第4章 決別
朝日が昇る前にネットカフェを出た。東の空は未だ白ばんですらいない。
結局、ほとんど眠ることはできなかった。机の上に額を置いて目を閉じたり、体勢を変えて椅子に埋もれたりもしてみたが、意識を手放すまでには至らず。そうこうしているうちに、自分で定めた時間が来てしまった。
真夜中のような街を歩く。日没直後と違うのは、吐く息が白いことくらいか。
しかし寒いことは好都合だった。長袖でも違和感はないし、ポケットに手を突っ込んでいても不審がられることはない。失った右手を衆目に晒さないで済む。
眠い足をふらつかせながら、薄暗い歩道を進んでいく。
最初の目的地は、すでに決まっていた。
自宅へ侵入するのは、地球上のどの場所へ立ち入るよりも簡単だということを思い知らされた。鍵の隠し場所は知っているし、両親の起床時間も把握している。病院を抜け出した手前、見つかったら咎められるだろうが、決して罪にはならない安心感が妙な警戒心を解いていた。
ただ何かを盗み出すわけではない。自分の私物を持ち出すだけだ。
忍び足で自室に入ると、真っ先にそれを手に取る。憎しみから握り潰しそうになったが、人間の握力で壊せるような代物ではなかった。
続いて鏡を見る。私服はマズい。知り合いに指摘されたら説明ができない。
速やかに学生服へと着替え、何とか十分以内に家から出ることができた。
私服の入ったカバンと、持ち出した私物――慎吾から預かっていた竹刀を持って、学校へ向かった。もうすぐ登校時間だ。あとはアイツが来るのを待つだけ。
身を隠すつもりはない。正門の前で堂々と立つ。
眠気はあるものの、興奮のせいで目は冴えていた。
やがて太陽の角度が高くなり、登校してくる生徒の姿がちらほらと見え始める。きっと朝練なのだろう。幸運なことに、天宮が待つ生徒は熱心なスポーツ野郎だった。
「おい、慎吾!」
相手はランニングがてらの通学だったため、危うく逃しそうになった。正門の前にいる天宮を気にも留めない勢いで駆けていく慎吾が、足を止める。
息も白くなる寒さだというのに、慎吾は汗だくの顔で振り返った。
「天宮……」
その顔は驚きに満ちていた。
「なんで驚いてるんだ? 俺が早く登校してるのが、そんなに珍しいか?」
「いや、だってお前……入院してたんじゃないのか?」
「なんで俺が入院してると思ったんだ?」
「…………」
慎吾は視線を逸らして押し黙った。
しかし無回答は許さない。天宮は同じ質問を繰り返した。
「なんで俺が入院してると思ったかって訊いてるんだよ」
冷静を装ったつもりだったが、より強い語調になっていることに自分でも気づいた。
「だってお前、王子の娘を連れてただろ? 家に送ってくって」
「あ? ……あぁ」
「だから王子探偵事務所へ行くんだと思ってた。んで、お前が到着するくらいの時間にガス爆発があったって聞いたからさ。慌ててスマホでメッセージを送ったんだけど、返事がないからてっきり巻き込まれたんだと早とちりしただけだ」
「ガス爆発、ね」
呟いた天宮は、口の端を不気味に吊り上げていた。
「王子探偵事務所で何が起こったのか、慎吾は知ってるのか?」
「それはニュースで観た。所長が殺されたんだってな」
「そう、お前が……」
と言いかけて、やめた。
頭を振って強制的に思考を止める。興奮のせいで余計な言葉を吐きそうになった脳髄を、無理やり押し止めた。
次第に登校する生徒が多くなってくる。彼らは皆、正門の真ん中で突っ立っている二人を邪魔者のように睨んでいった。
「場所を変えよう」
提案した天宮が歩き出すと、慎吾も素直についてきた。
その途中、慎吾の質問が背中に当たる。
「なぁ天宮。お前、殺人事件について何か知ってるのか?」
「どうして慎吾は真理子のことを知ってるんだ?」
先に投げられた質問は完全に無視し、天宮は肩越しに振り返って言った。
慎吾からの返答はない。その態度が、すでに答えているようなものだと思った。
移動した先は武道場の裏手だった。ここなら登校してくる生徒の目に触れないし、武道場があるため校舎からも死角になっている。つまり――何があっても誰も気づかない。
「なぁ、慎吾。呪家って知ってるか?」
「ジュケ? なんのことだ?」
「とぼけるなよ。呪われた家系のことだ」
慎吾の表情が硬くなる。昔からそうだが、分かりやすい男だ。
「俺が真理子を連れてた時、お前、深入りするなって言ったよな? あれは呪家に関わるなって意味だったんだろ?」
「……そうだな」
「どうしてそんな忠告をしたんだ?」
「天宮は知らないと思うけど……いや、探偵と知り合いなら知ってるのか? 連続殺人事件の被害者は、みんな呪われた家系の人間……呪家って奴なんだ。現に王子探偵事務所の所長も殺された。友人として心配するのは当然だろ?」
「…………」
無言のまま睨みつける。
殺人犯が狙っているのは呪家の人間。その呪家と関わっているのなら、天宮も事件に巻き込まれる可能性がある。だから忠告した。
一見、話の筋は通っているのかもしれない。だが天宮は少し違うと感じていた。危険なのは殺人犯ではなく、呪家の方だと言っているようにしか聞こえなかった。
だって慎吾は、まるで生贄にするような形でセナの能力を――。
たまらず頭を掻きむしる。多くの疑問が浮かんだが、すべてをぶつけている時間はない。
「率直に訊く。お前はセナが呪われた家系ってのは知ってたのか?」
「あぁ、知ってた。呪いは遺伝だ。血縁の誰かが呪われていると分かれば、青山も同じだということは容易に想像がつく」
「じゃあセナの絵については?」
天宮の声は冷たい。真冬の隙間風の如く吐き出された言葉は、慎吾を凍り付かせた。
「……やっぱり気づかれていたのか。放課後、お前と青山が美術室にいるのを見ちまってな。悪いとは思ったけど、ついつい好奇心で覗いたことがあるんだ」
やっぱり、と言いたいのは天宮の方だった。
誤魔化さずに話してくれたのは感心するが……いや、単に頭が回っていないだけかもしれないが、慎吾は天宮があのサイトを知っていると思っていないようだ。だからこそ素直に話してくれる。それが裏目になっているとも知らずに。
セナの秘密を知る人間はほぼいない。だからこそ『犯人』は絞られる。
「お前が……殺した」
立て掛けてあった竹刀に手を伸ばした。柄を持つ左手に力が入る。
獣のように牙を剥く天宮に対し、慎吾は驚きの表情を露わにした。
「俺は殺人犯じゃない。神に誓う」
「それでもお前が殺した!」
もちろん天宮も慎吾が連続殺人犯じゃないことは理解している。しかし実際に手を掛けた未だ見ぬ殺人犯よりも、セナの秘密を暴露した目の前の友人の方が、今は許せなかった。
「お前の心無い書き込みがセナを死に追いやったんだ。お前がセナを殺したようなものだ!」
「書き込み? ……そうか。天宮、あのサイトを見たのか」
慎吾が目を伏せる。呪家と付き合っていた天宮には知ってほしくなかった、というような表情だった。
「お前が書き込まなければ、セナは死ななかった!」
「そりゃただの願望だろ」
「ふざけるな!」
限界を超えた怒りは、竹刀を地面に叩きつけることで爆発した。
確かに慎吾がサイトに書き込んだことと、連続殺人事件に直接的な関係はない。しかし天宮は知っているのだ。現実の風景を切り撮ったり、物体の裏と表を反転させる危険な能力を。
セナの能力が書き込まれる前までは、怜生や真理子と同様、おそらく『不明』と記述されていたはずだ。情報がないため、犯人も安易に手出しできなかっただろう。しかしサイトの書き込みを見て危険性は低いと判断し、殺害を決行した。
すべては想像だ。憶測だ。
ただ怒りに侵犯されている今の天宮にとって、真実などどうでもよかった。
「お前を……殺す」
竹刀の先端を慎吾の喉元へ向ける。
親友から殺意を向けられているというのに、慎吾は意外と冷静だった。それどころか冷ややかな目で天宮を見据えている。
だからこそ慎吾の精神を乱すために、天宮は初っ端から切り札を使った。
ずっとポケットに入れていた右手を、これ見よがしに前へ掲げた。
「天宮。お前、その右手……」
手首から先がない右手を目の当たりにすると、慎吾の表情が変化した。
その一瞬だ。面を叩くにしては遅すぎるし、左手一本では威力が弱すぎる。狙うは喉。そして相手が怯んだところを力任せに殴り続ける。それが天宮にできる唯一の攻撃方法だった。
全身全霊の容赦ない突きが、慎吾を襲う。
しかし容易に避けられてしまった。その瞬間、天宮の敗北は確定する。竹刀の腹を掴まれるのと同時に、すべての動作が停止。左手だけということを差し引いても、大人と子供くらいの握力差があった。
唖然とする暇もなく、奪い取られた竹刀で脳天を打たれた。喉の奥で呻き声を漏らした天宮は、無様にもその場に沈む。すごい痛みではあったが、気絶するには遠かった。
地べたに這いつくばりながら、眼前の親友を睨み上げる。
見下ろす慎吾の表情は、驚くほど冷たかった。
「気は晴れたか?」
晴れるかクソ野郎。殴ったのはお前の方だろ。
罵倒の意味を込めて、無言で睨み続ける。声は出なかった。胸が地面に強打し、息が乱れたからだ。それでも天宮は歯を食いしばりながら、掠れる声で言葉を紡ぎ出した。
「慎吾……お前、セナのことが嫌いだったのか?」
「嫌いも何もない。彼氏だったお前と違って、俺は青山とは何の関係もなかったからな」
「じゃあ、どうして……」
「俺は呪われた家系が大嫌いだ」
その言葉に、天宮は絶望を覚えた。昔から信頼していた親友が、まさかインターネットの向こうにいる下衆と同類だったなんて……。
「いや、嫌いってのとは少し違うな。気持ち悪いんだよ。ああいう呪われた能力を使う奴らってのは」
「気持ち……悪い……?」
「だって考えてもみろよ。奴らは物理法則を無視した現象を引き起こしたり、人の心を操ったり、挙句の果てには簡単に人も殺せるんだぞ。んで、殺人を犯したところで証拠もない。しかも、その能力を活かして商売をやってる奴もいるんだから世も末だよな。超能力って言えば聞こえはいいかもしれんが、結局は兵器を持って歩いているようなもんだ。一般人の俺たちからすれば、たまったもんじゃないだろ」
「セナは……人に危害を加えるような能力じゃなかった」
「関係ないね。どんな呪いにせよ、奴らはそれを開示する義務がある。俺たち一般人が知る権利もな」
「…………」
知る権利? 他人のプライバシーを知る権利なんて存在するのか?
喉の奥から反論を絞り出そうとしたものの、予鈴のチャイムに邪魔されてしまった。
「コイツは返してもらう。ま、殺された青山は気の毒だと思うよ」
天宮から奪い取った竹刀を袋に戻し、慎吾は踵を返した。感情のない瞳に宿るのは、汚物を前にしたような嫌悪感か、道端のゴミを見る時と同じ無関心か、それとも親友の惨めな姿を憐れに思っているのか、天宮には読み取ることができなかった。
一人残された武道場の裏で、天宮は跪いたまま声を押し殺して泣き始めた。
本当に慎吾を殺すつもりだったら、こんな堂々と対峙しなくてもよかったはずだ。それこそ帰宅途中を狙って、背後から刃物で刺せばよかっただけの話。それができなかった理由は、最後まで慎吾を信じたかったし、大切な親友を失いたくなかったからなのかもしれない。




