第3章 決着
人の話し声はおろか、車の走る音すらも聞こえない、静謐な住宅地を一人で歩く。耳に入ってくるのは未だに生き残っている虫の音と、どこか遠くの方で騒ぎ立てている犬の鳴き声くらいだ。動かすたびに暗闇をかき乱す自分の足音が、聴覚の大部分を占めていた。
深夜二時近くとはいえ、決して視界が閉ざされるほど真っ暗ではない。頭上では真ん丸な月が輝いており、道路端で並ぶ街灯も、しっかりと仕事をこなしている。視界の確保には困らなかった。
指定された児童公園へ向かう途中、ポケットの中のスマホが着信を知らせた。
遺体の一部が入ったごみ袋を脇で挟み、左手でスマホを取り出す。
『電話に出たということは、唯一残っている左手を塞いだわけか。不用心だな。今ここで私に襲われても、君は対処できまい』
「……そうだな」
静かに同意をして、天宮は不格好な自分の右手首を一瞥した。
セナの右手を縫い付けたことは、長谷川はまだ知らないのだ。どのみち天宮の意思で自由に動かせるわけではないのだが。
それとは別に、天宮にはちょっとした確信があった。
こちらが所持するごみ袋の中身を確認するまで、長谷川は手を出してこないんじゃないかという根拠のない確信だ。もちろん天宮が勝手にそう思っているだけなので、常に警戒は怠っていないが。
『公園に着いたら、適当な場所に遺体を置け。次の指示はその時に出す』
「なあ。あんた、この数時間、何をしていたんだ?」
『何をしていたもなにも、公園の周囲を警戒していただけだ。浮浪者や若者たちがたむろしていないか。周りにはどれだけの人間が住んでいるのか。こちらへ意識を向けさせないようにできるといっても、人がいないに越したことはないからね』
「なるほどな」
やっぱり思った通りだ。
長谷川は、まだ自分の人生が続くと思っている。天宮を殺し、遺体を回収し、霧咲姉弟と真理子の口を封じ、そしてまた明日から呪家の遺体をコツコツと積み上げていく。
だが天宮は違った。自分には明日など必要ない。
すべてを捨てる覚悟で挑む天宮と、目の前の大事よりも明日の保身に走る長谷川。この両者の違いは大きかった。
「そういや、あんたを殺す前に是非とも訊いておきたいことがあったんだ」
『何かな?』
「動機だよ。呪家を殺す理由はなんだ?」
歩きながら問い掛ける。天宮の作戦か何かかと勘ぐっているような間があったが、約束の時間まではまだ少し余裕があるため、話し合いには応じてくれるようだ。
『聞いてどうするつもりだ? 場合によっては素直に殺されてくれるわけでもあるまい』
「純粋に気になっただけだ。あんたを殺したら、永遠に知り得ない謎になっちまうからな」
『それもそうだな。恋人が殺された理由も知らずに死んでいくのは可哀想ではある』
挑発のつもりみたいだが、今の天宮にはまったく効果がなかった。里緒の感情操作がよく効いている。
『できることなら殺人なんてしたくはなかった』
「どの口が言うんだ?」
『まあ聞きなさい。決して人殺しを楽しんでいたわけではない。ただ私の人生において予定していなかったことなんだ』
その言い方は、まるで仕方なく人を殺しているようにも聞こえた。
『私にとって呪家の人間とは、最高に美味いご馳走のようなものだ。ゲームで言ったら、レアなアイテムを落とす敵が現れたってところかな』
またも挑発と捉えられる発言。長谷川はよほど天宮の心を乱したいらしい。
『おっと、悪い悪い。私が人……いや、呪家を殺す理由だったかな。簡単に言えば、私は死にたくなかった。死が恐ろしくなったんだ』
「死が恐ろしくなった?」
『呪家の呪われた部位は腐らない、という話は霧咲君から聞いているかな?』
聞いているというよりは、実際に見て触れて体験した。一ヶ月も前に切断されたはずの耳や脚が、つい数分前に生きたまま切り離されたように温かかったのだ。
『呪いを解くには焼くしかない。逆に言えば、焼かなければ土に還ることすらないんだ。この意味は分かるか?』
分かるもなにも、言葉通りの意味ではないのだろうか?
返す言葉が浮かばず、天宮は黙んまりを決め込んだ。
『私は……左頭家は脳が呪われていた。つまり私たちは、ある意味で不老不死なのだよ』
「不老不死?」
あまりにもファンタジックな単語が飛び出したため、天宮はついつい聞き返してしまった。
『我々左頭家に痴呆は一人もいない。脳細胞が死なないからだ。どんなに老いても、まるで青年のような記憶力と思考力を維持したまま。もっとも劣化しないのは脳だけであって、肉体の方は別だがね』
そこまで聞いたことにより、長谷川が何をしようとしているのか、ようやく天宮にも理解することができた。それと同時に全身に怖気が走る。
脳は永遠に生き続けようとするも、それを生かすための肉体が先に寿命を迎えてしまう。SFの世界でもあるまいし、脳だけを生かす装置なんてものは存在しない。
だから長谷川は呪家の呪われた部位を集めたのだ。自分の脳を生かすために。
「仮に人間一人分の部位を集められたとして、それからはどうするつもりだったんだ? 手や脚ならともかく、内臓もすべて交換するわけにはいかないだろ」
『さてね。それは集めてから考えるとするよ』
そんなことで? 成功するかも分からない実験のために、コイツは五人もの人間を殺したというのか? セナの未来を奪ったというのか!?
ついさっき里緒に切ってもらったはずの怒りが、急激に成長していくのを感じた。
『別に勝算がないわけじゃない。大昔には私と同じような考えを持った人々が多くいてね、他の家系の能力を奪うことも頻繁にあったらしい。つまり不可能ではないということだ。ただ近年では能力を奪うメリットよりも殺人を犯すデメリットの方が大きいから、誰も試そうとはしないがね』
「あんただって、そんなことを続けていれば、すぐに捕まるだろ」
『捕まらないさ。目撃者が出ないよう細心の注意を払うし、証拠はこの手で握り潰す』
刑事であることも奴の強みの一つか。
「自分の殺人の証拠を消すために刑事になったのか。世も末だな」
『勘違いしてもらっては困るな。私が殺人を決意したのは、ほんの半年前だ。肉体は死んでいるのに、脳だけが活発に動いている母を看ていたら、この人は今どれだけ苦しい思いをしているのだろうと恐怖してしまってね。何とか死亡届は出してもらえたが……日本が火葬をする国で本当に良かったよ。もし生き埋めにでもされたら、地獄の苦しみを味わうことになるだろうからな』
「なるほど。あんたがどうしようもないクズだってことは分かった」
『誰だって自分が一番可愛いものだよ。君も老いることのない脳を持っていたら、自然と私と同じ考えになるはずだ』
解らない。解るはずがない。今の天宮にとっては自分が往生する時のことよりも、セナの仇を討つことの方が大切だったから。
通話が終わった。天宮の耳が再び静寂を取り戻す。
ただアスファルトを叩く足音は、先ほどよりも大きくなっていた。長谷川の殺人動機を知って、天宮は確信したからだ。他の呪家のためにも、コイツは今ここで殺さなくてはいけない、と。
誰ともすれ違うことなく、指定された児童公園に到着した。
ほぼ正方形の公園だ。入り口は四方に一つずつある。どこから入ればいいのか指定はなかったため、比較的街灯が明るい公衆便所脇の入り口へ回ることにした。
外周から公園内を覗き込む限り、長谷川の姿は見当たらない。おそらく遺体の入ったごみ袋を置いた後、一旦天宮を離れさせてから、中身を確認しに来るはずだ。できればその時に不意を突いて、長谷川を――殺す。
腹をくくった天宮は、公園の中へと足を踏み入れた。
その瞬間――世界が変わった。
天宮の周りを暖かな日光が包み込み、夜の闇が一気に晴れていく。
夜空も消えた。頭上にあるのは無機質な天井のみ。つまり室内だ。
教壇の後ろにある黒板、等間隔に並べられた長机、生徒が描いたであろう絵画、石膏で造られた胸像。
ここは――美術室?
確信するのと同時に、視覚以外の五感も徐々に適応していく。
鼻腔は絵の具の匂いを嗅ぎ取り、特別教室独特の生ぬるい空気が肌に触れた。
間違いない。ここは思い出の場所。セナと一緒に楽しい時間を過ごした美術室。
セナ――。
「こんにちわ。宗太君。待ってたよ」
美術室の奥に、一人の女子生徒が立っていた。
見間違えるはずもない。あれは青山セナ。天宮の恋人だった女の子。
久しぶりの愛しい笑顔に対面し、天宮の目に涙が滲んだ。
「同じクラスだったら一緒に美術室に行けるのにね」
セナは拗ねたようにプクッと頬を膨らませた。
そうだったな、それがセナの口癖だった。天宮にはどうすることもできないのに、違うクラスなのを、よく詰られていたものだ。
「じゃあ、こっちに来て。また今日も一緒に絵を描こう」
彼女の甘い言葉に誘われ、天宮は一歩一歩進んでいく。
それはまるで蜜に群がる蟲のよう。甘美な思い出を餌に、すっかりと骨抜きにされてしまった天宮は、疑問を抱くことも忘れて幸せな過去へと身を委ねた。
頭が回らない。辛く苦しい現実から逃げ出したいという本能が、思考を停止させる。
あんな何気ない日常がずっと続けば、それでよかったのに。
ニコッと笑みを浮かべるセナに向けて、天宮は左手を伸ばした。
もう少しだ。もう少しで失ったはずの温もりが手に入る。
希望を胸に秘め、セナの手に指先が触れそうになった、その寸前――、
ガギッ! と、猛烈な音を立てて視界が消し飛んだ。それと同時に、顎に激痛が走る。
あまりの衝撃に、天宮は思わず尻もちをついてしまった。だが何が起こったのか、奇跡的に理解する。
天宮は自分の右手首……縫い付けられたセナの右手を凝視した。
自分の意思とは関係なく、右手に殴られたのだ。早く目を覚ませと言わんばかりに。
そう、目が覚めた。
ここは美術室なんかではない。夜の闇が映える児童公園だ。
今のは夢? それとも幻覚?
しかし疑問は続かない。なぜならワイヤーのような細い紐を握りしめた殺人犯が、じっとこちらを見下ろしていたのだから。
「そうやって五人も殺してきたのか?」
「六人目は失敗したがね」
慌てて立ち上がり、距離を取る。
対峙した長谷川は、なんともしようがないといった様子でため息を吐いていた。
「その手、どうしたんだ? 君の右手は王子君の能力で失ったはずじゃなかったのか?」
「これはセナの右手だ」
長谷川が目を凝らす。どうやら暗くて縫い目までは視えていなかったようだ。
「なるほど。君とは独立した器官だから幻覚の中でも動けたわけか。やられたよ」
「幻覚?」
やはり長谷川は自分の能力をすべて語ったわけではないらしい。
「お前の能力は相手に幻覚を見せることなのか?」
「何を言っている? さっき電話で霧咲君と一緒に聞いていたのではないのか? 私の能力は『相手の脳と同期する』ことだと」
「同期?」
どこかで聞いたことのある言葉に、天宮は眉を寄せた。
そうだ。確か長谷川が慌てて逃げ帰った理由を語った時に、里緒が引っ掛かりを覚えて抜き出した単語だ。あの時点で、彼女は長谷川の能力について何か感づいていたのかもしれない。
「私自身が人生の中で一番楽しかった思い出を想起することで、相手にも強制的に同じような記憶を思い出させることができるのだよ。ま、君がどんな思い出に浸っていたのか私は知らないし、幻覚を見せているという意味では別に間違っちゃいないがね」
得意げに語る長谷川の説明を耳に入れている傍らで、天宮は納得した。
範囲内にいる人間の無意識を操る。その規格外の能力は、どのようにして実施されていたのか。脳の同期、つまり『殺害現場から目を逸らす』という命令を一斉送信することが、その答えだった。
そして命令を下せる相手や内容は、やはり無意識下でなくては効果が出ないのだろう。そうでなければ幻覚から醒めたばかりの天宮に、また別の幻覚を見せてくるはずだ。
つまり真正面から向き合っている現状、長谷川の能力に対して明確なアドバンテージを取ったことになる。
遺体の入ったごみ袋を置いた天宮は、怜生から借りたバタフライナイフを取り出した。
呪家としての能力を無効化したなら、あとは己の肉体で勝負するのみ。
しかし相手が刃物を出したというのに、長谷川は身構えることすらしなかった。
「やれやれ。君が夢を見ている間に済ませたかったのだがね。まあ仕方がない。この歳になると、少し動くだけでも辛いものだ。だから前座は若い者に任せよう」
長谷川がそう宣言すると、背後の暗がりから少女が現れた。
数時間前に寝室へ運んだ時と同じ、着の身着のままの真理子だ。しかし両目を覆っていた包帯は解かれており、定まっていない虚ろな視線は空中を彷徨っている。
「真理子!」
叫ぶと、真理子は怯えたように身体を揺らした。さらに長谷川の横腹へしがみつく。
何故――、
「私は今、王子創平を自認していてね。その状態で王子君と同期をしている。つまり彼女には私が王子創平に見えているというわけだ」
「……は?」
「さあ、真理子。私の代わりに天宮君を捕まえておくれ」
「はい、兄様」
長谷川に寄り添っていた真理子が一歩前に出る。その瞬間、天宮の足元がザシュッ! と音を立てて小さな爆発を起こした。
見れば、銃弾でも撃ち込まれたように地面の一部が裏返っていた。
まさか、本当に?
「真理子、やめろ! そいつはお前の兄じゃない!」
仇だ! そう叫ぶ前に、真理子の焦点が天宮の脚に定まっていることに気づいた。
咄嗟に真横へ飛び退く。今まで立っていた地面が抉れた。
さらに彼女の視線は天宮の胴体へ。照準を合わせた瞬間に即裏返るわけではないと判断した天宮は、長谷川と真理子を中心に、円を描くように移動し続ける。
「くそっ!」
このままじゃジリ貧だ。近づくこともできないし、物陰に隠れても長谷川には自分の居場所が手に取るように分かるはず。しかも再び無意識に介入されては、それこそ終わりである。
こちらの体力を削るつもりなのだと理解し、天宮は歯噛みする。
すると屈んだ長谷川が、わざと聞こえるような声で真理子へ耳打ちした。
「躊躇っているようだね、真理子。大丈夫、君に人殺しをさせたりはしない。足止めしてくれるだけでいいんだ。最後は僕がやるから」
「はい、兄様」
言うやいなや、真理子の狙いが天宮の足に集中し始めた。さらに照準を合わせてから着弾までが早くなる。
おそらく真理子は他人を傷つけることに恐怖しているのだ。彼女が最後に見た光景は、眼窩が露わになった亡き兄の姿だったのだから無理もない。それを軽症で済ませるだけでいいと命じられたため、少しだけ精神的な重荷が取り除かれたのだろう。
今の真理子は足しか狙ってこない。
そう判断した天宮は賭けに出た。
「真理子、俺と目を合わせろ! 俺を信じろ!」
立ち止まって強く訴えかけると、再び真理子の身体が揺れた。
追撃はない。だが天宮の考えは甘かった。相手は彼女一人ではないのだ。
長谷川が真理子の肩に手を置いた。
「真理子、やるんだ」
「……はい、兄様」
一瞬だけ哀しげな表情を見せた直後、天宮の右足が爆ぜた。
「うぐっ……」
ふくらはぎの肉が裏返る。
あまりの激痛に、天宮はその場で跪いてしまった。
「よくやった、真理子。君はその場で待機だ」
「はい」
長谷川が近づいてくる。その手には、いつの間にか金属バットが握られていた。
反撃する手段はない。立って逃げることも不可能。せめてもの抵抗として、憎しみを込めた目つきで睨みつけてみたものの、状況は何一つ好転しなかった。
長谷川が金属バットをフルスイングする。側頭部に強烈な衝撃が走るのとともに、視界に星が散った。たまらず地面に倒れる。意識は失っていない。しかしバタフライナイフを手放してしまう。手を伸ばそうにも、身体が思うように動かなかった。
足元に立った長谷川が自分を見下ろしている。
「手負いの獣に近づくようなバカなマネはしない。かといって返り血も浴びたくないのでな。やはりここは殴り殺すことにしよう」
長谷川がゆっくりとバットを振り上げた。
一方で、天宮は徐々に全身の力を抜いていく。抗うことすら諦めた様子を訝しんだ長谷川だったが、どのみち選択肢は変わらない。天宮が絶命するまで、何度もバットを叩き込むのみ。
そして命を奪うための最初の一撃が放たれた、その瞬間――ぼんやりと夜空を見つめていた天宮の口が開いた。
「俺さ、ちょっと変だと思ってたんだよ」
「遺言なら聞いてやる。手短にしろ」
長谷川の狙いが天宮の左脚に移った。
膝を強打されて呻き声を上げるも、天宮は構わずに続ける。
「セナはいつも『自由気ままな右手で絵を描くと、風景が勝手に動く』って言ってたんだ。これ、ちょっと変な言い回しだよな。だから俺は、それを聞くたびに指摘してやった。自由気まま『に』右手で絵を描くと、じゃないのかって。そしたらセナは首を振って言うんだ。『ううん。私の方で合ってる』って」
「……何が言いたいんだ?」
「お前は変だとは思わないか?」
「だから何がだと訊いている」
長谷川が天宮の頭に狙いを定めた。
もう長々と遺言を聞くつもりはない。次の一言が終わり次第、即座に天宮の頭を叩き割らん構えだ。
「あんたはどうやってセナを殺した? 絞殺だろ? さっき持っていた細い紐で首を絞めたんじゃないか? でも、それじゃあ話がおかしくなる。だったらセナはどうやってダイイングメッセージを遺したんだ?」
「右手首を切断した時に流れた血液で遺したんだろう」
「だから逆なんだってば。手首を切らなきゃ血は出ない。けど手首を切断しちまったら、右手で絵なんて描けるわけがない」
「…………」
困惑した表情を露わにした長谷川は、とどめを刺すことも忘れて天宮の言葉に耳を傾ける。そのわずかな隙が二人の明暗を分けた。
「それに気づいた時、思ったんだ。セナの言ってることは全部正しかったんだって」
「なに?」
長谷川の注意が逸れる。視線の先は天宮の右手。本来なら、そこには不格好に縫い付けられたセナの右手があるはずなのに――、
ない。天宮の右腕の先には、何もなかった。
「貴様ッ! 青山セナの右手はどこに……がっ――!?」
短い悲鳴とともに、長谷川の身体が真横へなぎ倒された。一時的に死の危険がなくなった天宮は、ゆっくりと上半身を起こす。地面の上で仰向けに倒れている長谷川の首に、人間の右手首が絡まっていた。
「勝手に動くのは絵だけじゃなくて、右手もだったってわけだ。そいつの指先に触れた一滴の血液が、ダイイングメッセージを遺したってことなんだろうな」
「くそがああぁぁ!!」
今までの振る舞いからは想像もできない暴言を吐いて、長谷川は右手を引き剥がした。
不意を突くことで転倒させるまでは成功したが、やはり手首のみの力で人間の首を絞め続けるのは難しかったらしい。呆気なく剥ぎ取られたセナの右手首は、息を荒げた長谷川の手によって地面へ叩きつけられてしまった。
だが予想外の出来事が起きて、よほど取り乱したのだろう。息を乱した長谷川は、真っ赤に充血した目で天宮を睨みつけた。
「殺す。さっさと終わらせる」
「無理だ。あんたはもう俺を殺せない」
「ほざけ――ッ!?」
開かれた天宮の左手に、人間の眼球が乗っていた。
今まさに抉り出したばかりだと思わせるほどの瑞々しい眼球が、長谷川の瞳をじっと見つめている。
「その眼は、まさか――」
「ダイイングメッセージの時点で気づいておくべきだったな。自由に動けるのはセナの右手だけだけど、呪われた部位は肉体から切り離されても能力を発動できるんだよ。しかも呪家本人の意思と経験も宿ってる。知らなかったのか?」
得意げに言ってはいるものの、天宮もこの事実を知ったのは『理容店KIRISAKI』を出発する直前だった。被害者の一部を確認するため、一度ごみ袋から取り出した時、王子創平の眼球と視線を合わせた瞬間に世界が裏返ったのだ。
それを王子創平の意思だと確信した天宮は、彼の眼球を使うことを決意する。
「セナの右手と王子創平の眼球。どちらの無念も晴らそうとしたら、余計なダメージを食らっちまった。痛てて……」
長谷川に殴られた頭と左脚は重症というほどではない。放っておいても、そのうち自然に治癒するだろう。だが真理子の能力で裏返った右のふくらはぎは、完全に機能を失っていた。激痛もさることながら、まったく動かせそうにない。
でも、もうどうでもいい。勝負は決した。
長谷川は両手で顔を覆いながら千鳥足になっていた。視界の上下前後左右に加え、明度と色彩、さらには平衡感覚まで反転していることだろう。逃げようとする素振りをしているが、立っていることすら難しそうだった。
「真理子! そいつを殺せ!!」
「だから、それは無理だってば」
天宮の言う通り、真理子は動かなかった。
王子創平を自認しているだけの長谷川の命令など聞くわけがない。だって今この場には本物の兄がいるのだから。
「兄……様……?」
喉を震わせ、涙を浮かべた真理子が、ゆっくりと近づいてくる。
その涙は、天宮がセナの右手と対面した時に流したのと同じものだ。彼女の気持ちは痛いほど理解できた。
創平の眼球を真理子に託した天宮は、痛みを堪えて立ち上がった。
そして先ほど長谷川が落とした金属バットを拾い上げると、一歩一歩、着実に奴との距離を詰めていく。その途中、長谷川に叩きつけられたセナの右手が、天宮の身体を這い上がってグリップを掴んだ。
「そうか、お前も手伝ってくれるのか」
天宮は愛おしそうにセナの右手を見つめた。
「や、やめてくれ……」
まるで暗闇の中を手探りで進むように、長谷川が腕を伸ばした。当然ながら、その方向に天宮はいない。ついには走って逃げようとするも、足を縺れさせて転んでしまう。こうなれば、もうまな板の上の鯉同然だった。
故に長谷川は声を張り上げて命乞いをするしかなかった。
「助けてくれ!」
「黙れ、クズ野郎!!」
渾身の力を込めた金属バットが長谷川の脳天を直撃する。創平の能力で極限状態だったこともあってか、長谷川は一撃で気を失ってしまった。
起き上がる気配がないことを確認した後、天宮はセナの右手に微笑みかけた。
「ありがとう。お前のおかげで助かったよ」
もし視界が反転している状態で脳を同期されていたら危なかった。長谷川がそれを思いつかなかったのは、セナの右手が上手く攪乱してくれたからだろう。想定外の連続は、正常な判断力を奪うには十分だった。
次に天宮は足を引きずりながら真理子の元へと寄っていく。兄の眼球を大切に抱えていた真理子は、小動物のようにビクッと肩を震わせた。
「真理子。大丈夫か?」
「ごめん……なさい」
まるで悪戯を叱られた子供のように、真理子は天宮のふくらはぎを見ながら呟いた。
「仕方ないよ。悪いのは全部あのクズなんだから」
だから許す。天宮は左手で真理子の頭を撫でた。
見たところ怪我もなさそうだし、ひとまず彼女は問題ないだろう。
ならば、あとは決着をつけるのみ。
鬼の形相を浮かべ、決意を固めた天宮は踵を返す――が、その途中で真理子に上着の裾を引っ張られた。
「ずっと、一緒に……いて」
じっと見つめてくる真理子が、弱々しい声で言う。
怖いのだろう。寂しいのだろう。どうすればいいのか、何も分からないのだろう。
怜生の話を思い出す。傾いた真理子を立て直せるのは、天宮だけだと。
しかし残念ながら、ずっと一緒にいることは不可能だった。
「ごめん。俺は今から、やらなくちゃいけないことがあるから」
人を殺す。そして少なからず罰を受ける。遅くなければ、それからでも……。
目を閉じた天宮は、真理子の手を解いた。そして一度だけ、その小さな身体を抱き寄せる。真理子が嗚咽を漏らした。
別れの時間だ。
金属バットを杖代わりにして、気を失っている長谷川に近づく。さっき落としたバタフライナイフを拾い、天宮は長谷川の上へ馬乗りになった。
やっと、この時が来た。
「殺す」
自己暗示のように自らの殺意を奮い立たせる。もう理性は不要だった。
「殺す殺す」
里緒に切り取られた怒りと憎しみを、新たに復元する。仇を討てるという悦びすらも糧として、殺人衝動を増幅させる。
「殺す殺す殺す」
この時のために苦労した。
この時のために右手と右足を失った。
この時のために明日を捨てた。
この時のために生きてきた!
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!」
左手のバタフライナイフを頭上まで振り上げる。首や顔は後回しだ。まずは生きたまま胴体をズタズタに切り刻んでやる。何回も刺してやる。
何回も。何回も何回も。何回も何回も何回も何回も!
「殺すッ!!」
爆発した憎しみが、殺人犯の命を刈り取ろうとした――その瞬間だった。
ヂョキンッ!!
天宮の背後で音がした。
突然のことに驚いた天宮は慌てて振り返る。
目と鼻の先に、銀髪喪服の女がハサミを手にして立っていた。
「里緒? なんで、ここに……?」
疑問に思えたのは一瞬だけだった。自分の意思に反して、身体がゆっくりと傾いていく。どうにかして抵抗しようにも、全身に力が入らない。受け身を取ることもできず、やがて天宮は地面へ倒れ込んでしまう。
次に襲ってきたのは眠気だった。唐突に自覚した疲労が眠気を促進させ、天宮の脳を停止へと追い込んでいく。
瞼が下りてくる。視界もぼやけてきた。
天宮が最後に見た光景は、歓喜を露わにした霧咲里緒の笑顔だった。




