方針が、嫌になっちゃったんだ」
「え、えと」
サカナは自分の人生に関して――酒場の亭主の娘であることを不服に思ったことはなく、それを継ぐことにも何の疑問も持たなかった。
だからこそ、他人のこうした懊悩に対して、どう触れ合えばいいのか分からなくなってしまう。
「ふふ、こんなこと言って困らせるつもりはなかったんだ。恵まれた生活にあることは理解してるし、それに応えるための将来も大切だと思ってる。ただ、少しぐらいは自分の人生の舵取りをしたい。ちょっとした反抗期さ。…そろそろお茶を淹れてくれないかな」
「あっ、ごめんなさい」
すっかり話に引きずり込まれていたサカナは我を取り戻して、茶葉が浸しっぱなしのポットを手に取って、差し出された煌びやかな装飾のティーカップに注いでいく。
「これこれ、この香りこそがライツの――」
そこまで言ったところで、シレットの顔から急に感情がなくなっていく。
「ど、どうかなさいましたか」
サカナが問うも、呼びかけには応じずに。
シレットは――眼鏡のブリッジを人差し指で抑えて、
「まずい」
と言った。