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理容店KIRISAKI  作者: 秋山 楓
第2話 五人目の被害者

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第4章 五人目の被害者

「……思った以上に視線が痛いな」


 覚悟はしていた。ゴシックロリータ姿の少女を連れて歩けば嫌でも注目を集める、と。


 しかし自分が送って行くことになって正解だったなと、天宮は思った。里緒のファッションと組み合わせると変な連中を引き寄せる危険性もあるし、怜生だったら警察を呼ばれそうだ。高校生の自分なら、ギリギリ兄妹に見えなくもない……と考えると、普段から真理子を連れている王子創平は、相当な精神力を備えているんだなと感心した。


 王子探偵事務所の所在地は、『理容店KIRISAKI』から近くもなく遠くもなかった。歩けばそれなりに疲れるものの、わざわざバスに乗るほどでもない絶妙な距離。結局、二人は徒歩を選択したわけだが、真理子を送り届けてから再び店に戻るのは非常に億劫だった。


「電話番号くらい交換しとくんだったな」


 里緒もあの調子だったし、今日はもう調査どころではないだろう。このまま直帰したい気分である。


「この交差点を右に曲がった方が早いのか?」


 しかし天宮は躊躇した。一直線に事務所を目指せばいいのだろうが、そうすると高校の近くを通らなければならないからだ。今日は休日とはいえ、いつどこで知り合いに遭遇するか分かったもんじゃない。


 そして独り言や無意味な思考が増えた理由は、隣の真理子にあった。


 まったくもって無言である。一応は手を繋いでくれているものの、ほとんど喋ることはなかった。天宮が道を尋ねた際、首を縦か横に振るくらい。こちらから話しかけた時に反応する以外は、ほとんど足を動かすだけの人形と化していた。


 嫌われている……わけではないと思う。むしろ初対面で敵対していた割には懐いている方だと思う。つまり無口なのは真理子本来の性格なのだろう。


 この子が普段ちゃんとした学校生活を送れているのか、天宮は少しだけ心配になった。


「えっと……真理子ちゃん、だっけ?」


 目立った反応はない。ただ握っている手が少しだけ弱くなった。

 それを話しかけてもいい許可だと、天宮は勝手に判断する。


「真理子ちゃんって、歳はいくつ?」

「…………十歳」

「じゃあ小学三年生……いや、四年生か?」


 真理子は黙って首を横に振った。

 歩きながら、こちらを見上げてくる。どことなく鼻の頭に皺が寄っているように見えた。


「学校には行ってない。兄様が行ってはいけないと言っていた」

「小学校に行っちゃいけない?」

「危険だから」


 何故そう思うのだろう。


 確かに今の服装で登校すれば、イジメの対象になるかもしれない。しかし高校生の天宮から見ても、真理子は可愛いと思う。イジメられるどころか、クラスのアイドル的な立ち位置になっても不思議ではない。それとも王子創平は、真理子の根暗な性格を懸念しているのか。


 いや、逆か。危険なのは真理子ではなく、クラスメイトの方だ。

 怜生の話を思い出して、天宮は身を震わせた。


「呪家の第二子は、主に物理的な干渉をする能力が多いと兄様は言っていた。干渉って何?」


 質問されたが、こっちが聞きたいくらいだった。

 物理的な干渉? つまり能力が現実世界に及ぶということ?


「お兄さんの能力は確か、相手の目を見つめて視界を反転させることだったよね?」

「一瞬だけならそう。でも長く見つめていれば、相手の意見や判断も自由に反転させられるって兄様は言ってた」


 訊ねていないことまで教えてくれた。意外にも気を許してくれているのだろうか。


 視覚や思考の反転。つまり他人の脳への干渉。霧咲家の第一子である里緒の能力、他人の感情を切り取るというのも、言ってしまえば相手の脳内を操作しているようなもの。それらを加味して、第二子である怜生の能力を分析してみると……。


「あぁ、なるほど」


 結論は出た。


 第一子は人間の精神に関する能力を持ち、第二子は実際に目視で確認できるような能力を発揮できるといったところか。


 葬儀の時に挨拶したが、セナも地方の大学に通っている姉がいる。つまり第二子。右手の呪いは、キャンバスに彩られたインクが動くという物理的な能力になったわけだ。


 そして里緒の『才能のほとんどは第一子に継承される』という言葉。


 仮に第二子の能力が出涸らしであれば、呪家に刻まれた呪いは、人間の精神面をどうにかしたいがために生まれたんじゃないかと、天宮は思った。


 深く考え込んでいると、真理子が急に力強く引っ張った。


「そっちじゃない。こっち」

「あぁ、ごめん」


 考えに没頭していたため、無意識のうちに自分の家へ向かっていたようだ。


「でも小学校には行っておいた方がいいんじゃないかな? 義務教育だし」

「必要ない。勉強は兄様が教えてくれる」

「学校は勉強をするためだけの場所じゃないんだけどな」


 本当にこの子の将来が心配になってきた。

 ふと視線を感じて横を見ると、真理子がこちらを見上げていることに気づいた。


「あなたは学校には行かないの?」

「今日は土曜日……お休みだから」

「ふぅん」


 納得したように頷くも、真理子の瞳は天宮を離さない。じっと見つめてくる様子を訝しく思った天宮は、ついつい足を止めてしまった。


「……どうしたんだ?」

「あなた、どうしてあの女の言いなりになってるの?」


 あの女。つまり霧咲里緒のことだろう。


「別に言いなりになってるわけじゃない。俺には目的があって、それを手伝ってもらってるんだ。だから逆らえないように見えてるだけ」

「その目的って、殺人犯を捕まえること?」


 細められた少女の瞳が、天宮を射抜いた。

 彼女の問いには、首を横に振りたかった。殺人犯を殺すこと。それが本当の目的。

 でも、そんな物騒な真実をわざわざ教える必要はない。


「あぁ、そうだよ」


 だから嘘をついた。


「ふぅん。ならいいや」

「ならいいって?」

「あなた、優しすぎるし、怖すぎる」


 意味を捉えきることができず、天宮は首を傾げた。


 優しすぎて逆に怖いとか、怖すぎるからこそ一握の優しさが目立つとか、そういったニュアンスではないようだ。ただ文字通り、真理子から見た天宮は優しすぎるし、怖すぎる。


 しかし、この二つは同時に両立できるのだろうか?


「なんだろ。水と油みたいなものかな。透き通った優しさの水たまりに、どす黒くて鈍い色の怖さが浮き沈みしているような、そんな感覚?」

「それが普通なんじゃないのか? 感情なんて時と場合で変わるものだろ」

「そうなの?」


 純粋無垢な瞳の中で、真理子は疑問を露わにする。なんだか、お互いの想像している話の内容が食い違っているような気がしてきた。


 それにしても学校に行っていない割には、真理子は驚くほど多くの物事を知っているなと天宮は思った。兄の創平も見た目は秀才そうだったし、勉強の教え方が上手いのかもしれない。


「真理子ちゃんは、どうしてそう思った? 俺が優しすぎて、怖すぎるって」

「ん? 目を見て」

「……なるほどな」


 おそらく昨夜のように、王子創平は真理子を助手として仕事に連れ回しているのだろう。ならば彼女は、この年齢で天宮よりも多くの人間を目の当たりにしているはず。そう考えると、十歳にしては妙に落ち着いている理由にも納得がいった。


「あなたの目はなんていうか、その……んー、やっぱりいいや。疲れた。おんぶして」

「はあ!?」


 突然の要求に天宮は狼狽する。

 おんぶ? こんな街中で? 十歳のゴスロリ少女を?


 しかも天宮の高校は目と鼻の先だ。期末テスト前の土曜日とはいえ、自主練に通う生徒もいるだろう。二度と日常生活に戻れなくてもいいと覚悟したが、さすがにこれは意味が違う。


 真理子はじっとこちらを見上げたまま、一歩も動こうとはしない。まあ座り込まないだけマシかと、天宮は諦めた。


「兄様は文句も言わず背負ってくれる」

「それは君らが兄妹だからだ」


 周囲の人通りが少なくなったことを確認してから、天宮は真理子を背負った。


「事務所まであとどれくらいなんだ?」

「歩いて十分くらい?」


 それは真理子の足で、という意味だろう。そう遠くないのが不幸中の幸いだ。体力的にも限界はある。


 とはいえ真理子は想像以上に軽かった。衣装分を差し引いたら、真理子本人の体重はほとんどないんじゃないかと驚いてしまうくらい。こりゃ真理子にちゃんと食べさせてやってるのか王子創平に問い詰めるべきだな。と、質問の項目を一つ増やしたところで……知り合いに遭遇した。


「天宮……お前……」


 顔面蒼白になってこちらを指さすのは、親友の川添慎吾だった。防具袋を足元へ落としたところを見るに、よほどショックを受けたに違いない。


 相対する天宮は意外と冷静だった。知り合いと遭遇するのは覚悟の上だったからだろう。ただ納得させられる言い訳をまだ考えておらず、露骨に視線を泳がせていた。


「あぁ……いや……」


 先に膠着状態を解いたのは慎吾の方だ。震える指を下ろして、この世の終わりを目の当たりにしたような、悲壮感に満ちた面持ちを露わにする。


「安心しろ。余計な詮索をするつもりはない」

「マンガとかで見る誤解って、こうやって招くものなんだな」

「誤解なのか? お前に妹がいたなんて初耳だぞ」

「たとえ妹だとしても、こんな姿で往来を歩かせるのは人としてどうかと思うが」

「妹じゃなきゃ、なおさら悪いだろ」


 そりゃそうだと、天宮は嘆息した。

 すると突然、後頭部を叩かれた。急な痛みのせいで視界が真っ白になる。


「今、兄様のことを悪く言った!」

「言ってない言ってない! 言ってないから放せ!」


 叩くだけならまだしも、髪の毛を力一杯引っ張るのはやりすぎだ。


 将来の頭髪事情が心配になったところで、ようやく力を緩めてくれた。ただ物理的な痛みが治まってくると、今度はじっと半眼で睨みつけてくる慎吾の視線が痛くなった。


「で、天宮。その子をどうするつもりなんだ?」

「どうするもなにも、事務所……家に送り届ける途中なんだよ。いろいろあって知り合いになっちまったからな」

「いろいろって何だ?」

「いろいろは……いろいろだ」


 説明するわけにもいかないというか、どう説明していいか分からなかった。


 殺人事件を独自で調査しようとしていたら、呪家という奇怪な能力を持つ人たちと出会った……と話しても、信じてもらえる自信はない。


「ま、なんにせよだ。お前がまだまだ元気そうでよかったよ。青山の葬式の時は、お前マジで自殺でもしそうな顔してたからな」

「自殺なんて……するかよ」


 殺人犯を殺すまで誰が死ぬものか。


 いや、犯人を殺そうとしている時点で、すでに自殺行為みたいなものだ。あまり強く否定できそうになかった。


 影が差す天宮の胸中を知ってか知らずか、慎吾は嘲笑うかのように言う。


「新しい恋人探しもいいけど、相手の年齢はちゃんと考えろよ」

「言って良いことと悪いことがあるぞ」


 とはいえ冗談だとは分かっている。ここは腹パン一発で勘弁してやろうと考えたが、真理子を背負ったままなのでそれも断念した。


 と、慎吾が足元の防具袋を拾った。どうやら部活に向かうらしい。

 すれ違いざまに肩を叩かれる。振り向くも、彼の視線は真理子へと向けられていた。


「天宮。あまり深入りするなよ」

「は?」


 それ以上の言葉はなく、慎吾は「じゃあな」と言って去って行った。


 普通なら『殺人事件への深入り』と考えるのが妥当だろう。親友が危険な目に遭うかもしれないのを、引き止めたい気持ちは理解できる。だが昨日は犯人を見つけたら殺さない程度にボコボコにしてやれと、竹刀を渡された。だから『深入りするな』よりも『根を詰めすぎるな』の方が妥当だと思うのだが……まさかロリコンへの深入りという意味ではあるまい。そうでないことを願う。


「そういえばアイツ、真理子が誰なのか訊かなかったな」


 余計な詮索はしないと言っていたが、天宮が慎吾の立場だったら絶対に訊ねていたと思う。何も訊かずにいてくれた親友に、少しばかり感謝の念を抱いた。


「って、こんな所で突っ立てたら注目の的だ。さぁ行くよ、真理子ちゃん。……真理子!」

「う……ん?」


 コイツ、寝てやがった。むしろ今から寝るつもりだったのか。

 結局、眠り姫を無理やり起こして機嫌を損ねるのも嫌なので、そのまま向かうことにした。


 ひとまず高校の圏内は何事もなく切り抜ける。住宅地を離れ、周囲に飲食店やガソリンスタンド、そして小さめのビルが多くなってきた。


 片側二車線の国道に跨る歩道橋に上ったところで、天宮は背中を大きく揺らした。


「おい、着いたぞ。王子探偵事務所はどこなんだ?」


 周りには似たようなビルが立ち並んでいる。違いといえば、背の高さと外壁の色くらいだろう。高校生の天宮にとって、中にどんな企業が入っているかなど、まったく見当もつかない。窓に大きく事務所名が張り出してあると助かるのだが。


「ん……あっち」


 あっちというか『あれ』らしい。どうやらすでに見えていたようだ。

 歩道橋から下りると、途端に元気を取り戻した真理子が背中から飛び降りた。


「兄様以外の人におんぶしてもらったってバレたら怒られちゃう。絶対に内緒よ」

「はいはい」


 そのシスコンぶりでは俺の方が殺されちゃう。と、天宮は思った。


 五階建ての雑居ビルの中、王子探偵事務所があるのは二階だ。一階はスナックが入っているが、四階と五階は空きテナント。外には看板も見当たらないのに、これでよく依頼が舞い込んでくるものだと感心した。


「『理容店KIRISAKI』と似たようなものか」

「あの女と一緒にしないで。営業とか勉強とか、兄様はすごくがんばってるんだから」


 どうやら聞こえていたらしい。天宮は平謝りした。


 まあ探偵に依頼をする人間というのは、少なからず後ろ暗い事情を抱えているのだろう。あまり大々的に宣伝すると、それこそペットの捜索くらいしか依頼が来なくなってしまうのかもしれない。


 そんなことを考えながら階段を上っているうちに、二階へ到着した。

 踊り場にある扉に手を掛けると、真理子が半眼で睨んでくる。


「本当に来るの?」

「話がしたいからね。頼むよ」


 特に拒否られはしなかった。ふーんと言っただけで、真理子は扉を開ける。


「兄様、ただいま帰りました」


 事務所の中は、想像していたよりも狭かった。


 高校の教室を縦長にした感じだろうか。入り口付近には応接用のソファとテーブルがあり、資料の詰まった本棚やガラス戸棚が壁際に並んでいるため、余計に狭く見える。給仕用のシンクやコンロはあるものの、調理をするには向いていない。完全な仕事場だ。また王子創平の性格が表れているのか、全体的にしっかりと整理整頓が為されていた。


 そして所長である王子創平本人はというと、窓際にある執務机の向こうで、オフィスチェアに座ったままぼんやりと空を見上げていた。


「兄様?」


 再び呼びかけた真理子が兄の元へ寄っていく。天宮もその後に続いた。


 昨夜、霧咲側にいた天宮にとっては、少しだけ申し訳ない気分になった。最愛の妹が呼びかけても反応が薄いのは、里緒のせいだろう。あれからまだ一日も経っていない。すべての感情が元通りになるのは、もう少しだけ時間が必要だ。


「兄……様?」


 真理子の声が怪訝そうになったところで、天宮も違和感に気づいた。


 すべての感情を失ったといっても、それは心が動かなくなっただけ。決して知能が低下したわけではないし、昨夜はちゃんと自分の足で立って言葉を発していたはずだ。何故、返事をしない?


 嫌な胸騒ぎがした。


「…………」


 ついに呼びかけることもしなくなった真理子が、創平の背後に立つ。

 椅子に腰かけている兄の後頭部は目の前にあった。

 小さな手が、兄の肩に触れる。

 椅子が回る。


 王子創平の眼窩に眼球は収まっておらず、ただ黒い穴が二つ空いているだけだった。


「あ……、あ……」


 柔らかい感触が天宮の腹に当たった。真理子が二歩ほど後退したからだということは、すぐに分かった。けど天宮には受け止めることができなかった。真理子の身体も、現実も。


 これは何の冗談だ? 王子創平の身に何が起こったんだ?


 昨夜と同じ白スーツは、眼窩から垂れた血液によって赤く染まっている。それ以外に目立った汚れはない。いや、天宮の目に一瞬だけ映った。事切れている王子創平の首元に、不自然な赤い線が――、


「ああああああああぁぁぁぁあああぁーーーー!!!」


 少女の感情が爆発した。

 耳を劈くような金切り声が響く。呆然としていた天宮は、ハッと我に返った。


 ガシャアアアァァァァンッ!!


 それと同時に室内の窓ガラスがすべて割れた。蜘蛛の巣のような罅が入ったとか、そんな生易しいものではない。金属バットで勢いよく殴りつけたが如く、粉々になったガラス片が辺り一面に散乱する。


 何一つ状況が理解できなかった。何故、窓ガラスが割れたのか。何故、王子創平は殺されているのか。


 しかし一つだけ、この場でやらなければならないことは明白だった。

 一心不乱に悲鳴を上げている少女を、天宮は優しく抱き寄せる。


「見るな!」


 まだ幼い真理子に現実を見せたくはなかった。


 最愛の人の死。自分も体験したからこそ分かる。これ以上に辛いものはない。天宮も耐えられなかった。耐えられなかったからこそ、復讐などという安易な道を選び、自分を今日まで繋いでいるだけだ。


 こんな小さな子に、誰かを恨んでほしくなかった。憎んでほしくなかった。

 一生の傷にしてほしくなかった。


「あああぁぁああぁーーー!!!」

「頼む。頼むから……見ないでくれ」


 天宮の願いも空しく、少女の咆哮は続いた。

 せめてもの抵抗として、真理子の後ろから目隠しを試みる。

 だがしかし――、


「うぐッ!」


 肉を引っ掻き回すような不快な音とともに、右手に激痛が走った。慌てて手を引き、確認する。まるで右手の内側から小さな爆発でも起こったように、皮膚が弾け、肉は抉れ、中の骨まで見えていた。


「な……んだ……?」


 瞬時に思い至ったのは、奇跡としか言いようがない。


 王子家の呪われている部位は眼球。第二子は物理的な干渉をする能力であることが多い。そして真理子の能力は『視た物の裏と表を反転させる』こと。


 つまり目隠しをしようとした天宮の右手は裏返る途中であり、ガラスが割れたのも裏表を反転させる作用に耐えられなくなったからだろう。真理子の能力は明らかに暴走している。


 見れば、周囲の家具も奇妙な音を立てながら震動を始めていた。このままでは、ここら一帯の物がすべてスクラップと化してしまう。


 だが、そんなことはどうでもよかった。

 天宮の願いは一つだけ。

 真理子に、最愛の兄の亡骸を見てほしくはない。

 その願いが叶うなら、右手を失うくらい安いものだと思った。


 肉が削げ、血液が溢れる右手で、再び真理子の視界を覆う。


 内側から裏返っていく感触。五指が不自然な方向へ曲がり、ドリルのように回転する。神経が完全に切断されたためか、手首から先の感覚はすぐに無くなった。


 ただ傷になってほしくない。そう願いながら、天宮はずっと真理子を抱きしめていた。


「ああああぁぁああッッッ…………あ…………」


 やがて激情が限界を突破したのだろう。糸が切れたマリオネットのように、真理子は力なく身体を天宮に委ねた。


 終わった。と、天宮は安堵する。


 そして緊張の糸が切れ、右手の激痛に耐えられなくなった天宮もまた、真理子を抱えたまま気を失ってしまった。

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