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少しだけ時を遡る。
ザッツが依頼を受けて、ダンジョンに侵入する前の話だ。
ミステア大陸南端に位置する、ライツ村という長閑な場所は、ザッツにとって骨休めに最良な土地であった。幸いこの近くに芽吹いたダンジョンシードは多くなく、温厚な動植物――ダンジョンが近くにある場合、好戦的であり、強化されているケースが多い――と豊かな自然が、荒んだ心を癒してくれた。ダンジョンを殺すということは、精神を消耗するとザッツは考える。
「ま、個人差はあると思うけどな!」
ザッツはなんとなしに自分の仕事を振り返っては、仰向けに草原にぶっ倒れた。澄み渡る青い空に白い雲、風に乗ってやってくる草と土の香り。そして太陽の暖かさ。…とうてい都市部では味わえない、文句のつけようのない休日だ。
「ひぃ、ふぅ、みぃ…、お、スッゲ、結構な穴が空いてんなぁ」
頭を空っぽにしていたからか、無意識に遠くに見える崖の穴の数を数え始めた。指を折るだけではぜんぜん足りず、そして数え切れなくなって辞めた。不完全燃焼のまま寝返りを打つと柔らかいものが顔に当たる。なんだかぷにょぷにょしていて緑色の、
「うぷぷっ…て、ビッグモスの幼虫じゃねーか!」
言い換えれば巨大イモムシである。げしっ、と蹴ってやるとボールのようにポンポン弾んでどこかへ行ってしまった。耐久が高いが温厚な生き物で、草食であるから危険性もなく、冒険者の狩りの対象にされることはあまりない。これがあの毒々しくも美しい巨大蛾に変態するものだから、生き物というのは不思議である。そんな感慨に耽っていると、ザッツの顔に影が差した。
「ほほう珍しい、森の方で大人しくしとる彼らが、こんなところまで来るとはな」
「ん?」
ザッツが上体を起こすと、いつの間にか隣に杖をついた老人が立っていた。腰が曲がっており小さく見えるが、精悍な顔つきや身なりからして偉そうな雰囲気が漂っている。白い髭を時折撫でていてどことなく居丈高だ。そのギラギラした眼光の、目線の先を追うと、さきほど飛んでいった巨大イモムシが蠢いているのが分かった。
「んなーことよりアンタ、めっちゃ偉そうだな」
自分の直感を疑うことなくその言葉を口にする。呆気に取られた老人は顔を綻ばせ、ふくみ笑いを浮かべた。
「ほっほ、これでもこのライツの地をまとめておる村長じゃからの。相応の振る舞いになってしまうのは当然じゃて」
「へえ…、じゃあ、さっきの動きも自然に出ちまうんだな」
そう、この距離に寄られるまで、老人の接近に気づかなかった。気配をまるで感じなかったのだ。ザッツは常在戦場の心得など持ち合わせていないので、油断をしていたことは間違いないが、杖を突く、あるいは草を踏む音すら聞こえてこなかったのである。
「ともすれば、アンタ昔はさぞかし名のある冒険者だったと、オレちゃんは思うんだが」
「確かに、あの頃はモンスターとの戦い、ダンジョンとの戦いに明け暮れておったがなあ…、とうに過ぎ去った過去の話じゃよ、ほっほっほ」
よっこらせ、というしょうもない掛け声と共に、ザッツは体のバネを利用して跳ね起きした。体中の埃をはたいてから、あくびをひとつする。
「オレちゃんなんかに興味を持つなんて、何かあるだろ」
「目が違うんだな」
「目だぁ?」
「駆け出しの冒険者のような、希望に満ち溢れる目付きではない」
「わ、悪かったな」
「かといって熟練の冒険者が抱く、獣のような野心や、気高い信念も見えぬ」
「けなされてんのか、これ…」
「雲のように掴みどころのない、どこか遠くを見据えるような、自由人たる眼の持ち主、と言いたかったのじゃ」
「そこまで視力はよかねえよ、…そういう意味じゃねーんだろうけど」
「然り。目に見えるものが全てではない。常に先を見据えることが肝要であり、おぬしはその未来像を実現できるだけの力を持っておると、わしは踏んだ」
「……おいじーさん、オレちゃんに何を期待してんだ?」
にやり、と村長の口元が緩む。
瞳の中を覗き込まれれば、ザッツは己の奥底まで見透かされるような感覚を覚えた。
「おまえさん、ダンジョンブレイカーじゃろ?」
「ふっ、なんのことだか」
「おんや、『慧眼』と言われたわしの目も曇ったかの。…ま、冒険者だろうが、旅人だろうが、この際はなんでもいいわい」
うおっほん、と村長は咳払いをひとつして。
真剣な表情を浮かべつつ、
「ひとつ、ダンジョン殺しを頼まれてくれんかの?」
と言った。
★ TIPS ★
「グラスドラゴン」――ボスモンスター/危険度:B
「ライツ村西の洞穴」最奥に生息する、生態系の頂点。普段はダンジョンコアと同じフロアに居座っているが、ケイブバットを主食とするため、夜になると中層に上がってくる姿が見られる。ミステア大陸における、ギルドに登録したての駆け出し冒険者は、これを倒すことが登竜門とされるが、曲がりなりにもドラゴンという最強種の一角であるため、パーティを組むことが推奨されている。
サカナの顔はみるみるうちに青ざめていった。
耳にたこができるほど、夜の酒場で聞いた――ダンジョン探索に挑んだ冒険者たちの誰もが、雄弁にドラゴン退治を語っていたことを思い出す。それで感覚が麻痺していたことは否めないだろう。この迷宮のあるじは、己の中で矮小化され、大したことのないモンスターなのだと少女は決めつけていたのだ。
だが実際にそのドラゴンを目の前にするとどうだろう。サカナは野性が放つ鋭い眼光に射竦み、体躯の巨大さに圧倒されて、何もできなくなってしまったではないか。
「に、逃げ…」
逃げなくては。
しかし、どこに逃げればいいというのか。
「逃げられねーぞ、誰かさんが行き止まりなんぞに飛び込んじまったからな」
「なっ…、わたしが悪いっていうの!?」
そうは言うものの、少女は自分が悪いと分かっている。ダンジョンを軽んじ足を運び、ケイブバットに追い回された結果がこの袋小路。右も左も後ろも壁。八方塞がりと言う他なく、今彼女が頼れるものは、目の前にいる灼熱の髪の青年だけだ。
しかし、
「しょうがねえ、宝を手放すのはザンネンだが――いったん出直すとすっか!」
ザッツはごそごそとコートの懐をまさぐると、赤い毛玉のようなものを取り出して上に投げた。空中でばらばらと解れると、一直線にピンと張り詰めたロープが出現する。そして更に上方の空間が歪曲し、黒い次元の歪みが出現すると、それに飲み込まれるようにロープは昇っていく。サカナは悟った。間違いない、《《一人用》》のダンジョン脱出アイテム『テセウスの蜘蛛糸』だ。
「あ、あなた、わたしを見捨てる気!?」
「オレちゃんだって自分の命が大事ですぅ。というかパーティも組まずにドラゴンなんて倒せるワケねーだろ! というワケでご縁があればまた会おうぜ、アデュオスアミーゴ! ……って、ナニしやがるっ!?」
「逃がしてなるもんか!」
サカナはザッツの足にしがみつき、便乗して脱出しようと試みるが…、もともと一人一本使用のアイテムであり、重量に耐え切れず――
「うわっ、馬鹿がっ、切れちまうじゃねーか!」
ぶちっと典型的な嫌な音が響いたかと思えば、二人して地面に尻餅をついてしまった。
「きゃあっ!」
「きゃあっ、じゃねーよ! どうしてくれるんだよっ、オレちゃんアレ一本しか持ってねんだぞ!」
「うるさいっ! あなたを止められるなら、村を守れるのなら…、命なんて惜しくないわっ、このまま道連れよ!」
少女がそこまで言い切ると、ザッツは露骨に嫌そうな顔を浮かべた。
謎の使命感と正義感に駆られ、世迷言をいうサカナをぶん殴りたくなったのだ。
そして、このタイミングでは――殴ることは、一石二鳥だった。
「お前、友達いねえだろ」
「えっ――」
ザッツは少女を力いっぱい殴り抜けた。
そのまま壁面に叩きつけられたサカナは、岩肌で切ったのか額から血を流す。流れた血は鉱物へと変わる。
「痛った…、なにするのよっ、この野蛮じ…」
サカナは己の目を疑った。
それもそのはずだ。先ほど自分を殴りつけた青年が目の前から消えていて――すぐ横の壁に叩きつけられていたのだから。…どうやらドラゴンの尻尾の一撃を受けて、吹き飛ばされたらしい。
ざまあみろ――などとサカナが言えるはずもない。
この青年は見捨てる予定だった少女を救うために殴り飛ばしたのだから。
「ふっ、ドラゴンといえど、こんな弱小なオレちゃんを一撃で絶命させられないとは…、登竜門には最適ってことか…、ぐぼっ…」
地面に倒れ込んだザッツは赤黒い血を吐いた。サカナは戸惑いの表情を浮かべた。
「ど、どうして、わたしなんかをたすけ…」
「嫌なんだよ!」
急な大声に、サカナは体を震わせて。
「お前みてえな、自己中心的な正義にうつつを抜かして、自分のことを考えられない馬鹿野郎がな…、オレちゃんは嫌なんだよ!」
それは助ける理由になっていないが、青年は語ることを辞めなかった。
そもそもな、と言いながらザッツは立ち上がり。
「そもそも、オレちゃんと村長の話を盗み聞いてたんだったらな、自分の酒場にその話を持ち帰って、冒険者に相談するべきだったんだ。それをしなかったできなかった。…笑える話だぜ、お前は自分しか信頼してねえんだからよ!」
「っ!」
口元の血を手の甲で拭い、波状槌を握り締め。
「ダンジョンの事もよく分かってない小娘が、ろくに準備もせず一人でやってきて、死んででも村のためにオレちゃんを止めるだと? 笑わせんじゃねえ…、見殺しにしてやろうかと思ったが、そこまで救いようがねえなら気が変わった。オレちゃんがすべてを叩き直してやんよ!」
ザッツは少女の前に躍り出て、迷宮の主――グラスドラゴンと対峙する。
熟練の冒険者ですら、ソロで挑むことは無謀とされる竜種との戦い。
(それが可能となるのは、おそらく大陸中でも……)
一歩前へとドラゴンは歩き、口を開けばその咆吼がダンジョン内にこだまする。
それだけで威圧感は膨れ上がり、サカナは身を縮こませてしまった。
「お待ちどうさん、やっとお前を倒す覚悟ができたところさ!」
「Gururururu......!」
にやりと笑みを浮かべたザッツの足元から、青い炎が噴き出し始めた。
溢れる魔力が炎熱となり、彼を中心に灼熱の魔法陣を描いていく。
今にも飛びかかろうとしていた筈のドラゴンは、その炎に動揺したか動かずに様子を眺めている。何かを感じ取ったのだろうか。
「ハッ、図体の割にはチキンじゃねーか、じゃあさっさとやらせてもらうぜ。…『炉火』の勇者ヘパイストスよ――御身の名の元に、願わくば、我に奇跡の一振りを与えたまえ」
そこで彼が取り出したものは、大量の赤みがかった錆色の鉱石だった。
「なかなか良い鉱石だろ、これがそこらじゅうに落ちてるんだぜ」
「そ、それって、わたしの」
「ボスを倒せるならなんだって使う。リソース消費をケチってたら命なんていくつあったって足りねーぜ!」
それを中空に放り投げると、すぐにザッツは波状槌を振り下ろす。
炎を纏ったハンマーがそれに当たると、どろどろに溶けた鉱石が浮いていて。
「っしゃあオラッ!」
それを叩く。ひたすら叩く。
鉱石はいつの間にか精錬され、どろどろの金属が空中に張り付いている。
そして、叩きつけられるほどに何故か。
(…心が、痛い)
サカナは、自分の胸にちくちくと痛みが駆け抜けていく感覚を覚える。
まるで自分が叩かれているかのように切なくなる。
「痛えのは、当然だろうが」
ザッツの言葉にハッとなる。
「鉱血病の血は、外に流れようとお前自身であることに変わりない。オレちゃんがハンマーに『思い』を乗せて打ってんだ、心に響いてなきゃ困る」
「『思い』を……、乗せる……?」
「すべてを叩き直してやるって言っただろ、オレちゃんにはそれができるんだぜ」
どろどろの金属は、叩かれるたびに徐々にその存在を明確に現していく。
そう、一振りの武器が、今ここに完成しようとしているのだ。
「今、オレちゃんが言いたいことはただひとつだ」
その言葉を鍛冶を通して伝えてやる。
最後の一打――この一打に全てを込めて、ザッツは波状槌を振り下ろした。
凄まじい打音がダンジョン内を走り抜けていき、その振動はドラゴンを後退させた。
「こ、これは」
そこには、赤みがかった鉱石から成ったとは思えない、
どこか神々しい、青白き輝きを放つ刃が、
満を辞して、顕現されていた。
「これこそが『純青刃トラストスラッシュ』だ。…ま、そんなくっそだせーのは、今つけた名前だからこそなんだけどな!」
「なんだか、歪な感じするけど…、これでドラゴンをなんとかできるの?」
「それは…、お前次第かな」
「えっ」
「間違いなく会心の出来だし、その一撃でグラスドラゴンを沈めるぐらいにはつえーよマジで。たぶん。でもそれは、お前にしか使えないってことだよ、…言わせんな恥ずかしい!」
「えっ」
サカナは困ってしまった。
これを使って、目の前のドラゴンを倒せと言うことか。
冗談ではないと少女は思う。彼女は冒険者ではなく、ただの酒場の主人に過ぎないのだから。
「無理よっ、そんなことできるわけないでしょ!」
「できるに決まってんだろ! その刀はお前なんだぞ、ダチですらないオレちゃんがどうにかできるわけじゃねーし、使い方が一番分かってるのはお前しかいねーんだよ!」
さっきのドラゴンの一撃とヘパイストスの鍛冶式でザッツの肉体は満身創痍なのだ。音を出すだけの波状槌では歯が立たないし、勝ち筋を得るためには新しい武器を手に入れる必要があった。だからケイブバットに襲われてなお、余力のあったサカナに賭けるしかなかったのだ。
「それに、ずっとオレちゃん、お前に鍛冶を通して伝え続けてきただろーが」
「………」
やるしか、ないのか。
ないのだろうな。
そう思い至ったサカナは、空中に浮いたそれに手を伸ばす。
「っ!」
これは間違いなく、『わたし』だと少女は思った。
それも未来を歩んでいる、理想の姿である自分自身に違いない。
否――これはこの男に打ち直された、新しいサカナそのものなのである。
『信じろ』
――打ち続ける彼から、聞こえてきた言葉。
『人を信じろ』
――利益や損得で考えず、他人を信頼してみろ。
『オレちゃんを信じろ』
――この状況を打開するために、そして生き抜くために。
『自分を信じろ』
――己の力を信じ、その武器をもって、活路を切り拓け!
「おっ、ようやく目の色が変わったな」
サカナが打ち直した少女と同調したことを確信し、ザッツは背後の壁まで下がると、へたりと座り込んだ。
「オレちゃん限界、はやくなんとかしてくれよな」
「うるさい、気が散るから黙ってて」
刀を振るう姿にしては、あまりにへっぴり腰で格好悪く、
明らかなレベル差、格上からの恐怖で握り込みも甘くなっている。
しかし勝てるという確信が、どこからともなくふつふつと湧いてくる。
この男を信じている自分がいるからか。
いずれにしても、それが正しいかどうかは、このドラゴン討伐の成否で分かる。
然らば。
「でやあああああッッ!!!」
生まれてから一度も出したこともない声をあげて、サカナは勇猛果敢にドラゴンに向かっていった――