第1章 交渉
「里緒! 真理子はっ!?」
息を荒げた天宮が、転がり込むように『理容店KIRISAI』の扉を開けた。
中は静かで、出発する時と特に変化している様子はない。銀髪喪服の店主が、悲しそうな顔で佇んでいる以外は。
「落ち着きなさい、天宮君。とりあえず、これを飲んで息を整えましょう」
里緒が水の入ったペットボトルを差し出す。しかし天宮の激昂は、彼女の好意を素直に受け取ろうとはしなかった。
「落ち着いていられるわけないだろ! 真理子がいなくなったって、どういうことだっ!?」
「気持ちは分かる。けれど今は取り乱しても何も解決しないわ。落ち着いて」
「できるかっ!!」
振り払った天宮の左手が、里緒の持つペットボトルを弾いた。開いた口から水をまき散らしながら、ペットボトルは床へと落ちる。その様を見ていた里緒は特に驚きもせず、表情を落としたまま深い深い溜め息を吐き出すだけだった。
「はぁ、面倒くさ」
ブチッ!
何かが切れる音がした。それはまるで髪の毛の束を無理やり引き千切ったような音。ただ痛みは頭皮ではなく、心からやってきた。
喪失感を得た天宮は、すぐに何をされたのか気づく。同時に、憎しみと感謝、相容れぬ二つの感情が里緒に向けられた。
急に冷静になった天宮が、顔を伏せて呟いた。
「熱を冷ましてくれたことには感謝する。けど、早く真理子を捜さなくちゃ」
「分かってる。でも慌てたって何も解決しない。状況を冷静に分析しないと。それに貴方、とても疲労しているわ。目の下に隈もできてる。昨日ちゃんと寝た?」
「…………」
息のつく暇もない指摘と質疑に、天宮はぐうの音も出せずに視線を逸らした。里緒の言っていることは何もかもが正論だったし、それ以上に自分の身体を気遣ってくれていることが嬉しかった。
天宮が黙り込んでいると、ようやく怜生が追いついたようだ。天宮よりも遅いペースだったとはいえ、同じ距離かつ遺体の一部が入ったゴミ袋を持って走っていたのに、あまり息が乱れていないようだった。
そして開口一番、彼は姉へと問いただす。
「姉さん。王子真理子がいなくなったってどういうことだ?」
「はぁ。これだから男って奴は単純なんだから。もうちょっと語彙を増やしなさいよ」
呆れて首を横に振る仕草は、年齢よりも随分とおばさん臭く見えた。
「まず謝るわ。長谷川さんのマンションから帰る途中、ちょっとお茶をしてしまったの。もし寄り道をしなければ、間に合っていたかもしれないわ。ごめんなさい」
それについては、天宮は一切里緒を責めることができない。里緒の忠告を無視して、ずっと留まっていたのは天宮の方なのだから。
「さっきも訊いたけど、なんでお前は長谷川が帰ってこないって知ってたんだ? 理由をまだ聞いていない」
「ヒント。今日の昼に急用を思い出して帰ったこと」
「?」
確かセナのダイイングメッセージを発見した時、急いで店に戻ったにもかかわらず、長谷川は急用を思い出して警察署へ帰ったんだった。その急用というのが帰宅できないほど長引くものだと、里緒は知っていたんだろうか。
「あまりにもタイミングが良すぎると思わない? まるで逃げたようで」
「さすがにそれは言い過ぎだ。ただの偶然だろ」
天宮たちが血の絵を発見した時には、長谷川はまだ店にいたはずだ。セナが遺したダイイングメッセージのことを知れるはずもないし、何より捕まることを恐れて逃げたのなら、そもそも店には来ないんじゃないか?
いくら考えても理解できないだろうと判断した天宮は、早々に話題を変えた。
「店の鍵は掛けたんだよな?」
「掛けた。それに私が帰ってきた時には開いていたし、特に壊された様子もない。ここ以外に出入り口もないわ」
「つまり真理子は自分で鍵を開けて出て行った、ってことか?」
「そうとも限らないわよ」
「?」
霧咲姉弟以外で、誰か店の鍵を持っているのか?
そう疑問に思った瞬間、とある男の顔が脳裏を過った。
「まさか地下で軟禁されてる男が――」
言いかけた、その直後だ。
キンッと耳鳴りがした。不協和音と同時に、全身に鳥肌が奔る。
寒気が襲った原因を、天宮は直視していた。
霧咲里緒。美人の部類に入る整ったその顔立ちが――完全に色を失くしていた。
作り物のような表情。あるのは視線のみ。汚物にまみれた卑しい人間を虐げるような凍てつく瞳が、天宮の眼球を貫いた。
真正面から視線を受け止めてしまった天宮は、一瞬だけ呼吸を止める。一瞬だけで済んだのは、里緒がすぐに笑みの仮面を被ったからだ。
「いいえ。『彼』にそのような意志はないわ。それくらい徹底的に感情を削いだもの」
「そ、そうか……」
これ以上言い返せないのももちろんだが、今後一切あの男の素性を訊くのは不可能だなと、天宮は悟った。
「それはともかく、さっき面白い物を見つけたわぁ」
「面白い物?」
「真理子ちゃんには悪いけど、何かの手がかりになると思って勝手に探らせてもらったの」
里緒がポケットから出したのは手帳だった。見覚えがある。数日前、真理子がこの店を訪れた際に所持していた物だ。
「有益な情報は何も書かれていないんじゃなかったのか? 漏えいを恐れて」
「持ち主の真理子ちゃんは何か書かれているとは思っていなかったのでしょうね。でも王子創平は違う。その手帳の真ん中あたりを開いてちょうだい」
渡された手帳は、新品同様に折り目も汚れもなかった。それもそのはず。前半の数ページにしか真理子の字はなかった。
天宮は最初からゆっくりとページを捲っていく。
すると非常に中途半端な場所に、真理子とは違う大人びた文字が書かれていた。
『私たち兄妹に万が一のことが起こった場合に備え、霧咲里緒へ向けて情報を残す』
「これっ……!?」
「えぇ、おそらく王子創平が書いたものでしょうねぇ。真理子ちゃんに言わなかったのは、嫉妬しちゃうからかしら」
軽口を放った里緒は、ニッコリと微笑んだ。
天宮は続きを急く。
『まずはじめに、私に殺人事件の捜査の依頼をしたのは長谷川と名乗る刑事だ』
「長谷川が!?」
驚きのあまり声を上げ、天宮は里緒の方へ振り返った。一度手帳の内容を読んでいるからか、彼女は表情を崩さずに頷いただけだった。
天宮は説明を求める。
「里緒、どういうことなんだ?」
「変だと思ったのよ。私たちは長谷川さんの依頼で被害者の残留思念を集めることになった。で、実は一人目が殺された現場へ行く日時は長谷川さんが指定してきたの。その時はあまり変には思わなかったけど、現場に着いた途端、王子兄妹が現れた。あまりにもタイミングが良すぎるとは思わない?」
言われてみればそうだ。王子創平が殺人事件の捜査を依頼されたにせよ、あの時間、あの場所で出会うのは偶然にしてはできすぎている。
「しかも長谷川さんは、現場の目の前まで車を走らせてはくれなかった。別に車が入れない道でも、一方通行でもなかったのにね。それはつまり」
「もう一つの依頼した方と顔を合わせるわけにはいかなかった、ってことか」
「それもある。でもそれ以上に……」
もったいぶっているのか、話の区切りでもないのに里緒は言葉を切った。
「おそらく長谷川さんはね、私たちと王子兄妹を戦わせたかったのよ」
「戦わせたかった? どういう意味だ?」
「言葉通りの意味よ。霧咲里緒と王子創平。お互いのプライドが高いことは、長谷川さんも知っていたんでしょうね。同じ目的でも決して手を組むことはない。もし話がこじれたら、争うのは必至だ、と」
「だから……何のために……?」
「私たちが呪家だからよ」
呪家だから争うのか? という言葉は出ず、天宮は無言で疑問の表情を投げた。
「戦うということは、どちらかが傷を負うということ。右手と眼球。おそらく長谷川さんは私に勝ってほしかったのでしょう。実際にそうなったけど」
そこまで説明され、今までのここに至るまでの過程を照らし合わせることで、ようやく天宮にも長谷川の考えていることが理解でき始めた。
霧咲姉弟と王子兄妹。この四人は誰をとっても危険な能力を有している。今まで屠ってきた呪家とは違い、簡単には殺せないだろうと殺人犯は考えた。その結果、二つの呪家を争わせることによって、体力を消耗させようという結論に至ったのだ。
そして実際、事は殺人犯の計画通りに動いた。
王子創平は廃人も同然にまで追い込まれ、赤子の手を捻るよりも簡単に殺せるようになった。そして次の日、王子創平から真理子が離れるのを見計らって殺し……眼球を奪った。これが一連の流れだろう。
ゆっくりと殺人の過程を想像していた天宮は、徐々に左手に力が入っていくのが分かった。
なんでそうまでして、殺人を犯さなければならなかったのか。どうして被害者たちは殺されなければならなかったのか。あまりにも理不尽な行いに、ここにはいない殺人犯へ鬼の形相で睨みつけた。
「あーあ。これじゃあ私が殺したようなものじゃない」
浮かない顔で里緒が溜め息を漏らす。
これは仕方のないことだ。絶対に里緒のせいじゃない。と天宮は思ったものの、口にするのは阻まれた。
「けどこれは長谷川が怪しいってだけの話だ。俺たちは長谷川が犯人であることをもう知ってるし、証拠もある」
怜生の持っているゴミ袋をチラリと一瞥した。中には被害者たちの人体の一部だ。
仮に天宮の想像したことがすべて正しかったとしても、それは状況証拠にしかすぎない。物的証拠の前には、どうしても霞んでしまう。
「そうね。もっと早く手帳を見つけていれば有効な情報だったでしょう。でも一番見てほしい情報は次のページにある。捲ってみて」
天宮は恐る恐る紙をつまんだ。しかし次のページは白紙。また幾分か離れた場所に、同じ文字で文章が書かれていた。
あまりに信じがたい内容のため、天宮は何度も視線を走らせる。
『少し調べてみたところ、長谷川という刑事は呪家だった』
「長谷川が……呪家!?」
『本家の姓は左頭。呪われた部位は脳。能力は不明』
「…………」
手帳を開いたまま、天宮は頭を抱えた。
連続通り魔殺人事件の犯人が、いや事件の犯人すらも、呪家などという異能力を有した人間だったなんて。
「……里緒は知っていたのか? 長谷川が呪家だったって」
「いいえ。実を言うと、私と長谷川さんの付き合いはそう長いものでもないの。本物の刑事さんだったから、疑うことも忘れていたわ。もっと早期から調べていれば、すぐに判ったと思うのに……ごめんなさい」
「いや」
里緒が謝る筋合も、天宮が謝られる理由もない。悪いのはすべてあのクズだ。
「長谷川さんが呪家となると、真理子ちゃんを連れ去ったのはやっぱり長谷川さんである可能性が高いと思う」
「どうしてそう思う?」
違うな。と、天宮は自らの問い返しを否定した。
真理子が自らの足で出て行ったわけでもなく、また地下の男が無関係ならば、間違いなく長谷川の仕業だろう。それ以外には考えづらい。
だから問題は「どうやって?」だ。
怜生がやったのとは違い、店の扉には傷一つついていない。さらに合鍵もないのなら、内側から開ける以外はどうやったって不可能だ。
「おそらく能力を使ったんでしょうね」
「だからどんな能力だよ」
まさか物体を透過できる能力ではあるまい。
SFチックな異能力を想像していると、里緒は人差し指を自分のこめかみに突きつけた。
「長谷川さんの呪われた部位は脳。そして耳にしただけの情報だけど、彼に御兄弟はいないそうよ。本当かどうかは知らないけどね。つまり長谷川さんは第一子。第一子の能力は、私や王子創平のように他人の脳に直接干渉するような物が多いわ」
他人の脳に直接干渉する?
そこまで聴いて、天宮はハッと息を漏らした。
方法は解らない。呪家がどのように能力を使っているのかも知らない。だけど他人の脳に干渉できるなら……。
「まさか長谷川が真理子に中から鍵を開けさせた?」
「おそらくね」
しかしそれこそ「どうやって?」だ。創平は相手と眼を合わすことで能力が発動し、里緒は右手で操らねばならない。最低でも扉一枚隔てた相手に能力を行使し、行動を操ったりすることなんてできるのだろうか。
「脳をどうやって動かせば能力を使えるのかなんて、本人以外に分かりっこないわ。でも今までの事件のあり方を見れば、おそらく長谷川さんの能力は――」
その時だった。けたたましい音を立て、奥の部屋で固定電話が鳴り響いた。
一同はそちらに注目する。全員が息を呑んだ。
「私が出るわ」
電話を取りに行く怜生を制止させ、里緒が奥へと向かった。男二人も後に続く。
いつまでたっても鳴り止まない電話機に手を掛け、軽い調子で里緒は受話器を取った。
「はい、もしもし霧咲です。……あらぁ、やっぱり長谷川さんでしたか」
天宮は息を呑んだ。
チラリと天宮の方を一瞥した里緒は、受話器のコードを弄びながら相手に提案した。
「天宮君が貴方と話したいそうだけど、代わります? ……あら、そう? ではそうしましょう」
何かを同意した里緒は、天宮を呼び寄せた。
「できれば全員に聞いてほしいんですって」
固定電話をスピーカー機能に設定する。
すると電話機の向こうで、憎き初老の男が喋った。
『諸君、こんばんわ。いきなりで悪いが、王子真理子君はこちらで預かった』
「長谷川! 今どこにいる!?」
『どこと言われれば自分の家だ。ちなみに玄関の修理代、『理容店KIRISAKI』に請求すれば、ちゃんと弁償してくれるのかね?』
話の後半も聴かぬまま、天宮は駆け出そうとした。
しかし里緒に腕を掴まれることによって阻まれる。
「落ち着いて。今貴方が彼の家へ向かったところで、逃げられるだけだわ」
「…………」
確かにその通りだ。店から長谷川のマンションまで、かなりの距離がある。
煮えたぎる憎しみを何とか抑え込み、天宮は再び電話機の前へ立った。
「真理子は……真理子は無事なのか?」
『もちろん無事さ。大切な交換材料を蔑ろにしたりはしない。ただとある事情により、声を聴かせてやることはできないがね』
「交換材料?」
『盗まれた物を返してもらいたくてね。交渉のためだ』
人体の一部が詰められているゴミ袋を一瞥してから、天宮は吠えた。
「これはお前の物じゃない!」
『落ち着けと霧咲君も言っていただろう。そう叫ぶな。耳が痛くてかなわん』
どうしてこの男は俺の目の前にいないのだろう。
天宮は三次元を超越できない自分を呪った。
『そう噛みつかれては、ゆっくりと本題にも入れん。天宮君の気が落ち着く前に、ワンクッション置こう。どうして私の犯行だと知った? 青山セナの殺害現場に行って、何を見つけたんだ?』
「あの時の長谷川さん、まるで逃げるように急用を思い出したんでしたねぇ。おかげで捕まえ損ねたわぁ」
『質問してるのはこちらだよ』
里緒はチラリと天宮を一瞥した。
一度大きく深呼吸した天宮は、低い声で真実を明かす。
「セナのダイイングメッセージだ。死ぬ間際、力を振り絞ってお前の顔を描いたんだ」
『ほお? 私が訪れた時にはそんなものはなかったが?』
「俺が近づくことが発動条件だったみたいだ。セナの能力、知ってんだろ?」
『なるほど、なるほど。理解した。まったく、青山君にしてやられたわけだ。まさかそんなメッセージを遺しているとはね』
血が滲むほど、力強く下唇を噛みしめる。
セナの生命を奪ったこの男は、まるで塩と砂糖を間違えて料理に失敗した程度の嘆きしかなかった。人の命をなんだと思ってやがる!
『そうか。ならば残念ながら、私は天宮君を殺さねばならなくなった』
「……俺を?」
『青山君のダイイングメッセージは、今はただのシミと化しているんだろう? そして天宮君が近づけば、また動き出して私の顔を形成する。証拠を消すためには、君ごと消した方が一石二鳥だと思ってね』
「なるほどねぇ」
長谷川が言わんとしている意図に気づいたのか、里緒は唇を舐めるように嗤った。
もちろん、天宮もすでに理解していた。
それでも交渉という名の脅しを明確にするべく、里緒は問う。
「長谷川さんの交渉とやらの内容が分かりかけてきたわ。真理子ちゃんと被害者たちの一部を交換するだけでなく……」
『天宮君の復讐とやらの機会を与えよう。会ってやると言ってるんだ』
動悸が激しくなった。自分は今、明らかに興奮している。
恋人の仇なのに、憎むべき相手なのに、何故か天宮は笑っていた。
電話機に近づき、低い声で宣言する。
「望むところだ」
『ほぅ、威勢がいいな』
どうやら相手も笑っている様だ。
真理子と人体。そしてお互いがお互いを殺してたがっている。利害は一致した。
「それで長谷川さん、私の質問の回答をまだもらっていないわよ」
『質問?』
「私たちがセナちゃんのダイイングメッセージを見つけた際、タイミング良く逃げ帰った理由よ。必ず自分が同行すると言っていたのに、あまりに不自然な行動よねぇ」
『…………』
長い沈黙が訪れた。
里緒には悪いが、天宮は創平のメッセージを見た時点でなんとなく気づいていた。長谷川は呪家。つまり何らかの能力を使って、危険を察知したのだ。だからそれ以上推理する意味はない。今まで出会ってきた呪家の人たちを見ても、呪われた部位だけで能力を把握するのは不可能なのだから。
里緒も解っているはず。これ以上、長谷川から何を引き出そうというのか。
「ちなみに長谷川さんの旧姓が左頭っていう呪家だってことは、もう知ってるわよ」
『なんだ、そうなのか。ふふ……』
自嘲気味な笑いが漏れた。何が面白いのか、天宮の中で不満が増した。
また沈黙。通話を切る様子はない。
『そんなに気になるなら教えてやろう。私は他人の無意識に侵入し、その人間をある程度操ることができる。……とでも言えばいいのかな?』
「なっ――」
天宮は絶句した。
他人を操れるなどという漫画みたいな能力に驚いたのももちろんだが、長谷川が自らの能力を躊躇いなく打ち明けたことに動揺を隠せなかった。里緒や創平のように商売にするのならともかく、自ら暴露するメリットが分からない。
コイツは一体、何を考えているのだ?
「ふーん。じゃあその能力を使って、真理子ちゃんに鍵を開けさせたわけか」
『それだけじゃない。今までの事件、目撃者がまったくいないことは君も知っているだろ? 私は殺人をする際、周囲の人間すべてを操って、現場を見せないようにしていたのだよ。遠くのビルから双眼鏡を覗くでもしない限り、私は透明人間のように振る舞えるってわけだ』
「そんなバカな!」
いくらなんでも万能すぎる能力に、天宮は長谷川の自白は嘘だと疑った。
本当に周囲の人間を操れるかどうかはともかく、誰一人として操られたことに気付かないなんてことがあるのだろうか。
『だから無意識下なのだよ。私が行ったのは、無意識的に殺害現場を見ないようにする、という操作だけだ。何か強い目的があって……例えば未来予知ができる人間がいたとして、あの日あの時間あの場所で殺人が起こることを知っている人間には、私の能力は通じない』
「ちょっと待って。それは慌てて逃げ帰った理由にはならないわ」
『あれは偶然のたまたま、私の直感が働いただけだ。君たちをうまく操れないかと脳を同期させていたのだが、天宮君の感情が突然爆発したものでね。しかも全速力で店へ帰ってくる。だから念のため身を隠しただけだ。今は本当によかったと思ってるよ』
「脳の同期、ねぇ……」
受話器には届かない小さな声で、里緒が呟いた。
『これで満足かね、霧咲君』
「ええ。有用な情報をありがとうございました」
殺人犯にお礼を言う必要なんかないと、天宮は里緒を睨みつけた。
「それで長谷川さん。具体的に私たちはどうすればいいのかしら?」
『それについては、また後で連絡する。おそらく天宮君に呪家の部位を持って一人で指定した場所まで来てもらうことになるだろうが、こちらも準備が必要だ。少しばかり時間が欲しい』「えぇ、了解しましたわ。その間、私たちは店の中で待機しておいた方がいいかしら?」
『そうだ。もし一歩でも店を出れば、王子君を殺す。どのみち、君たちは警察に通報することもできんのだ。そうだろ? 天宮君』
「もちろんだ。警察に通報するわけはない。お前は俺がこの手で……必ず殺す」
『その言葉、信用してるよ』
と言って、通話は強引に途切れてしまった。
湧き上がる怒りを抑えるため、とりあえずなんでもいいから叩きつけたい衝動に駆られていた天宮だったが、手にしていた受話器は里緒に奪われてしまった。電話機に置く際、半眼でこちらを睨む里緒の顔は本当に恐かった。
「ある程度は向こうの要求に従っておいた方がいいわよ。長谷川さんは人を殺すのに躊躇いがなさそうだし、なにより向こうが真理子ちゃんを失っても取引は成立する。天宮君が長谷川さんを殺したがっている内はね」
「今から長谷川のマンションに行くのは無理だよな?」
「無理。長谷川さんには外にいる天宮君の行動まで筒抜けだった。それに人を操れる範囲も分からない。真理子ちゃんを助けたいのなら、大人しくしていなさい」
里緒の意見には同意だったが、長谷川の能力については未だ半信半疑だった。
「それじゃあ対策でも立てましょうか。真理子ちゃんを助けるため、そして天宮君の復讐を成就させるためにね」
たった今まで連続殺人犯と会話をしていたというのに、里緒の口調はあまりにも平常通りだった。その当たり前に振る舞える精神力が、天宮にとってはさっきとは別の意味で恐ろしかった。




