第2章 覚悟の代償
夜の街を歩く。そこまで遅い時間帯でもなかったようで、国道沿いにある飲食店などは明かりが点いているところが多かった。
有象無象が往来する街並みを、天宮は歩道橋の上から見渡した。
何も変わらない世界がそこにあった。つい先日まで普通の高校生活を送っていた少年が右手を失っても、一介の私立探偵が殺人犯に殺されようとも、誰も何も気にした様子はなく、ただ当たり前のように世間は回っていた。
自分が排斥された世界を目の当たりにしたことで、ようやく天宮は実感する。
あぁ、これがすべてを捨てるということなのか、と。
知り合いに遭遇しないことを祈りながら、『理容店KIRISAKI』を目指す。老舗の多い商店街は眠るのが早いのか、ほとんどの店に明かりはなくシャッターが下りていた。
こんな短期間に四回も床屋を訪れるのは、後にも先にもこれっきりだろうなと思いながら、重い扉を開ける。
「あらぁ。必ず来るとは思ってたけど、意外と早かったわねぇ。貴方を見くびっていたわ。ごめんなさい」
「あんたこそ早いな。あんまり時間差はなかったと思うけど」
「私はタクシーよ。あんな遠い病院から歩いて帰るなんて、まっぴら御免だわ」
それもそうかと、天宮は納得した。
店内を見回してみる。営業時間外なので客の姿がないのは当然だが、待合席に座っている里緒以外の人影は見当たらなかった。
たとえ異能がなくとも、天宮の考えていることは手に取るように分かる。とでも言わんばかりに里緒が立ち上がった。
「真理子ちゃんなら、怜生と一緒に店の奥にいるわよ」
そう言って歩き出した里緒の後ろを、天宮はついて行く。
先日、怜生に連れられて上がり込んだ台所。当の怜生本人は壁に背を預けて佇んでおり、じっとテーブルの方を見つめている。その視線の先には、ごく平凡な子供服を着た、小学生くらいの少女が。
「真理子!」
思わず声を張り上げると、椅子に座って俯いていた真理子がビクッと肩を揺らした。
顔を上げ、天宮がいる方を向く。しかし決して視線が合うことはなかった。なぜなら彼女の両目には包帯が巻かれていたからだ。
一目見て、それが異常なことだと分かる。
真理子に怪我はないと言った里緒の言葉を思い出し、天宮は牙を剥いて説明を求めた。
「別に怪我をしているわけじゃないの。自分の能力で瞼が裏返ったってことでもない。身体的には健康そのものよ」
「身体的には?」
「精神的には異常があるということ。医者曰く、ショックのあまり一時的に目が視えなくなっているらしいわ」
「目が……」
驚き、真理子を見る。彼女は口を閉ざしたまま、再び俯いてしまった。
「治療法は時間の経過しかないそうよ。彼女の心が癒えれば自然と視えてくるはず。でも私個人としてはね、今はまだ治らない方がいいと思うの」
最後の一言は、耳元で囁くように抑えられていた。
耳を疑う物言いに、天宮は里緒の意思に反して声を荒げてしまう。
「なに言ってんだよ、お前!」
「もし今の精神状態で目が視えるようになったら、どうなると思う? 彼女はまだ幼い。自分の能力を完璧に制御できるとは思えないの。何かの拍子に、また能力が暴走したら……実体験した天宮君には理解できるはずよ」
「…………」
誰もいない室内だったからまだよかったが、あれが人通りの多い場所だったら……。
「知らない誰かが不幸に遭うし、それを目の当たりにした真理子ちゃんの精神状態もさらに悪化するわ。彼女には悪いけど、今のままなら誰も不幸にすることはない」
「それも……そうだな」
真理子が抱えているのは肉体的な損傷ではなくて、精神的な傷だ。里緒が言うように、目が視えるようになるのは、心が治ってからの方がいいのかもしれない。
沈痛な面持ちを浮かべた天宮は、ゆっくりと真理子の元へ歩み寄った。
椅子に座っている彼女の横で膝をつく。誰かが近づいてきたことは察知しているようだったが、意外と拒んでいる様子はなかった。
「真理子。俺が必ず仇を取ってやる。だから君は……待っててくれ」
包帯の奥の瞳が天宮を見つめた。その顔に感情らしい感情はない。小ぶりな鼻と陶器のように滑らかな頬が、少女の無機質感をさらに助長させている。
ふと、唇が動いた。桜の花びらが破けるように、小さな空洞が覗く。
「……ん? なんだ?」
あまりの小さい声に、顔の高さを合わせてもまったく聞こえなかった。
さらに耳を近づける。
「……ス……から……」
「?」
内緒話がしたいわけではなく、ただ単に声そのものが出せないようだった。丸一日以上黙り込んでいたことに加え、やはり心の影響が大きいのだろう。心身ともに辛い経験をしたばかりなのだから、声が出なくなるのも無理はない。
天宮もそれを理解し、真理子の声が聞こえるまで辛抱強く待つつもりだった。
「天宮君。これを持っていきなさい」
しかし時間は待ってくれないようだ。奥の部屋へ消えて行った里緒が、何かを持って戻ってくる。渡されたのは封筒だった。
「これは?」
「お金よ。残念ながら、この家はあまり大きくないの。空き部屋は真理子ちゃん一人分で埋まっちゃう。だから天宮君には、外で寝泊まりしてほしい。そのための資金」
「資金って……」
封筒は決して薄くない。手触りだけでも、多少の厚みを感じられた。
こんな大金、正月以外で貰ったことはない。ましてや里緒は赤の他人だ。……いや、金額の問題でもないか。施しなんて受けるつもりはない。
黙って突き返そうとすると、里緒は露骨にため息を漏らした。
「貴方はすべてを捨てると覚悟を決めたはず。あれは嘘だったのかしら?」
「……どういう意味だ?」
「すべてというのは、なにも貴方の家族や将来のことだけを言っているのではないわ。貴方のプライドだってそう。殺人犯を殺すためなら、どこの誰に頼っても、どんなに汚い手を使っても、それに執着しなさい。どのみち食事をするのにもお金は必要だわ。いざ犯人と対峙した時に、体力がなくて返り討ちに遭いましたとかなったら、笑い話にもならないものね」
その通りだと思ったし、自分の考えの甘さも実感した。
封筒を突き返す力が弱くなる。指先から伝わってくるざらついた感触が、自分の無力感を物語っているようだった。
「ま、どうしても気になるっていうんなら、すべてが終わった後で返しに来てちょうだい。出所して、働き出して、その後でも」
「そう……だな。ありがとう」
感謝の言葉は、すんなりと口から出てきた。
里緒もまた、いつもの憎たらしい笑みを浮かべる。
「とはいっても、何日も過ごせる額が入ってるわけじゃないわ。できれば節約した方がいいわね。寝るところも、ホテルは諦めてネットカフェとか」
「ネットカフェって泊まれるのか?」
「さあ、どうなのかしら?」
さりげなく目を逸らす。視線の先には怜生がいた。
「泊まれる、と言ってしまうと語弊になる。二十四時間営業している店なら、個室の中で寝ていようが客の勝手だからな。ただホテル替わりとして宿泊した場合、料金的な比較がどうなのか俺は知らん。あと、未成年が深夜に利用できるかどうかもな」
常連なのだろうか。と思うも、おそらく大学生の怜生が大衆娯楽に深い理解があっても何ら不思議ではなかった。
「よかったら持って行け。ネットカフェの会員証だ」
「ありがとう……ございます」
「あらぁ? なんで私にはタメ口で、怜生には敬語なのかしらぁ? 妬けるわね」
里緒が冗談交じりに頬を膨らませる。別に可愛くはなかった。
最後に、天宮は再び真理子へ顔を寄せた。
「悪い。何か言いたいことがあるんだろうけど、また声が出るようになったら聞くから」
「…………」
口を結んだまま、真理子はじっとこちらを見つめている。怒っているのか、寂しがっているのか、それとも天宮に対して何の感情も抱いていないのか。包帯の下の瞳は何を語っているのか、天宮には分からなかった。
「とりあえず、今後の方針だけど」
と、里緒が話し出す。
「手術したばかりだし、今日は宿を見つけてゆっくり休みなさいな。捜査はまた明日。セナちゃんが殺害された現場で、残留思念を回収するところから再開しましょう」
方針については賛成だが、明日という言葉に天宮は渋い顔を見せた。王子探偵事務所の一件もあったのだ。そんな悠長なことをしていては、警察に先を越されてしまう。
ただ反論できなかったのは、体力がなくて返り討ちに遭ったら笑い話にもならない、という里緒のセリフが効いたからだ。失った右手のこともあるし、どうやって犯人を殺すか真面目に考えなくてはならない。
「分かった。じゃあ営業時間が終わってから立ち寄ればいいか?」
「いいえ。明日は月曜日。普通の床屋はお休みよ。お昼くらいで構わないわ」
この店が普通なのか? と思ったものの、口には出さなかった。
そして月曜日といえば、普段の天宮なら普通に学校へ行っている。当然のように昼に来いと言うくらいには、里緒は自分を信用しているんだなと感じた。
「じゃ、待ってるわねぇ」
満面の笑みを浮かべて送り出してくれる里緒には悪いが、天宮は彼女を一瞥たりともしなかった。
今の心配事は一つだけ。
椅子に座ったまま微動だにしない真理子を気に掛けながら、天宮は『理容店KIRISAKI』から静かに退店していった。




