第1章 復讐鬼と喪服の女
熱気をさらう冷たい風が吹き抜け、天宮宗太は身震いした。
彼が立つのは閑静な住宅街の真ん中。元々人通りの少ない街路ではあるが、とっくの昔に陽が沈んだ深夜という時間もまた、周囲の静けさを助長させていた。
息を吸うと、空気の冷たさに喉の奥がツンと痛む。吐けば白い煙へと変化した。
季節は冬だ。南東の空を見上げれば冬の大三角を観測できるほど晴天に恵まれてはいるが、気温は人間が不快と感じるよりも著しく下回っていることだろう。それは単身で寒空に立つ天宮自身も感じていることだし、近くの家から漏れる温かな明かりが、より一層彼の体感温度を狂わせていた。
寒いことは寒いがしかし、天宮宗太にとって、気温のことなどどうでもよかった。
そして冬だろうが深夜だろうが、現在の時間が如何様であろうと関係がなかった。
彼にとって問題があった時期は、先週の頭。ほんの十日前。場所は、彼が今目を向けている街灯の下。今日と同じくらい冷え込むその日、この時間、この場所で――、
天宮の恋人が殺されていた。
「セナ……」
白色に染まる息を吐きながら、無意識のうちに恋人の名前を呟いていた。
そして祈るように、また懐古するかのように強く目を閉じる。
瞼の裏に最初に浮かんだのは、白と黒の縦縞だった。日本における一般的な住宅の周りに張られた、白黒の幕。その狭い住宅に、朝の通勤ラッシュ並みの人間が押し寄せていた。皆が皆、黒い服を身に纏っている。高校生である天宮もまた、学生服を着ていた。
記憶の中の自分が、どんな感情を抱いているのか分からぬまま、人の流れに呑まれる。
流れに身を任せ、一歩一歩前へと進む。やがて室内へと足を踏み入れたのか、天井の電灯により、周囲が一変して明るくなった。
それからまた数歩歩く。すると突然、自分を先導していた黒い背中が横へとはけた。
天宮は顔を上げ、ここが終点だということを知る。
正面の壁には、自分の恋人である青山セナの写真が堂々と飾られてあった。周りを白い花で囲まれたその中で、セナは永遠ともいえる時間を微笑み続けているだろう。彼女の笑みが可愛く愛おしく、天宮もまた、わずかに頬を綻ばせた。
しかし――、
頭を下げれば、そこにはセナの白い顔があった。写真とは違い、無表情で、堅く、生気を感じ取ることができない。棺の中で横たわる青山セナは、一寸たりとも動くことなく眠り続けている。
一度生まれた微笑を消し、天宮は彼女の名前を呼び掛けた。何度も何度も呼びかけた。
なのに彼女は起きない。目を開けない。呼吸を再開することもない。
次第に、天宮の中でとある感情が膨れ上がっていくのが分かった。それが恋人を失ったことによる悲しみだったのか、彼女を守れなかった自分に対しての怒りだったのか、犯人に対しての憎しみだったのかは、すべてがぐちゃぐちゃと混じり合った今となっては、鮮明に思い出すことはできない。けど、一つだけ覚えている事実がある。
あの時の自分は、目の前の現実をまったくと言っていいほど受け入れてはいなかった。
セナが死んだなんて、信じられるはずはなかった。
『死』という言葉がよぎった瞬間、唐突に恐怖心を煽られた。否定したい現実が突然矢のように眼前に突きつけられ、絶対的な嫌悪感が自己の崩壊を促す。現実を否定することで、崩れそうな精神は保たれた。
これが現実なのか幻想なのか分からぬまま、天宮はゆっくりとセナに向かって手を伸ばす。
指先が、彼女の白い頬へと辿り着いた。その感覚は、外気温よりも圧倒的に冷たく、無情で無残だった。
彼女の肌に触れたという触覚を引き金に、過去を回想する天宮の記憶に次々と別の感覚が蘇ってくる。鼻腔は嗅ぎ慣れない焼香の匂いを吸い取り、聴覚は横で延々と経を唱える坊主の声を捉え、舌の上では粘度の高くなった唾液が口内で複雑に絡みついていた。
五感を取り戻した天宮の中で、拒絶したい現実と理性の中の認識が交差する。
恋人の亡骸を前にした天宮は――大声で泣き叫んだ。
「…………」
はっと目覚めたように、天宮は過去を振り返るのをやめた。目を開ければそこは、悲しみの渦巻く葬儀場ではなく、寒気が支配した虚無感の漂う夜道だった。
何を寝惚けているんだと戒めるように、目頭を押さえ、頭を振った。
自覚できるようになってしまった肌寒さにもう一度身を震わせ、例の街灯を睨み下ろした。
まったくもって変哲のない、普通の街灯。群衆の中の一人、森林の中の一本の木のように、天宮が見下ろしている街灯も、前や後ろに等間隔で並ぶそれらと区別がつかないだろう。
しかし天宮にとって、そこは特別に敬遠すべき場所だった。
ほんの一週間と少し前、愛しの彼女が自らの生命の終焉を迎えていた場所なのだから。
青山セナを殺したのは、今現在、巷を恐怖で震撼させている連続殺人犯だった。犯人は未だ捕まっておらず、現時点でセナも含めて四人も犠牲になっている。この時間帯、まったく人が出歩いていない理由は寒さのせい以上に、その殺人事件が関係していた。誰だって、殺されるかもしれない夜道を無闇に出歩いたりはしないだろう。
当然、殺人犯ではない天宮にも、その危険性は等しく訪れるはずだ。
が、どうでもよかった。彼にとって、殺人犯に出会うことは願ってもいないこと。
そのために、寒いのを我慢して外に出てきたのだから。
「…………」
天宮はもう一度目を閉じる。しかし今度は過去を振り返るためではなく、臨むべき未来を想像するために。
瞼の裏に現れたのは、一人の人間だった。男とも女とも判断のしがたい、中肉中背。顔の表面は靄のように霞み、一度絵具で描き上げ、紙でさっと拭き取ったように元型が崩れている。顔のパーツの位置だけが分かる、マネキンのような表情。
それを殺人犯だと仮定する。
ナイフを手にした天宮は、何の躊躇いもなくその人物の顔面に突き刺した。
噴水の如く血が吹き出る。手首を捻って刃を手前へ引き寄せると、眼球が抉れ外へと飛び出した。地面へと落ちたそれを、天宮は無慈悲にも踏み潰す。今度は頬。何度も何度も刺している間に、いつに間にか頬肉が無くなっていた。続いて殺人犯を押し倒す。抵抗しない相手に馬乗りになると、天宮はただただ機械的に、犯人の顔面をナイフで刺し続けた。
殺す、殺す、殺す! コイツだけは絶対に殺す!
復讐で塗り固められた思考は、伽藍の心を暗闇色へと染めていった。
恋人を失った悲しみももうない。殺人犯に返り討ちにあう恐怖心もない。無力な自分に対しての憤りもない。
ただ心に残るのは、殺人犯に対しての憎しみだけだった。
無情にもセナの命を奪っていった殺人犯が許せない。絶対に、絶対にだ!
がむしゃらに殺人犯を殺し続けたことに飽き、天宮は両の手を力強く握りしめた。
シミュレーションは終わりだ。あとは殺人犯を探し出し、この手で制裁を加えるだけ。
セナの復讐を果たせるのなら、どこまででも堕ちてやる!
恋人が殺された場所で誓いを立て、天宮は目を開けた。残る問題は、この手で警察よりも早く殺人犯を見つけ出さなくてはならないこと。そうしなければ、復讐を果たす機会は永遠に失われてしまう。
しかし一介の高校生である天宮にとって、警察ですら突きとめていない犯人を割り出すのは困難極まりない。自分を囮にし、犯人を釣り上げるために単身で夜道を彷徨っているのだが、どうやら長期戦になることは覚悟しなければならないようだ。
そしてもう一つ、深夜に放浪しているのには理由がある。
天宮はポケットの中から、おもむろに一枚の紙を取り出した。
『私にもしものことがあったら、霧咲という人に会ってほしい』
セナが天宮宛に遺した、最期の手紙だった。
霧咲という人物は、セナの遠い親戚であるらしい。同封された地図によれば、天宮たちが住む地域に近い場所が記されているが、その人物の職業が理容師ということ以外は他に何も書かれていなかった。
どういう意図があってセナはこの手紙を遺したのかは知らない。が、気になる点が一つある。
『もしものことがあったら』
セナは自分が殺されることを察していた?
つまり殺人犯はセナの知り合い?
余計な考えが頭を巡るが、天宮は首を振ってそれらを振り払った。
今考えることじゃない。それらは後でいい。今はただ、セナの遺言に従って、霧咲という人物に会いに行くだけ。復讐はそれからだ。
冷たい夜風のおかげなのか、沸騰しそうなほど復讐に燃えた頭でも、自分が今すべき行動を冷静に判断することができた。地図を手にし、記されている『理容店KIRISAKI』へと足を向ける。と……。
「…………?」
ふと、前方に人のような影を捉え、目を細めた。
街灯の光と夜の暗闇が交互に映える街路を見据える。見間違いではなく、確かに人が一人、こちらに向かって歩いてくる。
連続殺人犯かもしれないという期待とは裏腹に、そんな都合良く現れるわけがない、アレはただの通行人だという否定の思いも込み上げる。
とりあえず天宮は、怪しまれないために、道路の脇によけた。
それにしても奇妙な女だった。暗く距離もあるとはいえ、それが女性だとすぐに分かった。
喪服姿なのだ。まるで天宮の記憶の中からそのまま抜け出してきたような、一週間前に多くの女性が着ていた礼服。夜に溶けるような漆黒の喪服はしかし、女性の肢体をわずかな輪郭で現してる。なかなか細身であり、身長は一般的な女性よりも少し高いくらいだろうか。
服装は近くで葬儀でもあったかと想像すればなんら不思議ではない。だがしかし、それ以上に異様なのは彼女の頭であり、天宮の視線もまたついついそちらへと移ってしまった。
淀みのない銀髪。頼りのない街灯の恩恵を受け、彼女の髪は神々しく光り輝いていた。肩の辺りで揃えられた後ろ髪は彼女が歩を進めるごとに揺れ、その度に銀色に輝く粒子を振りまいているよう。
黒い喪服と銀色の髪。相反する二つのコントラストによって、天宮は一瞬……いや、数秒以上は見惚れ、思考を停止させてしまっていた。
故に、気付いた時にはすでに、お互いの距離は十メートルもなかった。
そして天宮はようやくそれを発見する。女性が手にしている、凶器を。
「なっ……」
天宮の視線が女性の髪から手に移った瞬間、彼は絶句した。そのまま立ち止まる。
女性が持っていたのは、ハサミだった。色は彼女の髪とタメを張れるほどに輝く銀色。大きさは裁縫用のハサミよりも一回り大きいくらいだろうか。彼女が人差指と親指で動かしているからそれがハサミだと分かり、具体的な形状は暗くてよく見えない。
しかしそれは明らかに異常だった。
夜も深まる閑静な住宅街。喪服姿の女性が、単身で、抜き身のハサミを手にしながら歩いている。どう考えても、それが常識に当てはまることはない。
「と……止まれ!」
無意識のうちに、天宮は叫んでいた。もしかしたら彼女が巷を騒がす殺人鬼かもしれない、という考えが脳裏をよぎったのだろう。失ったはずの恐怖心が、心の奥底から徐々に生成されていることに気づいた。
喪服の女性は、天宮の命令通りに立ち止まった。お互いの間は五メートルくらいか。
ただし距離としては安心できても、天宮の理性が油断することを許さなかった。
立ち止まるのと同時、女性の白い顔が面妖に微笑んだからだ。
「こんばんわ」
女性が笑いながら言った。優しく撫でつけるような声に、天宮はゾクリと背筋を震わす。
服装と髪は奇抜だが、相当の美人だということが近付いてみて分かった。歳は二十代前半から半ばといったところだろう。
「それは、何だ?」
震える声で問い掛ける。肌寒いはずなのに、身体の芯は妙な熱を発していた。
「これ?」
女性は手にしているハサミを自らの前に掲げ、二・三度開閉させて見せた。
「分からないかしら? これはハサミよ」
「ハサミ?」
我ながら馬鹿なオウム返しだと、天宮は思った。そんな物、一目見れば分かる。疑問なのはどうしてハサミなど携帯しているのか。
セナを殺害するために使われた凶器がハサミだという話は聞いていないが、しかし目の前の女性は明らかに異常だった。
連続殺人犯、もしくは新しく発生した別の殺人鬼という考えがよぎり、生唾が落ちる。
天宮が喉を痙攣させ言葉を噤んでいると、女性がおかしな問い掛けをしてきた。
「ねぇ、ハサミって、どういう用途で使う道具か知ってるぅ?」
「…………?」
意味が分からず、天宮は訝しげに首を捻るだけだった。
答えに窮していると、彼女は三日月形に微笑み、すぐに解答を口にした。
「答えは、物を『切り取る』ためにあるのよぉ」
わざとなのか、若干舌っ足らずな物言いで嬉しそうに答えた。
ただ女性のバカみたいな言い回しにも、天宮が警戒を解くための要因にはならない。
ハサミが物を切るための道具だということは、小学生でも知っている。しかし彼女は一体……何を切り取ろうとしている?
「このハサミで何を切り取るか。そんな疑問を抱いている顔ね」
銀髪の女性が、うふふと妖艶に笑う。
「これはね、こうやって使うのよ」
「…………ッ!?」
そう言った女性は、ハサミの刃先を天宮に向けてきた。天宮は警戒心を一気に高め、身構える。しかし距離は約五メートル。ただのハサミでどうこうできる距離ではない。女性が突然突進してこないか、もしくはハサミを投げ付けてこないかを警戒すればいいだけだろう。
――その油断が、天宮の命運を分けた。
「じゃ、おやすみ」
ヂョキンッ!!
まるで刀で袈裟斬るように、ハサミを斜めに振った。その途中、一度だけハサミを開閉させる。たったそれだけなのに、天宮の立つ位置にはハサミを振り下ろす風圧すら届かなかったというのに――、
――その瞬間、天宮の意識がプッツリと途切れてしまった。