第4章 五人目の被害者
「……思った以上に視線が痛いな」
覚悟はしていた。ゴシックロリータ姿の少女を連れて歩けば、嫌でも注目を集める、と。
しかし自分が送って行くことになって、天宮は正解だと思った。里緒のあの格好との組み合わせでは妙な連中を引き寄せる危険性もあるし、怜生では警察を呼びそうだ。高校生の天宮なら、ギリギリ兄妹に見えなくもないだろう。……そう考えると、いつも真理子を連れている王子創平は、相当世間知らずか精神力がタフなのだろうと思った。
王子探偵事務所の場所は、思っていた以上に遠かった。一応市内ではあるが、散歩がてらでもない限り、とてもじゃないが歩いて行こうとは思わない距離だ。しかも天宮の自宅を挟んで正反対の位置であるため、事が済んだらそのまま帰宅したくもある。里緒のあの調子じゃ、今日はもう調査どころではないだろうし。
「携帯番号くらい交換しとけばよかった」
万が一夜逃げでもされたら、今後絶対に出会うこともない希薄な仲だ。つい最近出会ったばかりだとはいえ、協力者のことを何も知らない事実に、天宮は嘆いた。
「この交差点を右に曲がった方が早いのか?」
しかし躊躇われる。一直線に事務所を目指せば早いのだろうが、そうすると高校の近くを通らねばならないからだ。今日は休日の昼間。いつどこで知り合いに出会うか分かったもんじゃない。
そして独り言が多く、無意味な思考がはかどる理由は、隣の真理子にあった。
まったくもって無言である。一応は手をつないで真横を歩いてくれてはいるものの、ほとんど喋ることはなかった。天宮が道を聞いた時、首を縦に振るか横に振るかの反応くらい。こちらから話しかける以外は、脚を動かすだけのほとんど人形と化していた。
嫌われている……わけではないと思う。いやむしろ、昨日敵対者として初対面を果たした割には、懐いている方だと思う。つまりどちらかといえば、無口でむっつりとしているのは真理子本来の性格なのだろう。
この子が普段ちゃんとした学校生活を送れているか、天宮は少しだけ心配になった。
「えっと……真理子ちゃん、だっけ?」
目立った反応はない。ただ、握っている手が少しだけ弱くなった。
その仕草を、天宮は話しかけてもいいのだと判断した。
「真理子ちゃんは、歳はいくつだっけ?」
「…………十歳」
「じゃあ小学三年生……いや、四年生か?」
真理子は黙って首を横に振った。
歩きながら、こちらを見上げてくる。どことなく、鼻の頭に皺が寄っていた。
「学校には行ってない。兄様が行ってはいけないと言っていた」
「小学校に行っちゃいけない?」
「危険だから」
何故そう思うのだろう。確かに今の服装で登校でもすればいじめの対象かもしれないが、年上の天宮から見ても真理子は可愛いと思う。いじめられるどころか、クラスのアイドル的な立ち位置になっても不思議ではない。それとも王子創平は、真理子の根暗な性格を危惧しているのか……。
いや……逆か。危険なのは真理子ではなくて、クラスメイトの方だ。
怜生の話を思い出し、天宮は身を震わせた。
「呪家の二人目の子供の能力は、主に現実に顕現すると兄様は言っていた。顕現って何?」
すぐに質問されるが、こちらが聞きたいくらいだ。
現実に顕現? つまり能力が現実世界に現れること?
「お兄さんの能力は確か、相手の眼を見て視界を反転させることだったよね?」
「一瞬だけならそう。でも長い間見つめていれば、相手の意見や思考能力も自由に反転させられるって兄様は言ってた」
訊いていないことまで話してくれた。意外にも懐かれているのだろうか?
視界や思考の反転。つまり他人の脳への干渉。霧咲家の第一子である里緒の能力、他人の感情を切り取るというのも、言ってしまえば相手の脳内を操作しているに過ぎない。それを考慮して怜生の能力を分析すれば……。
「あぁ、なるほど」
結論は出た。
第一子は人間の精神に関わる能力を持ち、第二子は物理的な能力を発揮する、ということか。
セナも確か、地方の大学に通っている姉がいると言っていた。つまり第二子。右手の呪いが、キャンバスに塗られたインクを動かすという物理的な能力に発揮されたのだろう。
そして里緒の『才能はほとんどが第一子に受け継がれる』という言葉。
呪家に刻まれた呪いは、人間の精神面をどうにかしたいがために生まれてきたんじゃないだろうか。
深く考え込んでいると、真理子の小さな手が急に強く引っ張った。
「そっちじゃない。こっち」
「あぁ、すまない」
考えに没頭していたため、無意識のうちに自分の家へ向かっていたようだった。
「でも小学校には行っておいた方がいいんじゃないかな? 義務教育だし」
「必要ない。勉強は兄様が教えてくれる」
「学校は勉強をするためだけの場所じゃないんだけどな」
本当にこの子の将来が心配になった。
ふと横を見て、真理子の澄んだ瞳がこちらに向いていることに気づいた。
「あなたは学校には行かないの?」
「今日は土曜日……お休みだから」
「ふぅん」
納得したように頷くも、真理子の瞳は天宮を放さない。じっとこちらを見つめてくる少女の視線を外すわけにはいかず、ついつい立ち止まってしまった。
「……どうしたんだ?」
「あなた、どうしてあの女の言いなりになってるの?」
あの女。つまり霧咲里緒のことだろう。
「別に言いなりになっているわけじゃない。ただ俺に目的があって、それを手伝ってもらっているだけだ。だから逆らえないように見えているだけ」
「その目的って、殺人犯を捕まえること?」
細められた少女の瞳が、天宮を貫いた。
彼女の問いには、首を横に振りたかった。殺人犯を殺すこと。それが本当の目的。
でも子供にそんな物騒な真実を教える意味はない。
「あぁ、そうだよ」
だから嘘をついた。
「ふぅん。ならいい」
「ならいいって?」
「あなた、優しすぎるし、恐すぎる」
意味を捉えきることができず、天宮は首を傾げた。
優しぎて逆に恐いとか、恐いからこそ一瞬の優しさが目立つだとか、そういうニュアンスではないようだ。ただ純粋に言葉通り。真理子から見て、天宮は優しいし恐ろしい。
しかしこの二つは同時に両立できるのだろうか?
「なんだろう……水と油みたい。優しさの水たまりに、ものすごく黒くて重い恐さが浮き沈みしているような、そんな感覚」
「それが普通なんじゃないか? 感情なんて時と場合で変わるものだろ?」
「そうなの?」
不思議そうな瞳で、真理子は首を傾げる。何故か、話が食い違っている感覚に陥った。
それにしても、十歳で学校にも行っていないにしては、真理子は意外なほど多くのことを知っていると思った。見た目だけなら兄の王子創平は秀才そうだったし、勉強の教え方も上手なのだろう。
「真理子ちゃんはどうしてそう思った? 俺が優しすぎて恐すぎるって」
「ん? 目を見て」
あぁ、なるほど。
この年齢にして、真理子は天宮よりも多くの人間を目の当たりにしている。昨夜のことを考えると、おそらく王子創平は、真理子を探偵助手の役割として仕事に連れまわしているのだろう。そう考えると、十歳にしては妙に落ち着いている理由にも納得がいった。
「あなたの目はなんていうか、その……んー、やっぱりいいや。疲れた。負ぶって」
「はぁ!?」
根っこは見た目通りのお子様なんだなとは思いつつ、突然の要求に天宮は狼狽する。
背負う? こんな街中で? 十歳のゴスロリ少女を?
しかも天宮の高校は目と鼻の先だ。土曜日とはいえ、部活動に通う生徒も多くいるだろう。二度と日常生活に戻れなくてもいいと覚悟はしたが、さすがにこれは意味が違う。
しかし真理子はじっとこちらを見上げたまま、一歩も動こうとはしない。座りこまないだけマシかと、天宮は諦めた。
「兄様は文句も言わず背負ってくれた」
「それは君らが兄妹だからだ」
それに夜間に白スーツで出歩く変態性は俺にはない。と危うく言いかけそうになった。真理子の性格からして、兄のことをバカにされたと思われたら、へそを曲げるだろう。ただでさえ難易度の高い任務なのに、さらに駄々をこねられたらたまったもんじゃない。
一度だけ周囲を見渡し、人通りが少なくなったことを確認してから、真理子を背負った。
「事務所まであとどれくらいあるんだ?」
「歩いて十分くらい?」
それは真理子の足で、という意味だろう。そう遠くないのは不幸中の幸いだ。体力的にも限界はある。
それにしても意外と軽い。衣装分を差し引いたら、真理子の体重はほとんどないんじゃないかなどと感想を抱き、数歩踏み出したところで……知り合いと遭遇した。
「天宮……お前……」
顔面蒼白になってこちらを指差すのは、川添慎吾だった。防具袋をアスファルトに落としたところをみると、よほどショックを受けているに違いない。
対して目の前に突然親友が現れた天宮は、知り合いと遭遇するのは覚悟の上だったためか、驚いたり慌てたりはせず、意外と冷静だった。ただ納得させられる言い訳を考えてはいなかったようで、泳がせた視線を空中へと放り投げた。
車通りの多い県道の歩道。小学校から付き合いの親友同士が出合えば軽い挨拶を交わし、予定が合えばそのまま飯を食いに行ったりもするだろう。しかしそんなどこにでもありそうな日常の邂逅を、天宮の背中の少女は台無しにしていた。
「あぁ……いや……」
最初にこう着状態を解いたのは、慎吾の方だった。震えていた指先で顔を覆い、この世が終わりそうな悲観した面持ちで視線を地面に落とす。
「安心しろ。余計な詮索をするつもりはない」
「マンガとかでよく見る誤解って、こうやって招くものなんだな」
「誤解なのか? お前に妹がいたなんて初耳だぞ」
「たとえ妹だとしても、こんな姿にさせて往来を歩かせるのは人間としてどうかと思うが」
「妹じゃなきゃ尚更悪いだろ」
そりゃそうだ。と、天宮は溜め息を吐いた。
すると後頭部の髪を引っ張られた。突如訪れた痛みに、天宮は呻く。
「今、兄様のことを悪く言った」
「言ってない言ってない! 言ってないから放せ!」
背後を取っているからといって、やりすぎだ。
将来の頭髪事情が心配になるくらい引っ張ってから、やっと力を緩めてくれた。ただ物理的な痛みが治まってくると、今度はじっとりと半眼で見つめてくる慎吾の視線が痛くなった。
「で、天宮。その子をどうするつもりなんだ?」
「どうするつもりって、事務……家に送り届ける途中なんだよ。いろいろあって知り合いになっちまったからな」
「いろいろって何だ?」
「いろいろは……いろいろだ」
説明するわけにもいかないというか、どう説明していいか分からなかった。
殺人犯を追っていたら、呪家などという奇怪な能力を使う人たちと出会った。そう言って信じてもらえる自信など、ありはしなかった。
「ま、なんにせよ、天宮の元気な姿を見れて良かったよ。あん時のお前、マジで自殺しそうな目ぇしてたもんな」
「自殺なんて……するかよ」
殺人犯を殺すまで誰が死ぬか。
いや、復讐の結果として犯人の殺害を望んでいる時点で、すでに自殺行為と同じか。あまり強く否定はできないな。
吐き捨てるように宣言した天宮に対し、慎吾は柔和な笑みを見せる。
「新しい恋人探しもいいけど、相手の年齢はちゃんと配慮しろよ」
「言っていいことと悪いことがあるぞ」
見知らぬ誰かの発言なら容赦なくぶん殴っている物言いも、慎吾相手ならば少々癇に障るだけで済んだ。付き合いも長いことだし、それが冗談であることはよく知っている。
と、慎吾は足元の防具袋を拾った。どうやら部活に向かうらしい。
すれ違う際、肩を叩かれる。振り向くも、慎吾の視線は天宮の少女へと向けられていた。
「天宮。あまり深入りするなよ」
「は?」
しかしそれ以上の言葉はなく、慎吾は「じゃあな」と言って去って行った。
普通ならば、殺人事件への深入り、と考えるのが妥当だろう。親友が危険な目に遭うかもしれないのを、引き止めたい気持ちは分かる。だがこの前会った時は、犯人を見つけたら殺さない程度にボコボコにしてやれと、竹刀を渡された。だから『深入り』よりも『根を詰め過ぎるな』が適切だと思うのだが……まさかロリコンへの深入りという意味ではあるまい。そうでないと願う。
「そういえばあいつ、結局真理子が誰なのかすら訊かなかったな」
余計な詮索はしないと言っていたが、天宮が慎吾のと立場なら絶対に尋ねるだろう。
何も訊かずにいてくれた親友に、天宮は少しばかり感謝の念を抱いた。
「って、こんなところで突っ立てたら、いい注目の的だ。さぁ行くよ、真理子ちゃん。……真理子!」
「う……ん?」
コイツ、寝てやがった。むしろ今から寝るつもりだったのか。まったく、暴君姫様にもほどがある。
結局、眠り姫を無理やり起こして機嫌を損ねるのも嫌なので、そのまま向かうことにした。
予想以上に軽かったためか、天宮の体力でも何とか辿り着けそうだ。どちらかと言えば、体力よりも精神面の方が鍛えられそうな状況ではあるが。
ひとまず高校の圏内からは脱した。住宅地からも離れ、周囲は雑居ビルが多くなってくる。
片側二車線の国道に架かる歩道橋の上で、天宮は背中を大きく揺らした。
「おい、着いたぞ。どこが王子探偵事務所なんだ?」
辺りには似たような雑居ビルが立ち並んでいる。違いといえば、背の高さと側壁の色くらいだ。高校生の天宮にとって、中にどんな企業が入っているのかなど、てんで見当もつかなかった。
マンガみたいに、窓に大きく事務所名が張り出してあると助かるのだが。
「ん……あっち」
あっちというか『あれ』らしい。どうやらすでに見えていたようだ。
歩道橋から降りる。と、途端に元気を取り戻した真理子が背中から飛び降りた。
「兄様以外の人に負ぶってもらったなんて知ったら、怒られちゃう。絶対に内緒よ」
「はいはい」
そのシスコンぶりでは、俺の方が殺されちゃう。と、天宮は思った。
雑居ビルの一階は、エレベーターと階段、そして案内板しかなかった。最上階は七階。王子探偵事務所は五階。多くは空きテナントだ。外に看板すら出ていないのに、これでよく依頼が舞い込んでくるものだと感心した。
「『理容店KIRISAKI』と似たようなものか」
「兄様とあの女の店を一緒にしないで。営業とか勉強とか、兄様はすごくがんばってるんだから」
どうやら聞こえていたらしい。狭いエレベーターの中だから当然か。
まぁ探偵に用件を依頼する人間というのは、少なからず後ろ暗い事情を抱えている人もいるのだろう。あまり堂々とした見出しでもすれば、それこそペットの捜索くらいしか依頼がなくなってしまうのかもしれな。
そんなことを考えているうちに、五階へ到着した。
狭い通路、一つだけある扉に手を掛けてから、真理子が半眼で睨んできた。
「本当に来るの?」
「話しがしたいからね。頼むよ」
特に拒否られはしなかった。ふーんと唸っただけで、真理子は扉を開ける。
「兄様、ただいま帰りました」
事務所の内部は、予想していたよりも狭かった。
高校の教室を縦長にしたくらいだろうか。入り口付近には応接用のソファとテーブル。壁際には資料の詰まった本棚やガラス棚が並んでいるため、余計に狭く見える。給仕用のシンクやコンロはあるものの、住居するのには向いていない、完全な仕事場だ。王子創平の性格が表れているのか、全体的に『乱雑』とは程遠い印象があった。
そして当の王子創平はというと、窓際にある事務机の向こうで、ただ淡々と空を見上げて座っていた。
「兄様?」
呼びかけ、真理子は兄に寄る。天宮もその後ろに続いた。
昨夜、霧咲側にいた天宮にとっては、少しだけ申し訳ない気持ちになった。妹が呼びかけても反応が薄いのは、里緒のせいだろう。あれからまだ一日も経ってはいない。すべての感情が元通りになるのは、もう少しだけ時間が必要だ。
「兄……様?」
身体を躍らせるようにして、真理子は背を向けている創平へと寄る。
そこで初めて異変に気付いた。
感情をすべて失ったとはいっても、それは人形のようになっただけ。昨夜はちゃんと、自らの足で立って言葉を話していたはずだ。何故、返事をしない?
嫌な胸騒ぎがした。
「…………」
ついに呼びかけることもしなくなった真理子が、創平の背後に立つ。
椅子に掛けているから、兄の頭は目の前にあった。
小さな手が、兄の肩に触れる。
椅子が回る。
王子創平に眼球はなく、眼窩が露わになっていた。
「あ……、あ……」
柔らかい感触が、天宮の腹に当たった。真理子が二歩ほど後退したからだと分かった。けどそれが分かったから何なんだとしか思えないほど、天宮のまた呆然自失としていた。
これは何の冗談だ? これは一体誰なんだ?
清潔そのものの白スーツ。それは紛れもなく、昨日も見た王子創平のもの。でも昨夜のような不敵に浮かべた笑顔もなく、また天宮をすべてが反転した世界へと誘った瞳も無くなっていた。
一瞬だけ、注目していた点が眼窩から外れる。首元には、不自然な赤い線。
赤の他人である天宮でも、ショックは隠しきれない。昨日会ったばかりの人間が、首を絞められて殺され……。
「ああああああああぁぁぁぁあああぁーーーー!!!」
少女の感情が爆発した。
金切り声が耳を劈く。不快感を抱くと共に、天宮は意識を戻した。
ガシャァンッ!!
同時に、室内の窓ガラスがすべて割れた。蜘蛛の巣のような罅が広がったとか、そんな生易しいものではない。金属バットで勢いよく殴り抜けたように、粉々になったガラス片がその場に散乱した。
意味が分からなかった。窓ガラスが真理子の悲鳴に呼応した理由も、王子創平が殺されている理由も。
しかし状況が一つも理解ができないからこそ、天宮がやることは決まっていた。
目の前の少女を、天宮は優しく抱き寄せる。
「見るな!」
純粋無垢な真理子に、現実を見せたくはなかった。
最も愛した人の死。これほど辛いものはない。体験したからこそ分かる。天宮ですら耐えられなかった。耐えられなかったからこそ、復讐という安易な道を望み、今の自分をつないでいるだけだ。
こんな小さな子に、誰かを恨んでほしくなかった。憎んでほしくはなかった。
そして……一生の傷を遺してほしくはなかった。
「あああぁぁああぁーーー!!!」
「頼むから……見ないでくれ」
天宮の願いも空しく、少女の咆哮は続いた。
未だ亡き兄を直視している真理子の後ろから、天宮は目隠しを試みた。
だが――、
「うぐッ!?」
肉を引っ掻き回すような不快な音とともに、右手に激痛が奔った。慌てて手を引き、右手の平を凝視する。まるで手の中から小さな爆発でも起こったかのように、皮膚は弾け、肉が抉られ、中の骨まで見えていた。
「な……んだ……?」
瞬時に思い至ったのは、奇跡としか言いようがない。
王子家の呪われている部位は眼球。そして真理子の能力は『視た物の裏表を反転させる』こと。第二子の能力は現実世界に物理的に顕れるという。
つまり今、真理子の能力が暴走しているのだ。ガラスが割れたのも、裏表を反転させる作用に耐えられなくなったからだろう。
見れば、周囲の家具も奇妙な音を立てながら震動していた。このままでは、ここら一帯の物がすべてスクラップと化してしまう。
ただ、そんなことはどうでもよかった。
天宮の願いは一つだけ。
真理子に、最愛の兄の亡骸を見てほしくはない。
そしてその願いが叶うのなら、右手を失うくらい安いものだと思った。
肉が剥け、血が溢れ出る右手で、再度真理子の目をふさぐ。
内側から裏返る感覚。五指が不自然な方向へと曲がり、円を描くように回転する。痛みはすぐになくなり、手首から下の神経は完全に切断された。
ただ傷になってほしくないと願いながら、天宮はずっと真理子を抱きしめていた。
「ああああぁぁああッッッ………………」
やがて激情が頂点を突破したのだろう。糸が切れたマリオネットのように、真理子は力なく身体を天宮に委ねた。
終わった。と、天宮は安心する。
血を流し過ぎたせいか、もしくは痛みの限度をはるか昔に通り越してしまったせいか、天宮もまた、真理子を抱えたまま気を失ってしまった。