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ザッツ・ニルセンが甲高い、少女の悲鳴を聞いたのはテントの中でうたた寝に耽っているときだった。起き抜けでまったく頭が動いていなかったが、仕事に取り掛かる前の、体調を整えるための、儀式にも似た崇高なる午睡を邪魔され、気分はあまりよろしくなかった。とにもかくにも、安全確認のため、ザッツは周囲の様子を窺おうと不機嫌そうな顔を外に出した。
「……ったく、人が気持ちよく眠ってるっつーのに、余計なモンまで起こしやがって」
やれやれ、と彼は自らの得物である大振りのハンマー――その名を波状槌と呼ぶ――を手に取った。少女の悲鳴だけでなく、モンスターの咆哮も雑ざっていたからだ。火の粉が降りかかるならば払わなければいけない。最低限、自分の身を護ることは旅人にとっては当然のことだ。
しばらくすると足音が聞こえてきた。洞窟内はよく響くので、大まかな位置が感覚的に分かってくる。…どうやら距離はまだ近くないが、こちらへ向かってきていると判断できた。
ザッツは身を潜めた――と同時に、彼の眼前をポンチョ服の白髪の少女が通り過ぎてゆく。続いて彼女を追って数匹のコウモリが金切り声をあげて飛び去っていった。このモンスターはケイブバットといい、超音波を出し獲物の位置を探知する、いわゆるエコーロケーションを使うのだが、ザッツに対して襲いかかってくることはない。
息を潜めて待っていると、次第に喧騒が離れていき、ザッツはひとつ息を吐いてから波状槌を地面に下ろした。
「あの様子じゃあ、コウモリ避けの吸音鱗粉を塗布してねぇな。この階層における危険モンスターに対策すらしてねぇとなると――ま、せいぜいが駆け出しの冒険者だろ。せいぜい楽に逝けることを願って…、オレちゃんは寝る!」
助ける義理はない、と言わんばかりにザッツは大きく欠伸をした。自らの赤い髪をわしゃわしゃとかいてから、仰向けに寝転がって目を閉じようとした。そのとき、地面に光る何かが落ちていることに気がついた。
「なんだこれ」
先の少女が逃げながらに落としていったもの。
好奇心から気だるい体を起こし、それを拾ってみる。ざらついた、少し赤みがかった錆色の、何らかの石の破片だということがわかった他、同じようなものが少女の逃げた先へ点々と続いている。
「………」
思うところがあるのか、ザッツは思案顔を浮かべて――愛用のゴーグルと、波状槌をその手に握ると、足早にテントを抜け出していった。
★ TIPS ★
「ライツ村西の洞穴」――小迷宮/ランクD
三階層構成の、比較的浅いタイプのダンジョンであり、新人冒険者の力試しに利用されている。洞穴周辺の森に生息するビッグモスの鱗粉を体に塗布することで、全域に渡りダンジョンに巣食っているケイブバットをいなすことができる。
「くぅっ、話で聞いてたより、こんなにっ……!」
一心不乱に、少女は走っている。
好戦的なモンスターに分類され、かつ駆け出しの冒険者はそこそこ苦戦すると言われるケイブバット――彼らに集団で追い回され、普段は静かなダンジョンの中も阿鼻叫喚の賑やかさだった。コウモリたちの羽音、少女の悲鳴、そして足音。それらはひとつの物語の終わりを予兆させる、悲劇の三重奏――だが、少女の悲鳴だけは恐怖から来るものではなかった。ケイブバットの一匹が、彼女に向けて飛びかかる。血しぶきが中空を舞う。少し遅れて金属の転がる音が広がる。
「ひぁッ――!?」
それは、痛みがもたらす悲鳴だった。
目元には涙を浮かべているが、決して絶望はしていない強気の表情。
逃げ切れば、命さえ持てば勝ちなのだ、と言いたそうな――駆け出しの冒険者には滅多に見られない、気丈な精神を備えていると窺える。
だが、分不相応な実力では、返り討ちに遭うのも現実であり必定。
パーティも組まず、行き先の情報も調べず、勇気ひとつで攻略できるほどダンジョンは甘くない。
だから、
「い、行き止まり!?」
だから、少女はついに逃げ場を失った。
袋小路に追い込まれ、格上のモンスターから「逃げられない」状況。
それが意味するものは、
「…死、ぬ」
避けることができぬ、己の死。
それを悟った少女が紡いだ言葉は――あまりにも切なすぎた。
みるみるうちに覇気は失せ、青白い顔の少女にケイブバットたちが飛びかかる。死を覚悟した少女はぎゅっと目を閉じる。そして、
「しゃあっ、お宝発見オレちゃん頂きぃ!」
「え――」
赤髪の、ゴーグルをつけたアイツが、喧騒の真っ只中へ飛び込んでくる――!
少女は目を丸くして、その様子を見守る他なかった。
ケイブバットたちは突然の闖入者に驚き、戸惑っているようだ。
「あの」
「耳塞いどけ」
一方的に命令された少女は、言われるがままに耳をふさいだ。
ザッツの持つ波状槌が脈動しているところを少女は見逃さなかった。魔力を主体とした動力式武器であることには違いない。《《きっとあれで幾多のコアを破壊しているのだろう》》――と少女は思った。
「しゃっ、オルァッ!」
身の丈以上もありそうな、鳴動する大槌が勢いよく振り下ろされる。
空を切って進むそれが、ケイブバットにかすりもせず――しかし、地面を思い切り穿つそれが、金属音と共に暴風を巻き起こす!
「ぴぎゃアアアアアアアッ!?」
キーーン! と断続的な劈く音に、ケイブバットは一匹残らず、散漫な動きで壁や床に激突し、気絶してしまった。ぴくぴくと痙攣している様子は、一目で無力化したことが分かるほどに情けなかった。少女の方はというと風の勢いに呷られて、そのまま尻餅をついてしまったようだ。
「うっし」
「あ、あなた、今何を――」
ビリビリと震えていた波状槌が静止すると、ザッツはそれを肩に担いで少女の方へと向き直った。なにが起こったのか分からないような――開いた口の塞がらない彼女に近づくと、膝をついてケイブバットにやられたであろう痛々しい傷口に触れる。かさぶたのようになっているそれは、とても硬くて、ざらざらとしていて――きらきらと鈍い錆色に光っていた。
「ふーん、やっぱりか。いやー、こんなところで鉱血病を拾えるとは思わなかったぜ!」
「…ッ!」
先ほどの戦いで呆気に取られていた少女は、己を蝕む病の存在を忘れていた。
触れられたところを隠す仕草を取るも、今の自分はケイブバットにやられて傷だらけなのだ。隠し通せるわけがない。
鉱血病。
それは血液が空気に触れると、鉱石と化してしまう――呪いの一種だ。原因が特定できず、治すことがかなわない奇病。忌むべきものとして隠し通すべきそれが、あっさりと他人に知られてしまったことに、少女は複雑な心境となる。
否、これはダンジョンを甘く見ていた己自身への罰なのかもしれない、むしろ生き残れた運命と、この男に感謝すべきなのだ――と、少女は思い直うものの、このダンジョンに訪れた理由を忘れてはいない。元をたどれば、この男が原因なのだから。
少女は満身創痍の肉体をゆっくりと立ち上がらせて、決意の眼差しをザッツへと向ける。
「名乗り遅れてたわね…、わたしはライツ村の酒場の亭主、サカナ・ミスエータというものよ」
「酒場の亭主? …はーん、どおりで。あんな杜撰なダンジョンの潜り方をするんじゃ、駆け出し冒険者ですらないとは思ってたが、これは大穴だなあ。しかし、年端もいかない、ちんちくりんなマスターもいたものだ。さぞかしその手の客に喜ばれるだろうよ、あっはっは」
物理的にも上から目線の、からからと笑う男に少女はむっとなるが、無視して言葉を続けることにした。
「さっきは助けてくれてありがと。…あなた、ザッツ・ニルセンね」
「あれっ、なんでオレちゃんの名前を知ってんの?」
すうーっ、とひと呼吸置いて、少女は要件を言い放つ。
「わたしは、あなたを止めに来たのよ。
このダンジョンを、絶対に破壊させたりなんかしないから!」
男はきょとんという顔を浮かべた。不安そうな表情から一転して鬼気迫るサカナの顔に、ばつが悪そうな表情を次に浮かべ、ザッツは頬を人差し指で掻いた。目線は明らかに横に流れている。
「ほーん、オレちゃんがダンジョンブレイカーってことも割れてるのか。名前を知ってたことも合わせると、酒場の筋ってワケでもなく――村長との会話を盗み聞いてたな?」
サカナが首を縦に振る。
やれやれ、と困った様子をわざとらしくアピールするように、ザッツは肩を竦めてみせた。
「もちろん仕事は知ってるつもり。…ダンジョンブレイカー。単純に破壊者とも呼ばれることもある。ダンジョンに潜るのは冒険者と同じだけど、あり方はまったく逆の存在。何故ならダンジョンの核となっている、コアを破壊してダンジョンそのものを殺してしまうから」
「勉強熱心なことだなっ、自分のことしか考えてないオレちゃんは感心しちゃうね」
「周辺のモンスターを強くしたり…、ダンジョンが、災禍をもたらしてることは知ってるわ。だけど恩恵だって与えているの」
「うんうん」
「このダンジョンでいえば、熟練を積むための新米冒険者が街に訪れて、周辺のモンスター退治をしてくれたり、宿やお店を利用することで地域の活性化を促したり…、彼らはダンジョンと共生することで、わたしたちの村をウィンウィンな関係に持ち上げてくれてるの。…村長さんが何を考えてるか分からないけど、ダンジョンがなくなることは村にとって大きな損失になる。だからこそわたしは村のために、命の危険を冒してまであなたを止めに来た!」
そうだ。
サカナは村の為を思って、目の前の青年を止めに来た。
使命感があるからこそ、一人でダンジョンに向かうことも恐れはしなかったのだ。
だが、
「そうやってピクニック感覚で訪れては、小迷宮だからと侮り死にかける」
ザッツの言葉は残酷そのものだった。
「それに、村のことも何も考えてねえ…、お前もオレちゃんと同じで自分のことしか考えてねーんだな」
「なっ……!」
「自分の酒場を守りてえだけじゃねーのか、違うか?」
サカナは男の言動に憤りを覚えた。
旅人の寝床を提供する宿屋の女将さんも、ダンジョン付近の森に薬草を取りに行く薬剤師のお姉さんも、狩りでとってきた素材に目を輝かせる鍛冶屋のおじさんも――みんなみんな、冒険者とダンジョンのおかげで豊かな暮らしを感受できている。そして他ならぬ、自分の店を守って何が悪いと少女は思う。若くして継いだ、亡き父の残した酒場は冒険者たちの憩いの場所なのだ。
「なんと言われようと、あなたをこの先には進ませない!」
少女は震える手で、フライパンを構えてザッツを見据える。
こんなものひとつで刺し違えてでも止めようとする姿は滑稽だろうが、使命感に駆られた彼女は、逃げるわけにはいかなかった。ダンジョンが殺されれば、代々守り続けてきた酒場も殺されてしまう。
「…っ、おいおい、こんな茶番、演じてる暇はないようだぜ」
震えている。
サカナの体が、ではない。
ダンジョン全体が震えている。まるで呼吸するかのように。
「な、なにっ」
「思いっきり、ぶっ叩いたからなぁ…、あまりに大きな音出しちまったせいで、どうやら起こしちまったようだぜ」
ダンジョンの奥からやってくるもの。
サカナは亭主として、酒場で何度も、何人もの駆け出し冒険者の武勇伝を聞いていた。曰く、それを倒せば冒険者としてようやくスタートなのだとか。だから、新米でも倒せるようなそれは、もっとちっぽけなものかと思っていた。…だが、その巨大な影を認めて、少女の顔は青ざめた。
「小迷宮だろうと、コアがある限り存在する、ダンジョンボスのお出ましだ」
逃げ道のない、彼ら二人の前に立ち塞がるは、
鋭い爪を持ち、堅牢な緑鱗に覆われた、巨大なドラゴンだった――。