72
アスターが魔術を学び始めてから、更に二週間が経った。
彼はいつものようにノイアの寝室へ訪れると、少女が横になっているだろう天蓋付きのベッドに近づいていく。彼女との添い寝は日課であり、精神的な充足を得る重要な時間だったが――この日は何かが違っていた。
「ノイア様?」
「………」
ベッドの上には、中程に膨らみを帯びた毛布があった。
ノイアがそこに居ることは明らかだ。
「ノイア様」
「………」
「そんな寝方をしていては、息苦しくなりますよ」
「……うるさい」
アスターが呼びかけても、ノイアは冷たい態度を取るばかり。
何かがおかしい――そう思ったアスターは、ベッドの上の毛布を捲り上げる。
「………」
ノイアが両腕で自分の体を抱きしめながら、震えていた。
顔は真っ青になっていて、ひどく怯えているのが見てわかった。
「ノイア様、大丈夫ですか?」
「放っておいてよ」
ノイアはアスターに背を向けて、自分の殻に閉じこもろうとしていた。
「今夜は、ひとりにさせてよ」
「で、でも……」
アスターにとって、ノイアの存在は精神的支柱だ。
そんな彼女にいきなり突き放されてしまえば、アスターはまるで捨てられた子犬のような目になってしまう。
「………」
アスターはどう声を掛けていいか分からず、黙していたのだが――ノイアは異質によって、彼の戸惑う心が雑音として聞き取れてしまう。
「うるさいって、言ってるでしょ!」
ノイアは勢いよくベッドから跳ね起きて、執事の少年を責め立てる。
激情に身を任せたノイアの一言に、アスターは身を竦めた。
「さっきから邪魔だって言ってるのよ! 主人の言うことが聞けないの!?」
ノイアは、アスターに向かって手を上げた。
それでもアスターは、退かなかった。退きたくなかった。
「だったら、教えてください」
ノイアを救えるのは――守れるのは癒せるのは、自分ただひとりしか居ないと信じているから。
「どうして、ノイア様は泣いておられるのですか」
「………」
ノイアは、ぽろぽろと涙を零していた。
月明かりを浴びて、光の粒を落としていく姿がどこか物悲しかった。
「わたくしは――」
ノイアは振り上げた腕を、ゆっくりと降ろした。
「わたくしは、『化け物』なのかしら」
ノイアは寂しそうに、今日あった出来事を語り始めた。
最初は、ノイアもこの異常体質に肯定的だった。
母親を亡くして、すぐに訪れた感情は孤独感だったから。
ゆえに、他者の心が聞こえるようになると、彼女の世界は一変した。
人の剥き出しの気持ちに触れるだけで、冷え切った彼女の心は暖かくなった。
きっとこの力は神様の贈り物なんだ――そんな思いを抱いていたノイアは、世界が思っていたよりも単純ではないことを思い知る。
まず、屋敷の使用人たちがノイアを恐れた。
彼女が異質を公言するたび、はじめは戯れかと思っていたのだが、『そうとしか思えない出来事』が続くと、はっきり認識させられることとなった。そして、心に秘めた思いを暴かれるという恐怖。うっかり家主への反感を抱いてしまえば、ノイアを通してクビにされるかもしれない。下手すればそれ以上の仕打ちもありえる。ゆえに、彼らはノイアを世話するときには緊張感を常に抱き――必要以上の触れ合いをしなくなった。
次に、街の住民たちがノイアを恐れた。
屋敷の使用人の誰かが吹聴して回ったのか、ノイアの異質についての風聞は尾ひれが付いて広がっていた。当時のノイアは屋敷の外へよく出かけていたのだが、住民たちはみな、彼女を腫れ物扱いするように接していた。ノイアはそれがたまらなく嫌だった。
そして、実の父親ヒューゴですらノイアを恐れた。
有力貴族として一地方を治めるまでに成り上がった彼は、法に触れるような汚いことも数多くしてきた。それを正当化できるだけの胆力があれば、ノイアの異質も受け入れることができたのだろう。しかし、彼には良心が残っていた。誘惑に負けたという負い目を背負っていた。家を守るために、自分を守るために、これからも汚いことを彼は続けるのだろう。
だから――ノイアに心を覗かれたくなかった。自分の汚い心を見せたくなかった。それだけだったはずなのに、親子の縁は少しずつ冷えていく。
圧倒的な孤立。抗えぬ孤独感。
それでもまだ、ノイアには己を慰めてくれる玩具――アスターがあったから、ここまで耐えることができた。爆発しそうな感情を、自分の中に押し込むことができた。
だが、ノイアに待ち受ける運命は残酷で、少女は我慢の限界だった。
その日は、雲ひとつない青空だった。
窓際で浴びていた午後の陽気が気持ちよくて、ついノイアは外へ出かけていた。
ノイアは気を使って、使用人を側に付けることはしなかった。アスターが居れば良かったのだが、彼はこの時間帯、魔術を学びに行っている。
しばらくのあいだ、あてもなくふらついていると、ノイアは東通りの大きな広場にたどり着いていた。中央には収穫祭のときに使われる石の台座があって、広場を囲うように植え込みが円周上に並んでいた。
ノイアが植え込みのレンガに腰掛けて、惚けていたときに――事件は起こった。
「やい、『化け物』め、オレが成敗してやるぞ!」
「!?」
刃物を手にした見知らぬ少年が、目を血走らせてノイアに近づいていた。
「どうして、そんなことするの……?」
突然の出来事に、ノイアはどうしてよいか分からなかった。
心の声を聞いて理由を探ろうとするのだが、少年が興奮しているせいかノイズがひどく、まるで要領を得ることができない。
「オマエのせいで、オレの母ちゃんは倒れちまったんだ!」
「な、なんで……」
「うるせえっ、オマエの存在が、みんなを不幸にするって分かってないのかよ!」
「……っ」
ノイアが見たくもない現実を、叩きつけられた瞬間だった。
「誰かが、やらなくっちゃいけないんだよ」
声のざわめきが増えてきた。
騒ぎを聞きつけた野次馬たちが、広場に群がっている。
「オマエが偉いとこの人間だってのは知ってるさ。だからみんな手を出せなかったんだろ。だったらオレがやってやる。オレがこの街の『化け物』を殺ってみせる!」
「ぁ、ぁ……」
見知らぬ少年の心は、殺意一色に染まっていた。
誰かに直接、こんな邪悪な思いをぶつけられる――こんなことは、ノイアにとって初めてだった。
そして、それだけでは終わらない。
「殺せ」
「えっ――」
その声に、ノイアは聴衆の方へ振り向いた。
「そんな不気味な奴、殺しちまえ」「なんだなんだ? 面白くなりそうだなあ」「ああ、やっぱりあの子が『化け物』だったんだねえ」「私の心も聞こえてるのかしら? 気持ち悪いなあ」「取り憑かれてるようには見えないけど」「ね、ねえ、誰か止めないの?」「ヒューゴ様も可哀想ね」「アイツの言う通り、死んだほうが平和かもなあ」「なんでもいいから、偉いとこのやつが死ぬとすかっとするぜ」
聞こえてくるもの、そのおおよそがノイアに対する負の感情。
己の人生と無関係であるはずなのに、少女に漠然とした恐怖を抱く者。
野次馬根性丸出しで、人の生き死にという非日常を楽しもうとする救えない者。
地位の高い人物に不幸が降りかかる事を喜びとする、ルサンチマンに囚われし者。
ノイアの瞳に映る世界――その一切合切が、陰りを帯びていく。
人間とは、こんなにも醜いものだったのだろうか。
世界とは、こんなにも色褪せて見えるものなのか。
「ノ、ノイア様、お許しください!」
群衆をかき分けて、ノイアの見知った中年女性がやって来た。名をチェルシーという、パラディール家使用人のひとりである。先日から調子がよろしくなく、彼女は休みを取っており――それを裏付けるかのように、チェルシーの顔色は青ざめていた。
チェルシーはナイフを手にした少年を、庇うように抱きしめる。
「息子の失礼をお許しください! 私がよく言っておきますので、どうか……」
どうやらこの少年は、チェルシーの息子のようだ。
ともすれば、チェルシーが倒れてしまった原因というのは――
「母ちゃん、こいつのせいなんだろ!」
チェルシーの息子は、ノイアを指さした。
「病気になったのは、こいつのせいなんだろ!」
「な、なんてことを!」
「だって母ちゃん言ってたじゃないか! パラディールの屋敷に『化け物』がいるって、そいつのせいで疲れて病気になったんだって!」
聞こえてくるすべての声は、ノイアに苦痛だけをもたらした。
耳を塞いでも、目を閉じても――世界の醜さを、まざまざと刻みつけられる。
逃れたかった。
これ以上、一分一秒足りとも、この世界に居たくなかった。
そして、気がついたときには――全てが終わった場所に、彼女は立っていた。
血だまりのなかで、手にはナイフを握り締めて。
屋敷の使用人とその子供を、物言わぬ物体に変えてしまった。
「………」
広場に集まっていた誰もが、ノイアに恐怖の眼差しを向けていた。
誰もが同じことを思っていた。
この少女は『化け物』だと、
誰もが。
ノイアは、アスターの胸の中で咽び泣いていた。
自分のことを、もう誰も人間として見てくれないことを嘆いていた。
「ノイア様」
「………」
「僕にとって、ノイア様は人生のすべてです」
「……嘘つき」
「できることなら、ノイア様のお側にずっと居たい」
「どうせ、いつかは離れていく」
「ノイア様を愛しています」
「言葉だけなら、どうとでも言えるわ――それなのに」
ノイアは、アスターの体にしがみついて。
「どうしてあなたの心は、こんなにも純粋であり続けるの?」
アスターは人殺しをした少女を責めることなく、『化け物』と揶揄する者たちに感化されず――徹底してノイアを愛し続けていた。
ノイアはその心に応えようと、少年の顔に指を這わせて、
「……裏切ったら、許さないわ」
「もちろんです」
彼の唇を静かに奪っていた。それによって、玩具として接していたはずのアスターに、情愛を抱くようになっていたことを自覚する。
「アスター」
「はい」
「……ありがとう」
ノイアは心に安らぎを満たして、少年に抱きついたまま目を閉じた。
静かな寝息を立てる少女を、アスターは目を細めて見守っていた。




