第4章 再会
また相当長く歩いた。セナの現場への二倍の距離は進んだが、まだ到着しないらしい。住所を聞いてもいまいちピンとこなかったものの、天宮も知っている場所だと里緒が言う。ならば質問は無用だと考え、昼食を食べてきて本当に正解だったと、意味のないことを思った。
「そういえば、長谷川の家族は?」
「独身よ。そして一人暮らし。一戸建てではなくてマンション。セキュリティの観点からいっても、自宅で保管している可能性が高いわねぇ」
よく知っているなと思ったが、天宮と出会う前からも知り合いのようだったし、別に不思議なことではなかった。
そこでようやく天宮は思い至った。
長谷川が被害者の人体を保存しているのなら、そこにセナの右手もあるはずだ。長らく目にしていなかった恋人の一部に出会えると気づき、天宮の期待は一気に高まった。
「着いたわ」
下を向いて歩いていた天宮は、里緒の声を聞いて顔を上げる。
確かにここは、一度来たことのある場所だった。
「おい。ここって……」
「えぇ、第一の被害者が住んでいたマンションよ」
先日、最初の残留思念を収集しに来た際に、王子兄妹と出会った場所でもある。
天宮は遺体があったであろうゴミ捨て場に視線を向けた。
夢遊病のように出歩いていた被害者を、犯人――長谷川は後ろから、もしくは前からワイヤーのような細い糸を首に巻きつけて絞殺した。そして絶命を確認後、両耳を削ぎ落とし、この場を立ち去った。
何故殺したのか。何故両耳を奪っていったのか。目撃されることを恐れていなかったのか。
現場を見ただけでは、何一つ分からなかった。
「余計な詮索は意味のないことよ、天宮君。理由なんて直接犯人に訊いた方が早いわ」
「警察みたいなことを言うんだな」
「私は正論を言ったまでよ」
確かにその通りだった。
しかしここで問題が発生する。今さっき里緒も言った通り、こういう分譲型マンションのセキュリティは堅固だ。まさか住人でもない人間がエントランスに侵入しただけで通報されるわけはないと思うが、その点は考えているのだろうか。
「どうやって入るんだ? 知り合いでも住んでるのか?」
「いいえ。多少強引な手を使ってもいいけど、後で騒ぎになるのはいやだものねぇ。案外、こういうのは堂々としていれば怪しまれないものよぉ」
と言って、道の対面からやってきた、このマンションの住人であろう主婦に焦点を絞った。里緒が動く。いわゆる共連れでもするのかと思うも、それしか方法がないのも事実。黙ったまま、天宮は里緒の背中についていった。
しかし里緒は、主婦よりも先にエントランスへ入る。そして各住居者を呼び出すための受話器を取り、部屋番号を押した……ような仕草をした。
「あ、早川さん? お久しぶりです、霧咲です。先日お話ししたように、弟二人もお連れしてきましたので……えぇ、そうですか。では扉を……あ、今開けていただきましたわ」
演技をする里緒の隣で、主婦がカードキーを使って自動ドアを開けた。里緒は彼女に向かって、笑顔で会釈する。主婦の方もまた軽く頭を下げた。
そうして三人は、身を滑り込ませるようにマンション内へと侵入した。
「本当に堂々としていれば疑われないものなんだな。あの人、疑問にすら思ってないような顔してたぞ」
エレベータの中で天宮が感想を漏らした。
銀髪喪服の女が自宅前にいたら、普通は警戒してしまうものだが。
「天宮君。『疑う』っていうのは、一種の感情みたいなものよ」
つまり切り取ったってわけか。あまりの大胆さに、天宮も呆れてしまった。
エレベータが五階に到着する。『長谷川』の表札は一つしかなかった。
「さすがにここは強引な手段に頼るしかないわね。怜生、やっちゃいなさい」
すかさず怜生がカメラを構える。狙う場所はノブのやや上。
扉とほぼ接触している位置からシャッターを押した。ノブの上には、きれいな長方形の穴ができていた。里緒はその中へ手を入れ、内鍵を回す。
「あらぁ、意外と良い部屋に住んでるのねぇ。警察って儲かるのかしら?」
それは職業というよりも、長谷川の年齢のせいだろうと天宮は思った。それに独身という身の上からしても、趣味や生活費により多くのお金を当てているのかもしれない。……いや、ざっと部屋の中を見回しただけでは、長谷川に特別な趣味があるとは思えなかった。
リビングには大型テレビにテーブルにソファに観葉植物。どの一般家庭にもある、生活必需品しか置いていない。申し訳程度に佇む本棚の中には、法律関連の物や資格取得の勉強用の参考書しかなかった。
寝室はまだ見ていないが、これでは資格を取ることが趣味か、高価な家具を使って生活することが生きがいなのかとしか判断できなかった。
「ずいぶんと物を探しやすそうな部屋ね。ゴミ屋敷じゃなくてよかったわ」
確かに男の一人暮らし、しかも中年男性にしては片付きすぎているような気がした。綺麗好きか、もしくは神経質なのかもしれない。
「それでは人体の捜索を始めましょうか。怜生は寝室。私はキッチン。天宮君はこのリビングでいいかしら?」
「いや、俺がキッチンを探したい」
「あらぁ、どうしてかしら?」
「…………」
おおよその見当がついているからだ。眼球や心臓などの臓器を保存する場所など、あそこしかない。
しかしもし外れていたら恥ずかしいため、天宮は何も言わなかった。
「ま、いいわ。じゃあ始めようかしら」
里緒の合図で、天宮はキッチンへと向かう。
迷わず冷蔵庫に手を掛けようとして……その傍にある物体に注意が逸れた。
「里緒!」
すかさず隣の部屋の二人を呼びつける。
その物体を手にした天宮の顔から血の気が引いていった。
「なにそれ。人間の脚?」
「本物か!?」
死体の一部を発見して慄いている天宮とは対照的に、おくびもなく受け取った里緒は、その左脚を見分し始めた。
「本物ね。もしくは本物並みに精巧に作られた人形って可能性もあるけれど、そんな手間のかかる物を造る理由が分からないわ」
「ちょっと待てよ。だってこれ、ここにあったんだぞ」
壁と食器棚でできた角に、まるでモップのように無造作に立てかけてあったのだ。
天宮も、二人目の被害者の左脚が奪われたことは知っている。しかしそれはすでに一ヶ月以上も前の話だ。人体から切り離された脚が、何の処置も加えずにありのままの姿を保てるなど……常識では考えられない。
今にも一人でに歩きそうな左脚を観察しながら、里緒が嬉しそうに言った。
「あらぁ、噂は本当だったのね」
「噂?」
「呪家の呪われた部位は腐らない、って噂よ。消滅させるには焼くしかないの。呪家の人間だって土葬なんてされないから、不確かな噂だったけどね。実物を見せられては信じるしかないわぁ」
突拍子もない事実を前に、驚きのあまり天宮は息を呑んだ。
しかしそれは希望でもある。こうして被害者の左脚が発見され、しかも腐っていない。つまりセナの右手も、そのままの姿で保管されているのではいだろうか。
「で、天宮君。他の部位は見つかったの?」
「いや。でも、たぶん……」
おそらく冷蔵庫の中だ。腐らないと聞いた後では、保管場所などどこでもよいのかもしれないが、根拠のない確信が天宮の中にあった。
一人暮らしには大きすぎる冷蔵庫の取っ手を持ち、開ける。
ドレッシングなどの調味料や牛乳などの飲み物に交じって……それらは保管されていた。
「セナ……」
まるで助けを求めるかのように、人間の右手首が冷蔵庫の奥から差し伸べていた。恐る恐る指先に触れてみる。冷たい。でも分かった。この右手がセナの物であることに、天宮は直感で確信していた。
学校から帰る時につないだ手。
登校中に大きく振ってくれたあの手。
天宮のために絵を描いてくれたあの右手。
触れた瞬間、セナが生きていた頃の思い出がすべて蘇ってきた。
思わず、天宮は泣いてしまった。セナの右手を胸に抱え、膝をついて涙を流した。
天宮のぬくもりでやがて体温を取り戻した右手は、まるで生きているようだった。腐らないとは、そういうことなのだろう。脈はないが、天宮との再会を喜ぶかのように、セナの右手は熱を上げていった。
「心臓と耳と眼球はさすがにビンに入れてあるわね。これ、ホルマリンみたいな薬品じゃなさそうだし……ただの水かしら?」
天宮に気を遣っているのか、泣いていることについては何も言及はしてこなかった。
頬に伝わる涙を拭うこともなく、天宮も冷蔵庫の中を見上げる。適度の大きさのビンが三つ並び、それぞれ一つずつに人間の臓器が入っていた。目を背けたくはあったが、被害者のご冥福を祈るように、決して逃げたりはしなかった。
「腐らないからなんでもよかったんだろ。でも……」
これで確定した。長谷川が連続殺人犯だ。
耳、左脚、心臓、右手、眼球と、殺された人間の奪われた部位が全部そろっているのだ。たとえこれらすべてが作り物だったとしても、事情聴取は必須である。当然ながら、天宮はこの事実を警察に通報したりはしないが。
天宮はセナの右手をじっと見つめる。
白く美しい手だ。できれば傷つけたくはないのだが……心の中でセナへ深く謝罪し、覚悟を決めた。
「なぁ、里緒。この家に針と糸がないか、探してきてくれないか?」
「ッ!?」
一言で、里緒も天宮が何をしようとしているか理解したようだ。
驚きのあまり、目を大きく見開いたまま問い返してきた。
「本気で言ってるの?」
「本気だ」
何が起ころうと、この右手は自分が死ぬまで保管しておくつもりだった。
だからといって部屋に飾っておくわけにもいかないし、引き出しの奥深くへしまっておくのもかわいそうだ。なら、やるべきことは一つしかない。
「怜生さんは、長谷川が戻ってこないか見張っていてください」
無言のまま頷いた怜生が、玄関の方へ向かっていった。
入れ違いで、裁縫用具を見つけた里緒が戻ってくる。
「一式そろってるみたいねぇ。長谷川さんは自分で裁縫するくらい几帳面だったのかしら。で……」
裁縫道具を床に置いた里緒が、目を細めて凄んだ。
「本当にやるつもりなの? とてつもなく痛いと思うわよ」
「かまわない。どんなに痛くても……セナと一緒になりたいんだ」
呆れて物も言えないとばかりに、里緒が深い溜め息を漏らした。
天宮は床に置かれた裁縫道具を自分の方へと引き寄せる。が、その手は里緒によって制止させられた。
「何をやっているの? まさか自分でやるつもり?」
「そのつもりだけど?」
「左手一本で? どう考えても無理だわ」
そんなことは理解している。けどどんなに時間が掛かろうとも、諦めるつもりはなかった。
「どうして私を頼らないのかしら?」
「人の手首を縫い付けるんだぞ? 医者でもない相手に、そんなこと頼めるわけないだろ」
「バカね。……貸しなさい」
またも大きく溜め息を吐きながら、里緒は裁縫用具を開けた。しかし今度は天宮の蛮行に呆れた溜め息ではなく、弟のやんちゃを見守る姉のような優しさがあった。
「どうしても自分でやるって強情を言うのならやめるけど?」
「いや……ありがとう」
照れくさそうに顔を背ける天宮に対し、里緒は笑顔で返した。
***
「とりあえず、一応はこれで終わったわ。外れそうにない?」
額に玉のような汗を浮かべていた天宮は、瞼を開けた。痛みのあまり、ついつい全身に力が入ってしまっていたのだ。縫合された右手首を見て、彼はほんの少しだけ微笑んだ。
「あぁ、大丈夫そうだ。ありがとう」
当然のことながら右手は天宮の意志では動かないし、縫い付けられた糸も露出していて不細工だと思う。しかし固定はしっかりとされていた。多少手首を振っても、解れそうにはなかった。
「里緒は裁縫も上手いな。想像していたほど痛みもなかったし」
「人間の手首を縫うのに、裁縫の能力は必要なのかしら? それに少しだけ麻酔をさせてもらったからねぇ」
言いながら、里緒は子供のように無邪気に指でピースを作ってみせた。
なるほど、感情を切り取られたのか。
「だったら痛みを全部切り取ってくれてもよかったんじゃないのか?」
「痛みそのものは感情じゃないのよ。正確には痛いと感じるための『不安』や『恐怖』を切り取っただけ。ま、気休め程度の麻酔にしかならなかったと思うわ」
それでも、こちらを気遣ってくれる里緒の無言の優しさに、天宮は心の中で感謝した。
「で、」
と、裁縫用具をしまって立ち上がった里緒が、仕切り直しのように言った。
「天宮君はこれからどうするつもりなのかしら?」
「ここで奴を待つ」
覚悟は最初から決まっていた。
いずれ長谷川は帰ってくる。天宮たちが家へ侵入していることを、奴は知らないはずだ。ならばこれは好機。奴の不意を突けるし、包丁などの武器もそこにある。
しかし意外にも、里緒は賛成してはくれなかった。
「そう。でも私はやめておいた方がいいと思うわ」
「どうしてそう思う?」
「まず最初に、貴方は部屋に隠れて帰ってきた長谷川さんを襲おうと考えてる。けどこれは前提から間違ってるわ。だって私たちは、玄関の扉に大きな穴を空けてしまったんだもの」
「あ……」
忘れていた。家へ侵入するために、怜生のカメラで扉を破壊していたんだった。
それを見た長谷川はどう思う? 賊の侵入を疑い、警戒心を最大にまで高めるか、空き巣があったと警察に通報するか……。
「いや、通報は無いな。自宅に人間の一部が保管されているのを発見されたら、目も当てられない」
「そうね。でも相手が無警戒のところを襲えるというメリットは無くなる」
そうかもしれない。けど、ようやく殺人犯と一対一で対面でき、殺せるチャンスがあるのだ。これを逃す手はない。
「本当に勝てると思ってる? 貴方の右手は動かないのよ」
「…………」
言い返せなかったのは、慎吾のせいだ。天宮は一度、竹刀を持っていたにもかかわらず負けてしまった。今朝のことなのに、すごく遠い過去のように感じられた。
ただ今回の相手は中年だ。体力では勝っている。
でも警察だ。何らかの特殊な訓練を受けているんじゃないか?
二つの相反した意見が混じり合い、答えを出せずにいた。
「どういう答えを出すにせよ、私は貴方の意見を尊重するわ。けど私は帰る」
「お、おい」
「なに今さら弱気になってるのよ。どのみち、復讐は貴方一人で達成させないと意味がないでしょ?」
それもそうだ。いつの間にか、無意識のうちに何でもかんでも里緒に頼ってしまっていたようだ。
自らを戒めるために、天宮は左手で自分の頬を殴った。
「分かった。俺はここに残る」
「そう。じゃあ怜生を置いていくわね」
「???」
意味が分からなかった。自分は帰るのに、怜生は残していくのか。
もしかして里緒は、天宮のことを心配していたわけではなく、ただ自分が帰りたかっただけなんじゃ?
「不服そうな顔してるわねぇ。私の意見はこうよ。ここにいても意味はない」
「どういう意味だ?」
「そのまんまよ。長谷川さんは帰ってこない可能性がある」
「…………」
夜勤なのか、それとも出張にでも行っているのか。
訝しげな顔をして無言で説明を求めても、里緒は何故自分がそう思っているかは言わなかった。駄々っ子みたいに、ただ帰る帰ると主張するだけだ。
「じゃあね。無意味な行為と感じたのなら、いつでも帰ってらっしゃいな」
そう言って、怜生に天宮のお守を命じてから、さっさと帰ってしまった。
里緒のことを頼りにしていたのは確かだが、よくしゃべる女が消えて静かになったことで、ちょっとだけ清々した。
天宮は、憮然としたまま姉の背中を見送る怜生を見る。
「別に怜生さんも帰っていいんですよ。俺一人の復讐ですから」
「無理だ。姉さんの命令に背いたら、後でなにされるか分かったもんじゃない」
確かに。と思い、怜生の不憫な境遇に同情した。
***
どれくらいの間、待っていただろう。西窓から差していた夕日は、いつの間にか陽は沈んでいた。冬なので日は短い。まだあまり遅い時間ではないのだろうが、電灯を点けるわけにもいかず、ただただ秒針が時を刻む音を聞いているしかなかった。
玄関から見えない位置に姿を潜め、天宮と怜生は長谷川の帰りを待つ。
眠気と空腹がひどかった。長く緊張が続いたせいだ。しかし意識を途絶えさせるわけのもいかず、また窃盗犯になるつもりもない。というか、人体の一部と一緒に保管してあった冷蔵庫の中身など、絶対に口にしたくはなかった。
やがて下界から届く音なども少なくなり、暗闇と無音が緊張した肌を遠慮なく刺した。
と、それまで一言も喋らなかった怜生が、突然口を開いた。
「天宮宗太。帰ろう」
「…………?」
囁く程度の声だったが、あまりの低音に少しだけビックリしてしまった。
天宮は側にいる怜生に顔を向けて、唇を尖らす。
「怜生さん一人で帰ってください。俺はまだここで待ちます」
「この行為に意味はない。姉さんは、気が済むまで待ちぼうけをくらったお前を連れ戻すために、俺を置いていった」
「確かに他の方法はあるかもしれません。でも意味がないとは思えない。どうして長谷川は帰ってこないと思うんですか?」
「知らん。姉さんがそう言ったからだ。何か確信めいた理由があるんだろう」
この人の姉に対する信頼感は何なんだ。と思いながら、天宮は軽蔑の視線を送った。
暗闇だから気づいていないのか、それとも単に何も感じていないだけなのか、天宮の視線を無視した怜生は、また別の面から説得しようとする。
「王子真理子と話はしたか?」
「目が見えなくなってからって意味なら、していませんけど……」
そういえば、真理子が何か言おうとしていたのを思い出した。
「しかし向こうはお前に話しかけようとはしてたよな? 声が出なかっただけで」
「そうですね」
「俺と二人きりの時は、まったくそんな素振りは見せなかった」
「嫌われてるんじゃないですか?」
「そうだ」
絶対の確信があるように、怜生は頷いた。
「俺だけじゃなくて、あの娘はほとんどの人間を嫌っているように見える。あの歳であそこまで捻くれたのは、おそらく過去に何かあったんだろう。俺は知らんがな。たぶん心を許せる相手というのは、ごく少数だ」
「その一人が俺、ですか?」
怜生はまたも力強く頷いた。
でも何故だ? 天宮と真理子が出会ったのは、ほんの数日前のことだ。しかもその時は敵同士だった。王子探偵事務所に送っていく途中、少しだけ会話をしたとはいえ、特に慕われる理由などない。
「王子真理子は、兄の王子創平という『壁』に全体重を預けて生きてきたのだろう。しかし突然、その『壁』は消えた。待っているのは転倒だ。いや、転落かな。倒れる方向には、大きな穴が空いていた」
落ちたら二度と這い上がってこれない、深い穴だ。と、怜生は言った。
天宮は解釈する。その穴は、つまり――死。
「だが彼女は踏ん張った。落ちないように、足に力を入れた。しかしそれまでだ。穴に落ちないにせよ、すでに自分の力では元の立ち位置には戻れないほど傾いてしまっている。それで体勢を立て直すために掴んだのが、お前の手だった。……というわけだ」
「……どうして俺を?」
「お前に兄の影を見出したんだろう。それ以外にはあまり考えられん」
俺が王子創平に似ている?
深く考え込んだ天宮だったが、まったく共通点らしいものは思い当たらなかった。
「つまり何が言いたいのかというと、少しでも長く王子真理子の側にいてやれ。ってことだ。彼女はまだ垂直に立ってはいない。お前が引っ張ってやって、安全な場所まで運んでやれ」
話し終えて、怜生の言い分はちょっと卑怯だと、天宮は拗ねた。
真理子を餌にされては心が揺らぐし、結局霧咲姉弟は、長谷川が帰ってこない可能性の理由を話していないのだ。しかも待つこと自体に意味はない、とまで言う。完全に、理屈や理論の説得からはかけ離れていた。
それから一分ほど悩んだ結果、天宮は結論を出した。
「分かりました。帰りましょう」
「そうか」
「怜生さんも帰りたかったんでしょ?」
「当然だ」
潔い返事だった。
しかしタダでは帰れない。せっかく犯人を突き止めたというのに、とんずらこかれては困る。天宮はキッチンの棚から大きなゴミ袋を取り出した。
「被害者の一部はすべて持って帰ります。これは譲れません」
「いや、賛成だ。今後の取引材料にもなるだろう」
耳と心臓と眼球はビンに入っているから、そのままゴミ袋に入れた。左脚はどうするべきかと考えたが、怜生と相談した結果、袋は不透明な物でもないし、新聞紙で巻いてから同じようにゴミ袋に入れて運ぶことにした。もし帰る途中に警察と出くわしたら、運が悪かったと諦めるしかない。
長谷川の家を出て、誰ともすれ違わずにマンションを後にした。
途中、暗闇の夜道を歩きながら、隣の怜生に訊いた。
「真理子はどうして……そのまま穴に落ちることを選択しなかったんですか?」
それはつまり、死を――自殺を選ばなかったのか。という意味だ。
支えを失った真理子は、そのまま落ちてしまえば楽だったはずだ。地面に激突するのは痛いかもしれないが、流れに身を任せているだけでいいし、なにより兄と同じ場所に逝ける。
でも彼女は踏ん張った。足に力を入れ、堪え、落ちまいと頑張った。
真理子が強い人間だった。と言えば聞こえはいいが、やはり兄に背を向けたまま別の方向へ歩むのは、違和感があった。
「彼女を押し留めたのは『自覚』だろう」
「『自覚』?」
「自分が兄に依存していた『自覚』。兄を失った『自覚』。隣に兄がいない『自覚』。王子真理子は兄がいない世界で生きていくことを……受け入れた」
心臓が跳ねた。全身に血液が行き渡り、体温が上昇しているのを自覚する。
怜生の言葉は、天宮にとっては耳が痛いものだった。
真理子は兄の死を受け入れた。そして受け入れた上で、生きていくことを決意した。天宮という他人を頼りにしているとはいえ、それはとても強いことだと思う。
では自分はどうだ? セナが殺され、それを受け入れたか?
答えは否。受け入れてはいない。受け入れていないからこそ、復讐という安易な方法で、自分の気持ちにケリをつけ解決しようとしている。それどころか、復讐を果たした後の世界で生きていくことすら放棄していた。
誰かに頼ることはいい。理不尽な世界を嘆くのもかまわない。
でも天宮は、セナのいない世界で生きていくことを拒んだ、弱い人間だった。
「…………」
しかし、もう、戻れない。
天宮は前を向いたまま、言い訳さえすることなく、ただただ真っ直ぐ『理容店KIRISAKI』を目指した。
と、その時。
「?」
怜生が立ち止まった。どうやら携帯に着信があったようだ。
照明で照らされた怜生の顔が、訝しげに歪む。
「姉さんからだ」
電話口で一言二言会話をする。よく聞こえなかったが、怜生が絶句したのは分かった。
すると彼は、天宮に携帯電話を差し出した。
「緊急事態だ」
「緊急事態? どうしたんですか?」
「姉さんが説明する」
携帯を受け取った天宮の耳に、未だかつて聞いたことないほど狼狽えた里緒の声が轟いた。
『天宮君、落ち着いて聞いてちょうだい。今店に到着したんだけど……真理子ちゃんの姿がどこにもないの』




