第1章 覚悟
結局、『理容店KIRISAKI』に到着したのは昼前だった。
あれからどうしたのかは、ほとんど覚えていない。見慣れた街をフラフラとした足取りで歩いていたのは記憶にあるし、自分がどんなに生気の無い顔をしていたのかも想像できる。それに学校を出てから直接店に向かったはずなのに、時間が掛かりすぎだ。それほど重い足取りだったのだろう。制服姿だったこともあり、警察や通行人に見咎められなかったことは奇跡としか言いようがなかった。
『close』
そういえばこの理容店が営業しているところを一度も見たことがないな。などとぼんやり考えながら、天宮は店の扉を開けた。
「あらぁ、天宮君。こんにちは。……って、どうしたの? すごい顔してるわよ。FXで有り金全部溶かしたりでもしたの?」
「覚悟はしたばかりだ。復讐が実るなら、金なんていらねーよ」
「ふーん。……じゃあ捨てたのは友達か何かかしら?」
これには天宮も驚いた。本当にどこかから見ていたような言い草だ。
「あら、図星? ごめんね、あんまり落ち込んでるから鎌掛けてみただけよ」
「鎌掛けられるほど具体的な表情してるつもりはなかったんだが……」
「私は他人の感情を顕著に感じ取れるから、多少はね」
なんとなく納得はいった。
店内を見回す。里緒は相変わらずの喪服姿で、待合室で雑誌を読んでいた。怜生と真理子の姿はない。二人とも、奥の部屋にいるのだろうか。
天宮の仕草を察したのだろう。里緒は雑誌を閉じて顔を上げた。
「真理子ちゃんは奥の部屋。怜生は大学へ行ってるけど、講義は午前中だけだと言っていたから、もうすぐ帰ってくるはずだわ。っていうか、帰ってこないと私が死ぬ。お腹すいたわぁ」
「あんた……料理できないのか?」
「そりゃ専業主婦に比べたら、レパートリも少ないし味も劣るわね。でも、できないわけじゃない。しないだけ。面倒くさい。だから怜生がコンビニ弁当を買ってきてくれるのを待ってるのよぉ。もちろん、四人分ね」
というか、お前が自分でコンビニ行けばいいじゃないか。という指摘は溜め息へと変換された。妙に疲れているし、こんな会話で体力を使いたくはない。これからまた、少し長い距離を歩かねばならなし。
「着替えたいから、脱衣所借りてもいいか?」
「もちろん。それにシャワーも浴びてらっしゃいな。顔とか髪の毛、砂埃が被ってて汚いわよぉ」
「あぁ、ありがとう」
遠慮はしない。構わず奥の住居スペースへ行く。
台所の椅子には、真理子が座っていた。ただ今日はゴスロリ衣装ではなく、薄手のセーターと普通のスカートといった感じだ。おそらく里緒が着せ替えたのだろう。フワフワな衣装でないと、真理子の小柄さがより一層際立った。
足音に気づいたのか、両眼に包帯を巻いた少女の顔が天宮の方へ向いた。
「こんにちは。真理子」
彼女は小さな口を開けただけだった。どうやら未だ声が出ないようだ。
私服の入った紙袋を手にしたまま、天宮はその場で立ち尽くす。そういえば風呂場の場所を知らなった。あっちは奇妙な男が住む地下室への階段で、こっちは寝室だろう。残りは限られている。
当たりをつけて前に進むと、学生服の裾が何かに引っかかった。
見れば、いつの間にか側に寄っていた真理子が、制服を掴んでいた。
「なんだ?」
「……ぁ……話し……」
紡ぎだされる細かな断片から総合すると、天宮に話したいことがあるらしい。
しかし今の状態の真理子だと、たとえ絵本の一冊分を話し終えるのにも相当の時間が必要だと思った。真理子自身、特に切羽詰まっているわけでもなさそうだ。緊急を要する話ではないだろうと、天宮は判断した。
腰を下ろし、目を真理子の高さに合わせる。
「分かった、聴く。でも、先に風呂に入ってきてもいいか? 俺、今すごく汚いんだ」
諭すように言うと、真理子は黙って二回頷いた。そしてすぐに元の座っていた場所へ戻る。やはりいつでもいい話だったのだろう。
脱衣所で学生服を脱ぎ、風呂場へ。
シャワーが良い温度に変わる間、天宮が考えていたことは一つ。
結局、犯人は未だ見当もつかないままだ。手がかりらしきものは発見したものの、まったく前進していない。里緒は地道に進めるのが捜査だと言っていたが、本当にこんなことで犯人を特定できるのだろうか。
犯人があのサイトを観てセナに狙いをつけたのは間違いない。そして書き込んだのは慎吾だ。慎吾は犯人ではない。これから殺す人間の能力を晒すなど、無意味にも等しいだろう。
とすると、犯人はパソコンを使える人物。……さすがにこれは馬鹿げた推理だと、天宮は自嘲するように鼻を鳴らした。
そういえば警察はどこまで捜査が進んでいるのか。王子創平が殺された事件は、過去四つのものと違い、室内で起きている。しかも犯行時刻も明確。真理子が事務所を出てから帰宅するまでだ。その間、犯人が事務所に入っていくところを目撃した通行人はいなかったのか? 監視カメラなんかは設置されていなかったのだろうか?
あったところで天宮が閲覧できるわけではないが、後で真理子に訊いてみよう。
ある程度考えがまとまったところで、シャワーを止めた。
脱衣所で着替えていると、遠くの方で男の声が聞こえた。騒ぎ立てているわけではなさそうだが、怒声のようにも聞こえる。普段なら気にも留めないものの、ここは地下だということを思い出し、不思議に思った。
「誰だ?」
怜生ではないだろう。大声を出している彼の姿を想像できない。
声は店の方からだ。台所に戻り、ふと横を見ると、顔色を悪くした真理子が椅子に座ったまま小刻みに震えていた。
「おい、真理子。どうした? 大丈夫か?」
下唇を噛みながら、真理子は小さく頷いた。
おそらく、店から聞こえる男の声が怖いのだろう。ただでさえ兄を失って傷心気味だし、目が見えないことが余計に恐怖を助長させているのだ。
無神経な怒声に、天宮は怒りを覚えた。
「ちょっと文句言ってくる」
店への扉を開けると、まず目に入ったのは困り顔の里緒だった。
天宮の姿を認めるやいなや、里緒は顔の前で両手を合わせる。
「ごめーん、天宮君。なんでか知らないけど、バレちゃったみたい」
「は?」
さらに奥へと視線を移す。店の入り口付近には、コンビニの袋を持ったまま呆然と突っ立っている怜生。そしてその手前で、長谷川刑事が鬼の形相で天宮を指差していた。
「天宮君! 君は自分が何をしているのか分かってるのか!」
唾をまき散らしながら、猛進してくる長谷川。
一言ガツンと言ってやろうと意気込んでいた天宮だったが、怒声の対象が自分と分かった瞬間に怯んでしまった。
「えっと……シャワーを浴びてたんですけど」
「そうじゃない! どうして病院を抜け出したりしたんだ!」
そういえばそうだった。自分が脱走犯であることを、天宮は完全に失念していた。
参ったことになった。すべてを捨てる覚悟をしたと言っても、それはあくまで天宮の中だけでのこと。里緒以外の他人が、彼の覚悟を認めてくれたわけではない。
「親御さんも心配しているぞ! 連絡も入れないで、どこをほっつき歩いていると思ったら、こんな場所で……」
「あらあら、こんな場所とは失礼ねぇ長谷川さん。これでもちゃんとした理容店ですよ。今日は休業日ですけど」
「手術したばかりの天宮君にとっては、病院以外はこんな場所だ! だいたい君も理解しているのか? どんな成り行きで彼を匿っているのかは知らんが、すべては大人である君の責任だぞ」
「責任責任って、やっぱり警察はうるさいわねぇ。ちゃんと責任を取るとして、例えば私は具体的に何をすればいいのかしら?」
呆れた口調で反論する里緒に対し、長谷川は言葉を詰まらせた。
責任とは言ってはいるものの、天宮と赤の他人である里緒と長谷川がどうこうできる問題ではない。法に従事するのが警察だが、決して法の専門家ではないのだ。天宮を匿った里緒の処遇を決めるのは、法律家の仕事である。
だからといって引き下がる長谷川ではなかった。
「とにかく、すぐ病院に帰るぞ。一緒に行こう」
「あらぁ。天宮君の意志も無視して強制的にですかぁ?」
「当たり前だ。これ以上、親御さんを心配させるわけにはいかん」
「無事を示すなら、電話一本掛ければ済むことじゃないかしら?」
「そういう問題ではないだろ! 無理して動いて傷口が開いたらどうするんだ!」
「それも……覚悟のうちです」
途中で天宮が口を挟んだ。弱気なトーンではあるが、瞳はしっかりと長谷川を見据えている。
「覚悟? ……ああ、殺人犯を殺すというアレか。それこそ馬鹿げている! 自分の息子が殺人事件に巻き込まれた挙句、人を殺したなんて聞いたら親は卒倒するぞ!」
「…………?」
なにか違和感を覚えた。
鬼の首を取ったような笑みを見せた里緒が、その違和感を解消させてくれた。
「あらあら。長谷川さんに言いましたっけ? 天宮君が殺人犯を殺したいってこと」
「亡き恋人の復讐をするんだろう? 復讐ってのは、そういう意味ではないのか?」
「えぇ、そういうことになりますかねぇ」
片眉を上げて言い返す長谷川に対し、里緒は口元を隠して上品に微笑んだ。外見はともかく、仕草は完全にどこぞの裕福なおば様だった。
「天宮君。あまり意固地になるな。君が駄々をこねればこねるほど、親が悲しむ」
「親には悪いと思っています。でも俺にはやりたいことがある。絶対にセナの仇を討ちたいんです!」
「輝かしい未来を捨ててまで達成することじゃないだろ!」
「未来なんてありません! 俺にとって、殺人犯を殺したところで人生は終わりなんです!」
「なんて馬鹿な考えを……」
いや、そもそも、セナが死んだ時点で天宮の人生は終わっていた。彼にとって、今この現世で生きていることは、余生でしかない。もしくは仇を討つだけの、ただの亡霊でもある。どちらにせよ天宮が活動する原動力は、憎しみ以外にはなにも無かった。
「殺人犯は警察がきちんと捕まえる。おそらく死刑になるだろう。それでいいじゃないか」
「よくありません。俺がこの手で仇を討たないと、気分が晴れません」
「もう何を言っても無駄ですよ、長谷川さん。天宮君の気持ちは揺るぎませんから」
そう言った里緒は、いつの間にかハサミを手にしていた。しかも刃先を長谷川に向けている。
「あまりに長い押し問答になるようでしたら、実力行使に出ますよ? 私と怜生の能力、知ってますよね?」
「――ッ!?」
見れば怜生も、構えてはいないものの手はすでにカメラに触れていた。
前と後ろ、完全に挟まれた構図となり、長谷川はうろたえる。逃げ場はない。
「霧咲君。君は……」
「私からもお願いしますよ、長谷川さん。私は彼の願いを叶えてあげたい」
「……お願いします!」
天宮もまた、里緒の隣で深々と頭を下げた。
完全に脅迫であることは理解していたが、もうこれ以外に方法は無い。警察という職業上の立場以上に、強情な性格の長谷川を折ることは、おそらくできそうにないから。
頭を掻いた長谷川は、深く溜め息を吐く。諦められない、といった表情ではあった。
「霧咲君。私が頼んだ件は、どこまで進んでいる?」
「申し訳ないけれど、あまり進んではいないわぁ。今から四番目の被害者……セナちゃんの残留思念を収集しに行くところだったの」
「そうか。ならば早く行ってきなさい」
「あらぁ、天宮君も同行させるつもりだったけどぉ?」
「構わんよ。一緒に行きなさい」
土下座でもせん勢いで下げていた頭を上げる。その顔にはどこか嬉しそうな笑みも張り付いていた。
「ただし条件がいくつかある。残留思念の収集が終わったら、必ず一度ここへ戻ってくること。今後も事件の捜査をするなら、必ず私が同行する。単独行動は許さん。あとは傷口が開いたら何が何でも病院へ行くこと。最後に……犯人は絶対に殺させはせん。許しても、一発殴るくらいだ」
「最後の条件は……呑めません」
「いいや、必ず君は従うことになる。犯人は絶対に警察が先に捕まえるからな」
なんの根拠があっての自信かは知らないが、天宮は条件を受け入れることにした。これ以上押し問答をしていても意味はない。時間の無駄だ。
「それにしても長谷川さん。その言い方だと、第四の現場まで車で送ってくれないみたいじゃない」
「私は王子君に訊きたいことがあって来たんだ。車は出さんよ」
「真理子ちゃん、今はあまり話せませんよ」
「だったらまた後日来るさ。話せるようになるまで、何度も足を運ぶつもりだ」
警察が事情聴取をするたびに真理子は口を閉ざしてしまうんじゃないかと天宮は思ったが、口には出さないことにした。
「それじゃあ天宮君、行きましょうか。……いえ、怜生も帰ってきたことだし、先にご飯にする?」
「いや……昼食はあとにしよう。さっさとセナの残留思念を集めて、昼食をとりながら次の捜査の計画を立てた方が効率がいいような気がする」
「なるほどねぇ。なかなか考えてるじゃなぁい」
褒められても別に嬉しくはなかった。
長谷川の説得を終えた天宮は、店の出入り口へと向かう。そのあとに里緒もつづいた。が、敷居を跨いだところで後ろを振り返った。
「怜生、何やっているの? 貴方も来るのよ。早くしなさい」
「俺は行かない」
「…………」
里緒は首を傾げた。訝しそうにではなく、責めるような視線を込めて。
それでも怜生は動かない。今まで姉に命令されるがままだった男が、口元を真一文字にしたまま不動を貫く。
さらに問い詰める里緒の声は、氷柱のように冷たかった。
「どうして来ないの?」
「今大学から帰ったばかりで疲れたからだ。もう歩きたくない」
「あらぁ。私は今から仕事だというのに、大学生はいいご身分ね。まぁいいわ。天宮君、さっさと行ってきましょ」
そう言い残すと、里緒は躊躇もなく扉を閉めた。
地上への階段を上りながら、怜生の態度について天宮は訊く。
「今の怜生さん、すごい意外だったな。姉には完全服従みたいに振る舞ってたのに」
「年に一回くらいあるのよぉ、ああいう反抗期が」
「っていうか、ただ留守番するつもりだったんじゃないか? 残ってるのは住人じゃない二人になるし」
「そうかもねぇ」
完全に適当に聞き流している感じだ。
笑顔ではあるけれど、何故か内心で怒りを抱いているであろう里緒の妙な態度が、天宮にはとても気になった。




