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理容店KIRISAKI  作者: 秋山 楓
第5話 決着
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第3章 決着

 静寂が支配する夜道を歩く。人の話し声どころか、車の走る音すら聞こえない。耳に入るのは、未だ生き残っている虫の音と、どこかで騒いでいる犬の鳴き声だけだ。動かすたびに世界へ響く自分の足音が、天宮の聴覚の大多数を占めていた。


 午前三時近くとはいえ、真っ暗ではない。頭上の月は丸く、星も両手では収まらないほどの数が輝いている。等間隔に並ぶ街路はお仕事真っ最中にあるので、視野の確保には困らなかった。


 指定された公園へ向かう途中、ポケットの中の携帯が鳴った。見るまでもなく相手は分かる。

 遺体の入ったゴミ袋の口元を脇で挟み、左手で携帯を取り出した。


『電話に出たということは、唯一残っている左手を塞いだわけか。不用心だな。今ここで私が襲えば、君は対処できまい』

「…………そうだな」


 そういえば天宮がセナの右手を縫い付けたことを、長谷川はまだ知らないのか。どのみち自由に動かせるわけではないけれど。


 そしてちょっとした確信がある。長谷川は天宮の所持するゴミ袋の中身を確認するまで、一切手を出してこないのではないかという根拠のない確信だ。しかし警戒を怠るわけにもいかないので、天宮の精神力は今も少しずつ消耗され続けている。


『公園に着いたら、適当な場所で遺体を置け。指示はまたその時出す』

「なぁ。あんたこの数時間、何してたんだ?」

『絶対に誰も来ない場所を選別していただけだ。深夜とは言えど、予想外の場所で浮浪者などが寝ていることもあるからな。誰かに見られたら私は困るのだよ』

「なるほどな」


 思った通りだった。


 長谷川は、まだ自分が助かりたいと思っている。天宮を殺し、遺体を回収し、霧咲姉弟と真理子も口封じのために殺す。そしてまた明日から、呪家の遺体の数をこつこつと増やし続けることを生きがいとするのだろう。


 対して天宮は違った。彼に明日はない。

 すべてを捨てる覚悟で戦いに挑む天宮と、目の前の大事より明日の保身に走る長谷川。両者のこの違いは大きかった。


「そういえば、あんたを殺す前にどうしても訊いておかなくちゃならないことがあった」

『…………何かな?』

「理由だよ。呪家を殺す理由はなんだ?」


 歩きながら問う。目的の公園までは、まだ数分の道のりがある。どのみち、話の途中で到着しそうになっても、歩調を緩めるつもりだった。


 天宮の作戦か何かかと勘ぐった長谷川は、しばらく無言を貫いた。


『聞いてどうするつもりだ? 場合によっては素直に殺されてくれるわけでもあるまい』

「純粋に訊きたいだけだ。あんたを殺したら、永遠に知りえない謎になっちまうからな」

『それもそうだな。恋人が殺された理由も知らずに死んでいくのは可哀想ではある』


 挑発のつもりだったようだが、天宮には効かなかった。里緒の感情操作がよく効いている。


『できることなら殺人なんてしたくはなかった』

「どの口が言うんだ?」

『よく聴きなさい。決して殺人が嫌だったわけではない。ただ私の人生において予定していたことではなかった』


 その言い方ではまるで、仕方なく殺人を行っているようにも聞こえた。


『私にとって呪家の人間とは、最高に美味いご馳走のようなものだった。ゲームで言ったら、レアな武器を落とす敵が現れた、ってとこかな』


 またも挑発と捉えられる発言。どうやら長谷川は、天宮の冷静さを崩したいらしい。


『おっと、悪い悪い。私が人……いや、呪家を殺す理由だったかな。一言で言えば簡単だ。私は死にたくなかった。死が恐ろしくなったんだ』

「死が恐ろしくなった?」

『呪家の呪われた部位というのは腐らない、というのは霧咲君から聞いているか?』


 聞いているというよりは、実際に見て触れて体験した。はるか一ヶ月前に切断したはずの耳や脚が、常温放置されていたのにもかかわらず、まるでつい数分前に切り離されたように生き生きとしていた。


『呪いを解くには焼くしかない。逆に言えば、焼かなければ土に還ることすらないんだ。この意味は分かるか?』


 分かるもなにも、言葉通りの意味ではないのだろうか?

 返す言葉が思い浮かばず、天宮は黙んまりを決め込んだ。


『私は……左頭家は脳が呪われていた。つまり私たちは不老不死なのだよ』

「不老不死?」


 あまりにもファンタジックな単語が飛び出て、天宮はついつい聞き返してしまった。


『我々左頭家に痴呆は一人もいない。脳細胞が死なないからだ。どんなに老いても、まるで青年のような記憶力と思考力を維持したまま。もっとも死なないのは脳だけであって、身体の方は別だがね』


 そこまで聞いて長谷川が何をしようとしているのか、天宮の想像力でもようやく理解することができた。理解できると同時に、背筋に悪寒が奔る。


 脳は永遠に生き続けようとも、それを生かすための身体が先に寿命を迎えてしまう。SFの世界でもあるまいし、まさか脳だけで生きていけるような装置が存在するとは思えない。


 だからこそ長谷川は呪家の呪われた部位を集めた。自らの脳を生かすために。


「たとえ人一人分の部品を全部集めたとして、それからどうするつもりだったんだ? 手や脚だけならともかく、内臓もすべて交換するつもりだったのか?」

『さぁ? そんなことは身体のすべてを集めてから考えるとするよ』


 そんなことで……成功するかも分からない実験のために、コイツは五人も殺したというのか? セナの未来を奪ったというのか!?


 ほんのついさっき里緒に切ってもらったはずなのに、天宮は自らの本能から湧き上がる怒りが、急激に成長していくのを感じた。


『別に勝算が無いわけじゃない。大昔には私と同じような考えを持った人々が同じようなことをしていたし、他の家系より優位に立つために他人の能力を奪うのは、頻繁にあったらしい。つまり不可能ではないということだ。ま、近年では能力を奪うよりも殺人を犯すデメリットの方が大きいから、誰も試そうとはしないがね』

「あんただって、そんなことを続けていればすぐに捕まる」

『捕まらないさ。目撃者が出ないように細心の注意は払うし、証拠はこの手で握りつぶす』


 捜査一課の刑事であることも、奴の強みの一つか。


「自分の殺人の証拠を消すために刑事になったのか。世も末だな」

『それは違うぞ、天宮君。私が殺人を決意したのは、ほんの半年前だ。自分の親が死ぬのを目の当たりにして、ただ漠然と死ぬのは嫌だなぁと思ってからだ。職業柄多くの遺体を見てきたというのに、自分の死を恐れたのはその時が初めてだったよ。私も歳をとったというわけだ』

「あんたがどうしようもないクズだってことは分かった」

『人間は誰だって自分がかわいいんだよ。君だって、この歳になれば自然と理解できていただろう』


 解らない。天宮にとっては、今を生きることよりもセナの無念を晴らすことの方が大切だったから。


 通話が終わった。天宮の耳は再び夜の静寂さを取り戻す。


 ただ靴がアスファルトを叩く音は、先ほどよりも大きくなっていた。長谷川の殺人動機を知り、天宮は確信したからだ。他の呪家の人々のためにも、コイツだけは今ここで殺さなくちゃいけない、と。


 誰ともすれ違わないまま、無事に指定された公園に到着した。


 ほぼ正方形の公園だ。入り口は四方に一つずつある。どこから入ればいいのかという指定はなかったため、唯一街灯が灯っている公衆便所脇の入口へと回った。


 外から眺める限り、公園内に長谷川の姿はない。おそらくだが、遺体の入ったゴミ袋をどこかへ置いた後、一度天宮を離れさせるだろう。そして中身を確認しに来るはずだ。できればその時、不意を突いて長谷川を――殺す。


 決意を改め、天宮は一歩、公園の中へ踏み入れた。


 その瞬間――世界が変わった。


 夜の闇が消え、周囲が蛍光灯と日光の光に満たされる。

 空も消えた。頭上を覆うのは、無機質な天井。つまり室内だ。

 教壇の後ろにある黒板、等間隔に並べられた長机、生徒が描いたであろう絵画、石膏で造られた胸像。


 ここは――美術室?


 確信するのと同時に、視覚以外の五感も生まれてきた。

 鼻腔は絵の具の匂いを嗅ぎ取り、特別教室独特の生ぬるい空気を肌が感じ取る。

 間違いない。ここは思い出の場所。セナと一緒に楽しい時間を過ごした美術室。


 セナ――。


「こんにちわ。宗太君。待ってたよ」


 美術室の奥で、一人の女子生徒が立っていた。

 見間違えるはずもない。あれは青山セナ。天宮の恋人だった女の子。

 久しぶりの愛しい笑顔に対面し、天宮は涙を零した。


「同じクラスだったら、宗太君と一緒に美術室に行けるのにね」


 セナは拗ねたようにプクッと頬を膨らませた。

 そうだったな、それがセナの口癖だった。一年次は同じクラスで、二年になってから別れてしまい、会える時間が少なくなって寂しいのかもしれない。


「さぁ、こっち来て。また今日も、一緒に絵を描こう」


 彼女の甘い言葉に囚われ、天宮は一歩一歩歩を進めた。


 それはまるで蜜に群がる蜂のよう。甘い想い出を餌に、すっかりと骨抜きにされてしまった天宮は、疑うことも忘れて幸せな過去へと身を委ねる。


 考えが回らない。苦しい現実から逃げたいという本能が、天宮の思考を停止させていた。

 あんな幸せな日常がずっと続けば、それでよかったのに。

 ニコリと笑うセナに向けて、天宮は左手を差し伸べた。

 もう少しだ。もう少しで忘れていた温もりが手に入る。

 差し出した左手が、指に触れる瞬間だった。


 ガギッ! と猛烈な音を立て、視界が消し飛んだ。同時に顎に激痛が奔る。


 あまりに唐突な衝撃に、天宮はその場で尻もちをついてしまった。何が起こったのか、すぐに理解できたのは奇跡だった。


 天宮は自分の右手……元はセナの右手を凝視した。


 右手が天宮の顎を殴りつけたのだ。容赦なく、目が醒めるほど力強く。

 そう――目が醒めた。


 天宮が腰を下ろすその場は美術室なんかではなく、闇が支配する夜の公園だった。


 今のは幻覚? それとも夢?


 疑問は続かない。何故なら天宮の目の前で、街灯に照らされた殺人犯がこちらを見降ろしていたからだ。その手にワイヤーのような細い紐を握って。


「そうやって何人も殺してきたのか?」

「六人目は失敗したがね」


 慌てて立ち上がり、距離をとる。

 諦めたような溜め息を吐いた長谷川が、ワイヤーをポケットにしまったところだった。


「その右手、どうしたんだ? 君の右手はすでに無くなっているはずじゃなかったのか?」

「これはセナの右手だ」


 目を細めた長谷川が、天宮の右手首を睨みつける。どうやら暗くて縫い目が見えにくいようだ。


「なるほど。君とは独立した器官だから幻覚の中でも動けたわけか。やられたよ」


 幻覚。やはり長谷川は、自分の能力をすべて話したわけではなかったというわけだ。


 他人の行動を操れるというのも嘘ではないのだろう。ただもう一つ、被害者たちには天宮にやったように幻覚を見せ、殺しやすい場所、もしくは目撃者が比較的少ない場所へと誘導していたに違いない。


 そして幻覚だろうが操作だろうが、他人の無意識下でしか効果が無い。


 理由は夢から醒めた天宮に、再び同じように幻覚を見せようとしないからだ。相手の能力を知ってしまえば、無力化したのも同然だった。


 天宮は遺体の入ったゴミ袋をその場に置き、怜生から借りたバタフライナイフを取り出した。

 呪家としての能力が無意味と化した今、あるのは己の肉体での勝負のみ。


 相手は初老。でも警察官だ。様々な武術に精通しているだろう。

 こちらはナイフ。相手は素手。

 ――勝てるか?


「君が夢を見ている間に穏便に済ませたかったのだがね。ま、仕方がない。この歳になると、少し動くのも辛いんだ。だから若い者に任せようと思う」


 そう宣言した長谷川の背後の暗闇から、幼い少女が姿を現した。

 ゴシックロリータの衣装ではない、普通の洋服を身に纏った真理子だった。

 その目に巻かれていた包帯が、今はない。虚ろで定まらない視線を、天宮に向けている。


「真理子!」


 叫ぶと、真理子は怯えたように身体を揺らし、長谷川の脚にしがみついてしまった。

 何故――。


「王子君には幻覚を見せている。彼女は私は兄だと思っているのだよ」

「そんな……」

「さぁ真理子、私の代わりに天宮君を捕まえておくれ」

「はい、兄様」


 長谷川に寄り添っていた真理子が、一歩前へ出る。その瞬間、天宮の足元の地面が、ザシュッ! と音を立てて小爆発した。


 見れば、銃弾を撃ち込まれたように一握りの砂が裏返っている。

 まさか、本当に?


「真理子、やめろ! そいつはお前の兄じゃない!」


 仇だ! そう叫ぶ前に、真理子の視点が天宮の脚に集中していることに気づいた。

 咄嗟に飛び退く。今まで立っていた場所の地面が抉れた。

 留まっていることもできなければ、近寄ることもできない。長谷川と真理子が立っている位置を中心に、天宮は円を描くようにして移動する。


「くそっ!」


 このままじゃジリ貧だ。逃げることもできない。無駄に体力を奪われるだけだ。

 細く微笑む長谷川に殺意を向けながら、しばらく回避行動を続けていた天宮は、あることに気づいた。


(さっきから真理子が狙っているのは足元だけだ)


 常に動かしている両脚よりも、胴体の方が幾分か定まりやすいはず。なのに真理子はさっきからずっと天宮の足元しか見ていない。


 真理子の本心はこちらを傷つけるのを躊躇っている?

 それともこちらの体力を奪うことが目的?


 いや……。


 おそらく真理子は他人と眼を合わせることを恐れているのだ。彼女が最後に見た光景は、眼窩の露わになった実の兄だった。トラウマを背負った本能が、無意識のうちに視線を下げてしまっているのだろう。

 そう悟った天宮は、意を決して立ち止まった。


「真理子、俺と眼を合わせろ。俺を信じろ!」


 ビクッと身体が揺れる。追撃はなかった。

 だが油断したのが天宮の命取りだ。相手は真理子一人ではない。

 長谷川が真理子の肩に手を置き、静かに囁いた。


「真理子、やるんだ」

「……はい、兄様」


 哀しげな表情で真理子が頷いたその直後、天宮の右足のふくらはぎが爆ぜた。


「うぐっ……」


 内側から肉が裂けるように、ふくらはぎが裏返る。

 激痛のあまり、天宮はバランスを崩してしまった。


「よくやった、真理子。君はその場で待機だ」

「はい」


 長谷川が近づいてくる。その手には、いつの間にか金属バットが握られていた。


 バットの先端で額を小突かれる。後頭部を地面へ打ち付けるのと同時に、左手首に強烈な衝撃。バットで殴られたのだ。握力を制御できず、バタフライナイフを手放してしまった。


 マウントポジションを取った長谷川の拳が、天宮の頬骨を砕いた。


「この状態じゃ首にワイヤーを巻きつけられないし、返り血を浴びるのも嫌だから君の持ってきたナイフで刺すのも却下だ。やはりここは殴り殺すとしよう」


 悠長に語る長谷川と同じく、圧倒的に不利な態勢である天宮もまた、何故か冷静に星空を見つめられていた。逆転は不可能だと悟ったように、吐息まで漏れる。


 そして天宮の口から、口調も内容も場違いな言葉が飛び出た。


「俺さ、ちょっと変だと思ったんだよ」


 長谷川は再び天宮の顎を殴りつけた。唇が切れ、血が出た。


「セナはさ、『勝手に動く右手で絵を描くと、風景が勝手に動くの』っていつも言ってた。変な言い回しだよな。で、俺はコイツの国語力はちょっと心配だなって思ってた。実際に国語のテストの点数も、あまりよくなかったし」


 もう一度、長谷川は天宮の頬を殴りつける。

 しかし天宮に抵抗の意志が無いと感じ取ったのか、それ以上の追撃は無かった。


「残念な頭の持ち主だったんだな、青山君は。ま、死んでしまっては国語力など必要が無いのだけどね」

「そうさ。で、俺はそれを聞くたびに指摘してやった。『右手で絵を描くと、風景が勝手に動く』なんじゃないかってね。でもセナは首を横に振った。『私が言った方であってるって』」

「……何が言いたいんだ?」

「だから変だとは思わないか?」

「何をかと聞いている」


 長谷川は両手で握ったバットを振り上げた。天宮の遺言が終わったと同時に、その頭をかち割らんとする姿勢だ。


「あんたはどうやってセナを殺した? 絞殺だろ? ワイヤーのような細い紐で首を絞めたって聞いた。でもそれじゃあおかしいじゃないか。だったらセナはどうやってダイイングメッセージを遺したんだ?」

「右手首を切り取った際に流れた血液で遺したんだろう」

「だから逆だってば。手首を切らなきゃ血は出ない。けど手首を切断しちまったら、右手で絵なんて描けるわけがない」

「…………」


 訝しげな表情をした長谷川は、虚ろな眼で視線を宙に彷徨わせている天宮を見下ろした。


「それに気づいた時に思ったんだ。セナの言ってることは、全部正しかったんだって」

「なに?」


 長谷川の注意が逸れる。視線の先は天宮の右手。そこには不細工に繋ぎ止れらた青山セナの右手首があるはずだったのに――。


 ない。天宮の右手は、手首の辺りで分断されていた。


「貴様ッ、青山セナの右手はどこに……がっ――!?」


 短い悲鳴とともに、長谷川の身体が横へなぎ飛ばされた。重りが無くなった天宮は、上半身を起こす。仰向けになって悶え苦しむ長谷川の首に、人間の右手首だけが絡まっていた。


「勝手に動くのは絵じゃなくて、右手の方だったってことだ。いや、実際に右手で描いた絵も動いていたわけだから……やっぱりセナの言っていた言葉があっていたわけだ」

「くそが――ッ!!」


 今までの言動からは想像もできない暴言を吐き、長谷川は自らの首を絞める右手首を引き剥がした。所詮はただの手首だ。握力はあっても、振り解こうとする力に耐える腕は無い。引き離すことは簡単なようだったが、長谷川の息は異常に乱れていた。予想だにしないことが起こり、優位なはずの立場が崩されたからだろう。


 解いた右手首を離れた地面へ叩きつけ、長谷川は天宮を睨みつけた。


「殺す。さっさと終わらせる」

「無理だ。もうあんたに俺は殺せない」

「ほざけ――ッ!?」


 砕かれた天宮の左手の上には、人間の眼球が乗っていた。

 眼球はじっと長谷川の瞳を見つめ続ける。


「その眼は、まさか――」

「セナの右手に意志があると知った時点で気付いておくべきだったな。自由に動けるのはセナの右手だけだけど、呪家の呪われた部位はその人の経験が宿るんだよ。知らなかったのか?」


 もちろん天宮も『理容店KIRISAKI』を出発する直前まで知らなかった。気づいたのは、被害者たちの一部がすべて揃っているか確認するため、一度ゴミ袋から出した時だ。王子創平の眼球と視線を交わした瞬間、世界が裏返った。


 それを王子創平の意志だと確信し、天宮は眼球を使うことを決意する。


「セナの右手と王子創平の眼球。どちらの無念も晴らそうとしたら、余計なダメージを負っちまった」


 左手はかろうじて動きそうだが、右足はもう動きそうになかった。


 けど、まぁいい。勝負は決した。


 長谷川は手で顔を覆いながら、慌てふためいていた。おそらく奴の視界はすべてが反転していることだろう。上下左右前後、明度に色彩に平衡感覚まで。とてもじゃないが、立っていることは困難そうだった。


「真理子! そいつを殺せ!!」

「だからそれは無理だって」


 真理子は他人の眼を見れないし、天宮が手にしているのは実の兄の眼球だ。

 幻覚を見せられ、操られているはずの真理子も気づいていた。


「兄……様……?」


 頬に涙を伝わせ、嗚咽を漏らしながら真理子が近づいてくる。


 天宮もセナの右手に出会った時は涙を流したものだ。今の真理子の気持ちは、痛いほど理解できた。

 眼球を真理子に預け、天宮は片足で立ち上がった。


 そして先ほど長谷川が落とした金属バットを拾い上げる。と、長谷川に投げ飛ばされたセナの右手が天宮の身体を這い上がり、グリップを掴んだ。


「そうか、お前も手伝ってくれるのか」


 愛おしそうに、天宮はセナの右手を見つめた。


「や、やめてくれ……」


 どちらが前でどちらが右なのか、まるで暗闇を手探りで進むように長谷川が腕を前に伸ばした。当然ながら、その方向に天宮はいない。それに逃げることができない。逃げようとする意思が反転されているからだ。


 故に長谷川は、声を上げて命乞いをする他なかった。


「助けてくれ!」

「黙れ、クズ野郎!!」


 振り上げた金属バットが、長谷川の脳天を直撃する。創平の能力で脳が極限状態だったためか、一撃で気を失ってしまった。


 その場で両膝をついて座り込んだ天宮は、疲れ果てた声で呟いた。


「終わった……」


 完全に気を失っていることを確認してから、天宮は足を引きずりながら真理子の元へと寄った。眼球を抱いていた真理子は、小動物のようにビクリと身体を震わせた。


「真理子。大丈夫か?」

「ごめん……なさい」


 まるで悪戯を叱られた子供のように、破裂した天宮の右ふくらはぎを見つめながら、真理子は呟いた。


「しょうがないよ。悪いのは全部あの殺人鬼なんだから」


 だから許す。天宮はボロボロの左手で、真理子の頭を撫でてやった。

 怪我も無さそうだし、とりあえず真理子は大丈夫そうだ。

 そう判断した天宮は、再び立ち上がろうとした。が、上着の裾を引っ張られた。


「ずっと一緒に……いて」


 顔をそむけながら、弱々しい声で真理子が言った。

 怖いのだろう。寂しいのだろう。どうすればいいのか、何も分からないのだろう。

 怜生の話を思い出す。傾いた真理子を立て直せるのは、天宮だけだと。

 しかし残念ながら、ずっと一緒にいることは不可能だった。


「ごめん。俺は今から、やらなくちゃいけないことがあるから」


 人を殺す。そして少なからず罰を受ける。遅くなければ、それからでも……。

 天宮は真理子の手を解いた。そして一度だけその小さな身体を抱き寄せる。真理子の嗚咽がより大きくなった。


 別れの時間だ。


 悲鳴を上げる右脚を酷使し、仰向けに倒れている長谷川に近づく。途中で手放したバタフライナイフを拾い、天宮は長谷川の身体へ馬乗りになった。


 やっと、この時が来た。


「殺す」


 自己暗示のように自らの殺意を明示させる。冷静さは不要だった。


「殺す殺す」


 里緒に調節された怒りと憎しみを、新たに復元する。仇を討てるという歓喜すらも糧とし、殺人衝動を増幅させる。


「殺す殺す殺す」


 この時のために苦労してきた。

 この時のために右手も右脚も捨てた。

 この時のために明日すらも捨てた。

 この時のために生きてきた!


「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!」


 左手に持ったバタフライナイフを頭上まで振り上げる。首や顔は後だ。まずは胴体からずたずたに切り刻んでやる。何回も刺してやる。


 何回も。何回も何回も。何回も何回も何回も何回も!


「殺すッ!!」


 爆発した憎しみが、長谷川の命を捥ぎ取ろうとした、その瞬間――、


 ヂョキンッ!!


 天宮の背後で音がした。

 突然のことに驚き、天宮は慌てて振り返った。

 そこには銀髪喪服の女が、ハサミを片手に立っていた。


「里緒……? なんで、ここに……?」


 疑問に思えたのは一瞬だけだった。天宮の意思に反して、身体が大きく揺れた。抵抗することもできず、天宮は為すすべもなく地面へ倒れこんでしまう。襲ってきたのは眠気だった。突然に自覚してしまった疲れと眠気が、天宮の脳を停止へと追い込んでいった。


 やがて瞼が下りてくる。視界もぼやけてきた。

 最後に見た光景は、喜びを表した霧咲里緒の笑みだった。

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