002 シトリンウェルスの舞華
3月初旬―――。
南国様にデザインされた<ナインテイル自治領>においては、花の季節を迎えている。背の高い緑の間に、桃色の花がいくつもいくつも並んで見える。
ぼくの名は浮立舞華。
残念ながら馨しいであろう花の香りをぼくはあまり感じない。このセルデシア世界で<冒険者>となった今も、鼻炎気味だった昔と変わらずぼくの嗅覚は乏しいようだ。
それでも<ナインテイル>にやってきてまだほんの数日しかたっていないぼくにとっては、あらゆるものが新鮮に映る。
元々、小説の題材を調査するために<エルダーテイル>をプレイしていたぼくは、専ら<ウェストランデ>を中心にプレイヤーの実態を調べていて、このように景色を楽しむ心など持ち合わせていなかったのかもしれない。
そんなぼくがこの旅に身を置いているのは、決して景色を楽しむためではなく、ぼくのために犠牲になってしまったイクスという新しい仲間を救出するためだ。
「おい、作家の嬢ちゃん! 物見遊山じゃねえんだ。キリキリ歩け」
言われなくてもわかっていたことを指摘されてしまった。
彼はバジル。同じくイクスを救出しようという仲間だ。
頭をすっぽりと狼の面で覆った狼牙族の<盗剣士>である。
「あいで!」
金色に近い髪をポニーテールに結った<武士>の女性がバジルの臀部を強かに蹴り上げた。
「アンタがそうやってイラついたからって解決するもんじゃないでしょ」
「わ、わかってるよ、ち、すまねえ」
舌打ちしながらもバジルは素直に謝った。
「あいで! あ、謝ったじゃねえかよ。もう尻蹴り上げんじゃねえよ、おめえこそいらついてんだろ、たんぽぽあざみの介! 愛しの彼に長いこと会えていねえからってストレスをオレ様にぶつけてんじゃねえって、ぐぼぉ!」
あざみはすべてを聞き終わる前に、バッグからリンゴを取り出して投げつけた。剛速球と化したリンゴはバジルの顔面にヒットしてどこかへ飛んで行った。
と、思いきや、道路脇の崖から飛び降りてきてリンゴを拾う影があった。
黒ずくめの男はあざみにリンゴを手渡すと、反対側の柵の向こうに消え去った。
「あ、あざみさん。今のは?」
ぼくは聞いた。
「ん? ああ、ポチ」
「ど、どこがポチだよ。怪しい男じゃねえか。っていうか痛ってーよ! 投げんじゃねえよ食い物を。わかった、もう投げるな。仕舞え。そのバッグの中に」
必死のバジルの制止に、あざみはバッグの中にりんごを仕舞った。
彼女のバッグも魔法鞄の一種で、小さなポシェット型であるが彼女の主食であるりんごがたっぷり詰まっているらしい。
ぼくが背負っているものはテントも入る大型タイプで、見た目は重そうであるが実際の重量の十分の一ほども感じていない。
ぼくたちは<ナインテイル>北部にある小さな大地人集落<サンライスフィルド>からさらに北東の街<ユーエッセイ>に向けて徒歩で移動している。
イクスはぼくのために命を落としたといっていい。
<大地人>であったイクスはそこで完全に蘇生する道を絶たれたはずだ。
しかし、彼女は奇跡的に蘇った。定かではないが、おそらく蘇ったのだ。
小説家を名乗る者が簡単に奇跡などと述べるのはどうかと思うが、イクスの身に起きた出来事はぼくの存在が大きく関わっていて、この結果はその偶然の積み重ねの上に実に危うく成り立っているのだ。これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぶのか。
ぼくはある呪いのかかったアイテムを身に付けてこの<ナインテイル>に渡ってきた。そのぼくを追ってきた恐ろしい者がイクスを殺してしまった。だがイクスはぼくの付けていたアイテムによって、死なない呪いにかかってしまった。つまり<冒険者>となってしまったのだ。
<冒険者>は死ぬと復活ポイントに虹色の泡と化した肉体と魂が運ばれる。そこで復活を果たす。
ほとんどの<ナインテイル>の<冒険者>は、<ナカス>の大神殿で復活する。それが五大都市と呼ばれるプレイヤータウンのもつ機能の一つである。
しかし、あざみたちが所属するギルド【工房ハナノナ】は<ナカス>以外の復活ポイントを発見している。それが<ユーエッセイ>の復活施設となる小さな祠なのだ。
イクスたちはここを何度も訪れており、おそらくイクスもそこで蘇っているのではないかと考えられる。
ただし、連絡が付かないので確かなことは言えない。
連絡が付かないのには二つ理由がある。
ひとつはイクスが新人<冒険者>であり、誰ともフレンドリストに登録がないため念話ができないからという理由。
もうひとつは<ユーエッセイ>という土地が持つ機能による理由。
ぼくは以前<北風の移動神殿>というものを見たことがある。それは神輿状の簡易復活装置である。その<移動神殿>の周辺では念話が妨害されてしまってほとほと困った覚えがある。
<ユーエッセイ>は実は神輿の発祥の地である。と考えると、<移動神殿>そのものが、<ユーエッセイ>をミニチュア化したものであるのではないかと想像をたくましくしてしまうのだが、そのことを抜きにしてもこれだけは言える。
<ユーエッセイ>では念話能力が妨害されてしまうのだ。
これについては<大災害>を<ユーエッセイ>で迎えたあざみが証言している。
ともかくイクスは困っているに違いない。ぼくらの足は自然と早まっていく。
神代と呼ばれる時代の遺跡である高速道路跡をひた走ると、雄大な景色が広がってきた。月明かりに映える山並みは夜目にも美しい。
先ほど有名な都市<ユフインの温泉郷>の上を通り過ぎたところだ。
見えてきたのは<シトリンウェルス峯>であろう。
突如、バジルとあざみが臨戦態勢を取った。
ぼくも遅れて身構える。何かの飛来音がする。
ぼくたちめがけて翼の生えたミサイルのような影が襲ってくる。
「翼竜か!」
バジルが叫ぶ。すると再び道路脇の柵から例の男が飛び上がり、翼竜の首のあたりに接触したかと思えば、一瞬のうちに翼竜を虹色の泡に変える。
金貨やアイテムがパラパラと降り注ぎ、ぼくたちは頭を抱えた。
「あだだ、あんにゃろう。やるじゃねえか」
「便利だろう、ポチって言うんだ」
あざみは胸をつんと張って威張ってみせた。
実際はポチではなく能生寧武という名を持つあざみのストーカーだ。元はPKを目的とした集団にいて<ナナシ>とあだ名される<暗殺者>だ。
「なぜ竜が降ってくるのでしょう」
ぼくは竜の来た方向を見つめていた。北の夜空。この方角に何かあるのか。
「お、おい。それより見ろ!」
バジルの指さす先を見ると、この先の道が大地震の後のように波打ってひび割れていた。