第3章 急用
ものの数分で店に到着した。地下への階段を駆け下り、勢いよく扉を開ける。
待合席にいたのは、怜生だけだった。
「長谷川は!?」
切れ切れになった息で叫ぶ。
手にしていたマンガ雑誌から顔を上げた怜生は、面を食らった様子だった。いつも無表情の彼にしては、レアな反応だ。
「今さっき帰った。急用を思い出したとか言ってたぞ」
「急用!?」
地上を見上げ、急いで追いかけようしたが、理性の方が勝った。当てもなく走り回っても意味がない。正直、体力も限界に近かった。
「帰ったって、どこへ!?」
「知らん。昼過ぎたばかりだから、自宅ということはないだろう。警察署じゃないか?」
警察署に行かれてはマズイ。対面するどころか、署に入れるかどうかも怪しくなる。
「何分前に帰った?」
「五分くらいだ。慌てた様子だった。緊急の連絡でも入ったんじゃないのか?」
五分前なら、まだ追いつける可能性はある!
そう考えたのも一瞬、相手は車であることを思い出して絶望を覚えた。どう考えても、追いつくのは不可能だった。
「何があったかは知らんが、王子真理子なら無事だぞ。首が痛くなりそうな寝方ではあるがな」
そういえばそうだ。真理子は今まで、五人も殺した連続殺人犯と二人きりで対話していたことになる。最悪な場合を想定してしまった天宮は、背筋を凍らせた。
と、店の奥で電話が鳴った。
怜生が立つ。天宮もその背中に続いた。
台所では、真理子が椅子に座り額をテーブルに押し付けた状態で寝息を立てていた。コール音で目を覚まさないところをみると、長谷川との会話で相当疲れたようだ。
「はい、霧咲です。……姉さん?」
電話の相手は里緒だったようだ。
チラッと怜生が視線をよこすと同時に、受話器も渡された。
「里緒か? 長谷川はいなかった。急用を思い出して、ついさっき帰ったらしい」
『あっそ。その前に、天宮君は私に謝罪してもいいんじゃないかしら?』
電話の相手は天宮以上に息を切らしていた。
おそらく里緒は天宮の後を少しだけ追いかけたのだが、体力が持たなかったらしい。道半ばにして、天宮が到着する頃合いを見計らって電話をしたのだろう。置いてきぼりにしたことについてだけ、天宮は軽く謝った。
『急用ね。すごくタイミングが良かったわ』
「いいわけないだろ。せっかくのチャンスを逃した」
『あのね、天宮君。私の店を血の海に変える気かしら?』
呆れたように溜め息を吐いたのが分かった。
確かに、この場で長谷川を殺していれば、里緒の店は営業できなくなっていただろう。さらに殺人事件が起きた店として、評判も落とすはずだ。しかし自分に協力している手前、そうなることを覚悟している上でと思っていたため、天宮は心の中だけで謝罪しておいた。
『天宮君。いい? 冷静になって聞いてちょうだい。私たちが長谷川さんの犯行を知ったことを、向こうはまだ気づいていない。だから焦る必要はないの。それよりも、どこでどうやって殺すか周到に準備する必要があるわ。貴方には右手がないし、他の人間に邪魔されない環境を作らなければならない。オッケー?』
「…………」
何もかもが正論だったため、ぐうの音も出なかった。
胸に秘める復讐心はそのままに、はやる気持ちだけを落ち着かせた。
「じゃあどうすればいい?」
『少しは自分で考えてほしいものね。ま、いいわ。今から帰るから、少し待っていなさい。これから取るべき行動を説明するわ』
まるで天宮の行動順序が書かれたマニュアルでも持っているようなセリフを残して、電話は切れてしまった。
***
しばらくして、里緒が店に戻ってきた。行きの時間よりも随分と遅い。しかも悠々と自分のペースで帰ってくるものだから、気が急いている天宮に苛立ちを与えた。責めるような眼で、無言で睨む。
視線の意図を読み取った里緒が、不遜な態度で言った。
「あら、私は貴方が冷静になれる時間を与えてあげたのよ。決して途中で水分補給していたわけではないわ」
自販機で買うくらいなら文句は言わないが、もしかしたらこの女は喫茶店にでも入ったのかもしれない。里緒のマイペースさには、怒りを通り越して呆れてしまう。
「なに? 真理子ちゃん、寝ちゃってるじゃないの。早く寝室へ運んでやりなさいな。気の利かない男どもめ」
「俺が?」
「貴方以外に誰がいるのよ」
天宮はチラリと怜生を一瞥した。彼は転嫁されるのを分かっていたようで、最初からそっぽを向いていた。
仕方なく、椅子で寝ている真理子を抱きかかえ、寝室へ運んでいく。数日前に背負った時よりも、だいぶ軽い。衣装の重量のせいもあるかもしれないが、それ以上にしっかりと食べているのか、天宮はちょっと心配になってしまった。
布団に寝かせ、寝室を出る。と、里緒が奇妙な笑みを見せていた。
「女の子の感触はどうだった? 柔らかかったでしょ? 惚れちゃってもいいのよ。もう保護者もいないし」
「なにバカなこと言ってんだ。まだ十歳だぞ」
「やだ怖い。せっかく緊張をほぐしてあげようとした冗談だったのに。それに女の子なんて、ちょっと時間が立てばすぐに大人の女性になっちゃうわよぉ」
生憎、今の天宮には不謹慎な冗談はお断りだった。
里緒の話を聞くため、席に着く。怜生が買ってきたコンビニ弁当を食べながら、彼女はこれからの経緯を説明した。
「まず長谷川さんが犯人であるという証拠を見つけなければならないわ」
「証拠? 証拠なんていらない。セナが遺してくれたメッセージがすべてだ」
「あれだって不確定なものよ。私と貴方は長谷川さんだと共通の認識をしたけれど、他の人が見たら違う人物の顔かもしれない。もしかしたら犯人ではなくて、もっと別の場所で見た人の顔かもしれない。警察が逮捕状を得るための確実な証拠じゃないわ」
「別に通報する気はないんだが」
「そうじゃなくて。貴方……殺せるのは一人だけってことを理解してる?」
当然、理解しているつもりだ。
天宮には、今回の連続殺人犯みたいに証拠を残さない自信はなかった。それどころか、復讐が終われば死ぬことすら構わないと思っている。どのみち、人を一人殺してしまえば警察のお世話になる。その時点で復讐劇は終了だ。
「確実な証拠を見つけるまでは、手を出さない方が無難だわ。相手は腐っても警察なんだもの」
「証拠……あるのか? 五人も殺せるくらい時間が経っても、警察も決定的な証拠を発見してないんだぞ」
「私にいい考えがある」
そのあたりで、天宮と怜生は弁当を平らげた。里緒のはまだ半分少々だったが、それだけで足りてしまったのか、蓋を閉じた。
「今回の殺人犯は『人体収集家』なんて命名されるくらいの変態よ。それはつまり――?」
そこで天宮も気づいた。
もしかしたら――被害者から切り取った人体の一部が、どこかに保管されているかもしれない。
「さぁて、食べ終わったのなら、さっさと出かけましょう。長谷川さんの家へ」
言うやいなや、怜生も立ち上がった。
「俺も行く」
「そうね。あんたの能力が必要になるかもしれないわ」
その声はとても冷ややかだった。
しかし姉弟間のことなど気にする余地もなく、善は急げと言わんばかりに天宮も立ち上がった。




