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 アスターが魔術を学び始めてから、更に二週間が経った。

 彼はいつものようにノイアの寝室へ訪れると、少女が横になっているだろう天蓋付きのベッドに近づいていく。彼女との添い寝は日課であり、精神的な充足を得る重要な時間だったが――この日は何かが違っていた。


「ノイア様?」

「………」


 ベッドの上には、中程に膨らみを帯びた毛布があった。

 ノイアがそこに居ることは明らかだ。


「ノイア様」

「………」

「そんな寝方をしていては、息苦しくなりますよ」

「……うるさい」


 アスターが呼びかけても、ノイアは冷たい態度を取るばかり。

 何かがおかしい――そう思ったアスターは、ベッドの上の毛布を捲り上げる。


「………」


 ノイアが両腕で自分の体を抱きしめながら、震えていた。

 顔は真っ青になっていて、ひどく怯えているのが見てわかった。


「ノイア様、大丈夫ですか?」

「放っておいてよ」


 ノイアはアスターに背を向けて、自分の殻に閉じこもろうとしていた。


「今夜は、ひとりにさせてよ」

「で、でも……」


 アスターにとって、ノイアの存在は精神的支柱だ。

 そんな彼女にいきなり突き放されてしまえば、アスターはまるで捨てられた子犬のような目になってしまう。


「………」


 アスターはどう声を掛けていいか分からず、黙していたのだが――ノイアは異質によって、彼の戸惑う心が雑音として聞き取れてしまう。


「うるさいって、言ってるでしょ!」


 ノイアは勢いよくベッドから跳ね起きて、執事の少年を責め立てる。

 激情に身を任せたノイアの一言に、アスターは身を竦めた。


「さっきから邪魔だって言ってるのよ! 主人あるじの言うことが聞けないの!?」


 ノイアは、アスターに向かって手を上げた。

 それでもアスターは、退かなかった。退きたくなかった。


「だったら、教えてください」


 ノイアを救えるのは――守れるのは癒せるのは、自分ただひとりしか居ないと信じているから。


「どうして、ノイア様は泣いておられるのですか」

「………」


 ノイアは、ぽろぽろと涙を零していた。

 月明かりを浴びて、光の粒を落としていく姿がどこか物悲しかった。


「わたくしは――」


 ノイアは振り上げた腕を、ゆっくりと降ろした。


「わたくしは、『化け物』なのかしら」


 ノイアは寂しそうに、今日あった出来事を語り始めた。




 最初は、ノイアもこの異常体質ちからに肯定的だった。

 母親を亡くして、すぐに訪れた感情は孤独感だったから。

 ゆえに、他者の心が聞こえるようになると、彼女の世界は一変した。

 人の剥き出しの気持ちに触れるだけで、冷え切った彼女の心は暖かくなった。

 きっとこの力は神様の贈り物なんだ――そんな思いを抱いていたノイアは、世界が思っていたよりも単純ではないことを思い知る。


 まず、屋敷の使用人たちがノイアを恐れた。

 彼女が異質を公言するたび、はじめは戯れかと思っていたのだが、『そうとしか思えない出来事』が続くと、はっきり認識させられることとなった。そして、心に秘めた思いを暴かれるという恐怖。うっかり家主への反感を抱いてしまえば、ノイアを通してクビにされるかもしれない。下手すればそれ以上の仕打ちもありえる。ゆえに、彼らはノイアを世話するときには緊張感を常に抱き――必要以上の触れ合いをしなくなった。


 次に、街の住民たちがノイアを恐れた。

 屋敷の使用人の誰かが吹聴して回ったのか、ノイアの異質についての風聞は尾ひれが付いて広がっていた。当時のノイアは屋敷の外へよく出かけていたのだが、住民たちはみな、彼女を腫れ物扱いするように接していた。ノイアはそれがたまらなく嫌だった。


 そして、実の父親ヒューゴですらノイアを恐れた。

 有力貴族として一地方を治めるまでに成り上がった彼は、法に触れるような汚いことも数多くしてきた。それを正当化できるだけの胆力があれば、ノイアの異質も受け入れることができたのだろう。しかし、彼には良心が残っていた。誘惑に負けたという負い目を背負っていた。家を守るために、自分を守るために、これからも汚いことを彼は続けるのだろう。

 だから――ノイアに心を覗かれたくなかった。自分の汚い心を見せたくなかった。それだけだったはずなのに、親子の縁は少しずつ冷えていく。


 圧倒的な孤立。抗えぬ孤独感。

 それでもまだ、ノイアには己を慰めてくれる玩具――アスターがあったから、ここまで耐えることができた。爆発しそうな感情を、自分の中に押し込むことができた。

 だが、ノイアに待ち受ける運命は残酷で、少女は我慢の限界だった。




 その日は、雲ひとつない青空だった。

 窓際で浴びていた午後の陽気が気持ちよくて、ついノイアは外へ出かけていた。

 ノイアは気を使って、使用人を側に付けることはしなかった。アスターが居れば良かったのだが、彼はこの時間帯、魔術を学びに行っている。


 しばらくのあいだ、あてもなくふらついていると、ノイアは東通りの大きな広場にたどり着いていた。中央には収穫祭のときに使われる石の台座があって、広場を囲うように植え込みが円周上に並んでいた。


 ノイアが植え込みのレンガに腰掛けて、惚けていたときに――事件は起こった。


「やい、『化け物』め、オレが成敗してやるぞ!」

「!?」


 刃物を手にした見知らぬ少年が、目を血走らせてノイアに近づいていた。


「どうして、そんなことするの……?」


 突然の出来事に、ノイアはどうしてよいか分からなかった。

 心の声を聞いて理由を探ろうとするのだが、少年が興奮しているせいかノイズがひどく、まるで要領を得ることができない。


「オマエのせいで、オレの母ちゃんは倒れちまったんだ!」

「な、なんで……」

「うるせえっ、オマエの存在が、みんなを不幸にするって分かってないのかよ!」

「……っ」


 ノイアが見たくもない現実を、叩きつけられた瞬間だった。


「誰かが、やらなくっちゃいけないんだよ」


 声のざわめきが増えてきた。

 騒ぎを聞きつけた野次馬たちが、広場に群がっている。


「オマエが偉いとこの人間だってのは知ってるさ。だからみんな手を出せなかったんだろ。だったらオレがやってやる。オレがこの街の『化け物』をってみせる!」

「ぁ、ぁ……」


 見知らぬ少年の心は、殺意一色に染まっていた。

 誰かに直接、こんな邪悪な思いをぶつけられる――こんなことは、ノイアにとって初めてだった。

 そして、それだけでは終わらない。


「殺せ」

「えっ――」


 その声に、ノイアは聴衆の方へ振り向いた。


「そんな不気味な奴、殺しちまえ」「なんだなんだ? 面白くなりそうだなあ」「ああ、やっぱりあの子が『化け物』だったんだねえ」「私の心も聞こえてるのかしら? 気持ち悪いなあ」「取り憑かれてるようには見えないけど」「ね、ねえ、誰か止めないの?」「ヒューゴ様も可哀想ね」「アイツの言う通り、死んだほうが平和かもなあ」「なんでもいいから、偉いとこのやつが死ぬとすかっとするぜ」


 聞こえてくるもの、そのおおよそがノイアに対する負の感情。

 己の人生と無関係であるはずなのに、少女に漠然とした恐怖を抱く者。

 野次馬根性丸出しで、人の生き死にという非日常を楽しもうとする救えない者。

 地位の高い人物に不幸が降りかかる事を喜びとする、ルサンチマンに囚われし者。


 ノイアの瞳に映る世界――その一切合切が、陰りを帯びていく。

 人間とは、こんなにも醜いものだったのだろうか。

 世界とは、こんなにも色褪せて見えるものなのか。


「ノ、ノイア様、お許しください!」


 群衆をかき分けて、ノイアの見知った中年女性がやって来た。名をチェルシーという、パラディール家使用人のひとりである。先日から調子がよろしくなく、彼女は休みを取っており――それを裏付けるかのように、チェルシーの顔色は青ざめていた。

 チェルシーはナイフを手にした少年を、庇うように抱きしめる。


「息子の失礼をお許しください! 私がよく言っておきますので、どうか……」


 どうやらこの少年は、チェルシーの息子のようだ。

 ともすれば、チェルシーが倒れてしまった原因というのは――


「母ちゃん、こいつのせいなんだろ!」


 チェルシーの息子は、ノイアを指さした。


「病気になったのは、こいつのせいなんだろ!」

「な、なんてことを!」

「だって母ちゃん言ってたじゃないか! パラディールの屋敷に『化け物』がいるって、そいつのせいで疲れて病気になったんだって!」


 聞こえてくるすべての声は、ノイアに苦痛だけをもたらした。

 耳を塞いでも、目を閉じても――世界の醜さを、まざまざと刻みつけられる。


 逃れたかった。

 これ以上、一分一秒足りとも、この世界に居たくなかった。


 そして、気がついたときには――全てが終わった場所に、彼女は立っていた。

 血だまりのなかで、手にはナイフを握り締めて。

 屋敷の使用人とその子供を、物言わぬ物体に変えてしまった。


「………」


 広場に集まっていた誰もが、ノイアに恐怖の眼差しを向けていた。

 誰もが同じことを思っていた。

 この少女は『化け物』だと、

 誰もが。




 ノイアは、アスターの胸の中で咽び泣いていた。

 自分のことを、もう誰も人間として見てくれないことを嘆いていた。


「ノイア様」

「………」

「僕にとって、ノイア様は人生のすべてです」

「……嘘つき」

「できることなら、ノイア様のお側にずっと居たい」

「どうせ、いつかは離れていく」

「ノイア様を愛しています」

「言葉だけなら、どうとでも言えるわ――それなのに」


 ノイアは、アスターの体にしがみついて。


「どうしてあなたの心は、こんなにも純粋であり続けるの?」


 アスターは人殺しをした少女を責めることなく、『化け物』と揶揄する者たちに感化されず――徹底してノイアを愛し続けていた。

 ノイアはその心に応えようと、少年の顔に指を這わせて、


「……裏切ったら、許さないわ」

「もちろんです」


 彼の唇を静かに奪っていた。それによって、玩具として接していたはずのアスターに、情愛を抱くようになっていたことを自覚する。


「アスター」

「はい」

「……ありがとう」


 ノイアは心に安らぎを満たして、少年に抱きついたまま目を閉じた。

 静かな寝息を立てる少女を、アスターは目を細めて見守っていた。

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