第3章 急用
ものの数分で店に到着した。地下への階段を駆け下り、勢い任せに扉を開ける。
待合席にいたのは怜生だけだった。
「長谷川は!?」
息も切れ切れになりながら叫ぶ。
手にしていた漫画雑誌から顔を上げた怜生は、面を食らった様子で答えた。
「今さっき帰ったばかりだ。急用を思い出したとか言ってたぞ」
「急用!?」
階段の上を見上げて再び飛び出そうと思ったが、さすがに理性の方が勝った。いくら何でも当てがなさすぎるし、体力も限界に近かった。
「帰ったって、どこへ!?」
「知らん。まだ昼間だから自宅ということはないだろう。警察署じゃないか?」
警察署はマズい。自分は病院を脱走した身。署に入る前に取り押さえられかねない。
「何分前に帰った?」
「ほんの数分だな。俺からしたら、ほとんど入れ違いでお前が入ってきた。店の外で遭遇していても不思議じゃないレベルだ」
なら、まだ間に合う可能性はある!
そう希望を見出したのも一瞬で、相手は車だということを思い出した。どう考えても追いつけるわけがない。
「何があったかは知らんが、王子真理子なら無事だぞ。あの姿勢は間違いなく首を痛めるだろうがな」
そうだ。今まで真理子は五人も殺した殺人犯と対話していたことになる。最悪な可能性を想像して、天宮は背筋を凍らせた。
その時、店の奥で固定電話が鳴った。
立ち上がった怜生の背中に天宮も続く。台所では、テーブルに額を押し付けた真理子が寝息を立てていた。コール音で目を覚まさないところを見るに、相当疲れているらしい。
「はい、霧咲です。……姉さん?」
電話の相手は里緒のようだ。
怜生が天宮の方へ視線を向けると、同時に受話器も渡された。
「里緒か? 長谷川はいなかった。急用を思い出して、ついさっき帰ったらしい」
『あっそ。その前に、天宮君は私に謝罪してもいいんじゃないかしら?』
通話口からは、天宮以上に息を切らした里緒の恨み言が漏れてきた。
おそらく天宮を追って少しだけ走ってみたものの、体力が続かなかったのだろう。道半ばで断念した里緒は、頃合いを見計らって店に電話したのだ。
置いてけぼりにしたことについて、天宮は軽く謝った。
『急用ね。すごくタイミングが良かったわ』
「良いわけないだろ。せっかくのチャンスを逃した」
『あのね、天宮君。貴方は私の店を血の海に変えるつもりなのかしら?』
大きく落胆したのが、ありありと伝わってきた。
確かに、この場で長谷川を殺していれば、しばらく営業できなくなっていただろう。さらには殺人事件が起きた店として、評判も落としていたはず。ただ自分に協力している以上、それくらいのことは想定済みと思っていたため、天宮も謝罪するつもりはなかった。
『天宮君。いい? 冷静になって聞いてちょうだい。私たちがセナちゃんのダイイングメッセージを見たことは、長谷川さんはまだ知らない。だから焦る必要はないの。それよりどこでどうやって殺すか、周到に準備する必要があるわ。貴方には右手がないし、他の人に邪魔されない環境も作らなければならない。オッケー?』
「…………」
何もかもが正論だったため、ぐうの音も出なかった。
煮え滾る復讐心はそのままに、はやる気持ちを無理やり抑える。
「じゃあどうすればいい?」
『少しは自分で考えてほしいものね。ま、いいわ。今から帰るから、少し待っていなさい。これから取るべき行動を説明するわ』
まるで天宮の取り扱いマニュアルでも持っているかのようなセリフを言い残して、電話は切れてしまった。
しばらくして里緒が戻ってきた。行きよりも、ずいぶんと時間が掛かっている。しかも悠々と自分のペースを崩さないものだから、気が急いている天宮は苛立ちを覚えた。責めるような横目で里緒を睨む。
しかし彼女はまったく怯む様子もなく、不遜な態度で自白した。
「あら、私は貴方が冷静になれる時間を与えてあげたのよ。ちょっと休憩するくらい許してほしいものだわ」
ベンチに座って一休み程度なら文句は言わないが、喫茶店に入っていたくらいの時間は経過しているのだ。あまりの身勝手さに怒りを通し越して呆れてしまう。
「なぁに? 真理子ちゃん、寝ちゃってるじゃないの。早く寝室へ運んでやりなさいな。気の利かない男どもめ」
「俺が?」
「貴方以外に誰がいるのよ」
天宮はチラッと怜生を一瞥した。どうやら矛先を向けられたくないらしく、彼は知らん顔で天井を見上げていた。
仕方なく、椅子で寝ている真理子を抱き起す。一昨日おんぶした時よりも、だいぶ軽い気がした。ゴスロリ衣装の重量がなくなったせいもあるだろうが、それ以上にちゃんと食事を摂っているのか心配になってしまった。
真理子を布団に寝かせて寝室を出ると、里緒がしたり顔で笑っていた。
「女の子の感触はどうだった? 柔らかかったでしょ? 惚れちゃってもいいのよ。もう保護者もいないんだし」
「なにバカなこと言ってんだ。まだ十歳だぞ」
「やだ怖い。せっかく緊張をほぐしてあげようと思ったのに。それに女の子なんて、ちょっと時間が経つだけで、すぐ大人の女性に成長しちゃうんだから」
生憎、今は冗談に付き合っている余裕はなかった。
里緒の話を聞くため、台所の席に着く。怜生が買ってきたコンビニ弁当を食べながら、彼女はこれからの経緯を説明した。
「まず長谷川さんが犯人であるという証拠を見つけなければならないわ」
「証拠? 証拠なんて必要ない。セナが遺してくれたメッセージだけで十分だ」
「あれだって不確定なものよ。私と天宮君は長谷川さんだと認識したけれど、他の人には違う人物の顔に見えるかもしれない。もしかしたら犯人ではなくて、別の重要人物なのかもしれない。警察が逮捕状を請求できるレベルの確実な証拠じゃないわ」
「別に通報する気はないんだが」
「そうじゃなくて。貴方、殺せるのは一人だけってことを理解してる?」
もちろん理解しているつもりだ。
天宮には今回の連続殺人犯みたいに、殺人の証拠を隠ぺいできる自信はない。つまり一人殺せば確実に警察のお世話になるだろう。その時点で復讐劇は終了だ。
だから里緒は言っているのだ。もし犯人を間違えれば復讐の機会は二度と訪れない、と。
「確実な証拠を見つけるまで手を出さない方が無難だわ。相手は腐っても警察ですもの」
「証拠……あるのか? 五人殺した今でも、まだ警察は犯人を特定できてないんだぞ?」
「私に良い考えがある」
その辺りで天宮と怜生は弁当を平らげた。里緒はまだ半分くらい残っていたが、もう満足したのか、蓋を閉じる。
「今回の殺人犯は『人体収集家』なんて命名されるくらいの変態よ。それはつまり――?」
そこで天宮も気づいた。
もしかしたら被害者から切り取った身体の一部が、どこかに保管されているかもしれない。
「さて、食べ終わったなら出掛けましょう。長谷川さんの家へ」
そう言うやいなや、怜生も立ち上がった。
「俺も行く」
「そうね。あんたの能力が必要になるかもしれないわ」
その声はとても冷ややかだった。
しかし天宮の目と耳には、もう姉弟のやり取りは入っていない。憎むべき相手の顔を思い浮かべながら、割り箸を半分にへし折ったのだった。




