第1章 友人との約束
翌日は少しだけ寝不足だった。『理容店KIRISAKI』は知っている地域にあったとはいえ、徒歩で帰るのには遠く、また風呂に入ったりあれこれ考えているうちに、結局布団に入ったのは深夜二時を過ぎていた。普段は日付が変わる前後に就寝している天宮にとって、寝不足になるのは当然といえば当然である。
そしていつも通りに目が覚めた際、学校に行くかどうか迷った。
どうせ今日が終われば天宮の日常も終わる。学校なんて無意味だ。授業を受けても時間の無駄でしかない。
そう考えたのは一分ほどで、結局は遅刻してでも登校することに決めた。
これは個人的な復讐だ。日常に戻れないなんてのは、天宮のエゴでしかない。両親やその他友人を心配させるわけにはいかない……いや、訂正。事が始まってもいないのに、心配をかける道理はない。知り合いに迷惑をかけるのは、殺人犯をぶっ殺し、警察に捕まり、少年院にぶち込まれてからでもいいだろう。幸いにも、里緒との約束時間はまだ半日以上ある。
とりあえず登校の準備をし、学校の門をくぐり、席にはついた。
ただ、授業に身が入らなかった。入るわけはなかった。
そして呆けているうちに、いつの間にか授業が修了してしまった。もしかしたら最後の授業だったかもしれないのに、ちょっとだけ泣きたくなった。
天宮はフラフラとした足取りで教室を後にした。そのまま寄り道もせず、昇降口で靴を履き替え、校舎を出る。冷たく乾いた空気が眼球を刺し、自然と涙が溢れた。部活に参じる他の生徒たちの声が、妙に遠い。
教員専用の駐車場を通り、裏門から帰ろうとした際、ふと校舎の方に目が移った。
電灯が落とされ薄暗いその教室は、美術室だった。誰もおらず静まりかえってはいるが、生徒の描いた絵画や彫像の多さが、その部活が活発であることを示していた。
美術室が気になった理由は、訪れなくなって久しいから。
ただ、天宮が美術部員だったわけではない。セナに招き入れられ、彼女が絵を描く姿をよく後ろから眺めていたものだ。
目を閉じ、天宮は思い出を懐古する。
セナの異能力は、絵に関するものだった。それを自慢する彼女の笑顔。家族以外には天宮にしか教えていないと、照れ臭そうに言った顔。天宮の思い出は主に、セナが絵を描き、不思議な現象が起こるその絵を一緒に楽しむことだった。
その二人の背中は、もう美術室に現れることは絶対にない。天宮も、授業以外に訪れることはないだろう。セナの描いた絵が現在どうなっているかは気になるが、それを確かめに行く気力もなかった。
「よう、天宮」
ふと、低い声が天宮の名前を呼んだ。瞼の裏に映っていたセナの笑顔が消え、目を開ける。
目の前には、天宮と同じ学生服を着た、ガタイの良い男子生徒が立っていた。
「慎吾……」
「どうしたよ、こんな所で突っ立って」
川添慎吾とは、小学校からの友人だった。幼い頃から身体を動かすのが好きで、運動神経も天宮とは比べ物にならないくらい良い男だ。
彼ははにかんだ笑顔で問うたのだが、天宮の視線の先を察し、次第に表情を消していった。
「青山のことを……思い出していたのか?」
「…………」
図星ではあったが、特にうろたえるようなことはなかった。
付き合いの長さもさることながら、慎吾はとても空気の読める奴だ。それにセナの葬式にも参列し、天宮の泣き叫ぶ声も聞いている。その後に天宮が立ち直れたのは、彼の慰めもあってのことだ。一応悟られまいとしているが、天宮には慎吾に、多大なる感謝の想いがあった。
「お前と青山、よく二人きりで絵ぇ描いてたもんな」
「あぁ……」
白ばんだ鼻の下を指で撫でた天宮は、頭の中を整えるかのように首を振った。
しんみりした話は終わりだ。
虚勢だと言われる覚悟で、天宮は陽気に話題を変えた。
「お前こそ、こんな所で何やってんだよ」
「あ? 何って……単に部活に行く途中だけど?」
呆れ気味に言った慎吾は、背中に背負っている竹刀袋を見せてきた。
そういえば、慎吾は剣道部だった。しかも入部したての一年の頃に実力でレギュラーの座を勝ち取り、地区大会では敵なしだったほどの実力者だ。筋骨隆々な体つきはともかく、いかにも外でスポーツをしていそうな色黒の肌だったので、すっかり忘れていた。
しかし天宮は、慎吾の背後に建つ武道場に目を移してから、疑問を口にした。
「あれ? でももうすぐ期末テストだから、部活動は禁止なんじゃなかったのか?」
「ばーか、自主練だよ。活動自体は禁止でも、個人的に練習している奴は、他の部活でも山ほどいるぜ」
部活動に所属しておらず、また懇意にしていた美術部は、テスト期間中は完全部活動停止状態だったので、天宮にはあまりなじみがなかった。テストがあろうとなかろうと、勉強よりも部活を優先する奴はいるんだな。
「で、慎吾もその一人、と。大丈夫なのか? 中間テストの時、返却されたテスト見て涙目になってたじゃねーか」
「うっせーよ。奇跡的に赤点は取ってないから、まだ大丈夫だ。今回も……ま、留年だけは気をつけるよ」
とはいっても慎吾の場合、いくらテストの点数が悪くとも留年はあり得ないんじゃないかと思う。国体にも出られる実力を有した慎吾は、我が高校剣道部の期待のホープなのだ。勉学の成績くらい、部活動の方でいくらでも覆せるだろう。
「それで天宮、お前はどうなんだ? ちゃんと勉強してるのか?」
「俺は……」
実はもうすぐ期末テストであることなど、慎吾と会うまですっかり忘れていた。いや、そもそも、最初から頭の中にはなかった。復讐の想いが強すぎて、テストなんて日常は、すでに自分とは別世界の出来事だと感じられていたからだ。
そう、セナの亡骸の前で泣き叫び、復讐を誓ったあの日から。
ふと気がつくと、慎吾が半眼で天宮を睨みつけていた。その目つきがあまりにも鋭く、恐れずとも怯んでしまう。
「天宮よぅ、お前、まだ復讐だのなんだのって言ってるのか?」
「…………」
セナを殺した殺人犯に復讐をすると慎吾に宣言したことはあるが、まさかたった今、それについて考えていることを言い当てられるとは思わなかった。付き合いが長いことを差し引いても、慎吾の察しの良さには思わず舌を巻いてしまう。
ただ、天宮は肯定も否定もしなかった。代わりに目を閉じ、わずかに俯く。
親友だからこそ……お互いの気持ちが深く通じあっているからこそ、復讐は無意味などと説得されたくはなかった。
しかし予想に反して、天宮の耳に届いたのは、慎吾の深い溜め息だけだった。
「別に俺はよぉ、青山は復讐なんぞ望んじゃいねえぞ、とか言うつもりはねぇ。けどよ、お前が犯人殺して刑務所にぶち込まれたら、悲しむ奴も少なからずいるってことくらい、ちゃんと覚えておけよな」
無条件に自分を心配してくれる親友がいる。その事実が天宮にとっては心強く、そして足枷でもあった。すべてを捨てる覚悟で復讐を誓いながらも、まだ日常に心残りがあることを思い知らされて。
だから天宮は、簡単に、事務的な返事で、少しでも抗おうとした。
「…………あぁ」
相手の目を見ないでの返事は、どう捉えられただろう。その場しのぎの嘘か、それとも後ろ暗い心情を見抜かれたか。どちらにせよ今の天宮には、慎吾と真正面から対峙することは到底不可能だった。
「ま、そういうことでよ」
ガツンと、慎吾の拳が天宮の肩を打つ。天宮の曖昧な返事に気分を害した慎吾が、性根を治そうと景気づけに一発お見舞いしたのかと思ったが、どうやらそういう意味ではないようだった。打った拳は軽く、そして歯切れの良い口調はどこか甘かった。
驚いた天宮は、ハッとして相手の顔を見つめた。
「これは餞別だ。持ってけ」
「…………は?」
拳の中には、さっきまで慎吾が担いでいた竹刀袋が握られていた。当然、竹刀袋の中には中身……つまり竹刀も入っている。
「犯人見つけたらよ、気が済むまでコイツで何発も殴ってやれ。竹刀じゃ、相当当たり所が悪くなきゃ死なんだろう。ま、護身用にもなるしな」
「でもお前、これ……地区大会でも使ってたし、これから国体目指す相棒だって豪語してたじゃねーか」
「関係ねーよ。弘法筆を選ばずってか? 真の実力者なら誰の竹刀使っても勝てるし、俺の相棒だからこそ、お前に持っていてほしい気持ちもある」
「…………」
もう一度、天宮は慎吾の手に握られている竹刀袋に目を落とした。
そしてその竹刀袋を……掴む。
不敵に笑った天宮に対し、慎吾は満足げに頷いた。
「ただ一つだけ約束してほしい。そいつで……人を殺してくれるな」
「あぁ……分かった」
――痛い。吐き気がするほど、痛い。
竹刀袋を受け取った天宮は、覚悟を決めた。
「約束する。……ありがとう」
親友に向けて久しぶりに言った感謝の言葉は照れ臭く、だからこそ心を抉った。
面と向かってついてしまった嘘は、天宮の中の良心を糧にして心に穴を開ける。
それはついてはならない嘘だった。天宮と慎吾の関係を、もう二度と修復できないほどに断つための嘘だった。
「じゃあ俺は今から自主練だから。お前もあまり、根を詰めすぎるなよ」
「あぁ」
武道場に向かって走り行く親友の背中を、天宮はただじっと見送った。あんな気の許せる親友がいたことを、誇りに思いながら。そして心の中で、謝りながら。
犯人を殺さないという約束は、守れそうにない。