西丸下三番小隊 第1部 (にしのまるしたさんばんしょうたい)
慶応四年正月三日‐伏見奉行所西方
「それで、新撰組はどうなった」
声の主は、月明かりの下で胴乱の中のミネー弾を数えていた。残り十二発、多いとはいえない。
「奉行所が焼かれちまったんで、退却しただよ。まったく、薩摩の銃隊にまともに斬込むもんじゃから、いくつ命があっても足りはせん」
幕府陸軍第七連隊の所属を名乗るその兵は、仏蘭西式ランドセルをかき回しながら言った。一個三両で三年は使う筈だったこの背負い式の物入れが、今日の戦場にはいくつも転がっていた。それだけでなく、一丁七両もするミネー銃、一両三分のブランケツトも、何十と転がっていた。兵の命を別としても、何百両もがたった一日で失われた。
「新撰組も、小銃を持っとったはずだが」
「あの様子では、銃隊の調練はしてないの。手慣れた斬合いに持込もうとして、ばたばたやられとった」水筒を口に含みながら、そう答えた。数に驕った旧幕府軍は握飯一食分しか携行させておらず、今は水しかなかった。
「元々はわしらと同じ百姓だに、なまじ剣術が出来たもんだから、さむらいになるのを夢見て新撰組になって、ご直参になったのは良いけれど、鉄砲の世の中になってしもうて、戦争ではわしら百姓の銃隊の方が役に立つようになってしもうた。思えば、哀れなもんよのう」
その時、背後から大声がした。
「うぬら、武士を侮辱するか!」
二十人余りの歩兵たちは、弾けるように散開し、声の方向だけでなく四方に小銃を向けた。
「あそこの茂みにだれかいるわ」
「平太、ちゃんと見張ってたのか」
「今見つけたとこだわ。暗がりを伝って這って来たんで、わからんわ」
平太の指す暗がりに、いくつかの人影が見える。若い声が、いらだたしそうにまた叫んだ。
「うぬら、士分に鉄砲を向ける気か。手討ちにしてくれる」
ミネー弾を数えていた男が、すくっと立ち上がって月光の下に身を曝した。
「徳川家陸軍第一連隊、歩兵指図役下役、田畑弥助と申します。無礼はお許しください」
すると、暗がりからひとりの武士が現れた。聞き覚えのある声だった。
「おお、君は弥助か。何年ぶりかのう」
「これは」弥助は目を丸くした。「土方さんじゃないですか」消息を知りたいと思っていた人が、今、目の前に現れた。
「副長」先ほどの若い隊士が、抜刀したまま進み出た。「ご存じ寄りの者ですか」
「江戸で道場をやっていた時の、門弟だよ。しかし歩兵になっていたとはな」
「自分から兵賦を申出ました」弥助が答えた。
「それは、君らしい」土方は若い隊士を見た。「刀を引け、同じく徳川家に仕える身だぞ」
「しかし、こ奴ら武士より百姓の方が強いなどど」
「鉄砲を持った人間の方が強いと言っただけだ。君も今日は骨身に滲みたろう」
「けっ」隊士はそう言うと、刀を鞘におさめた。そう、身分社会の階層をまさに這い上るために、この若い隊士は剣術の稽古に励んできたに違いない。そして、命がけで攘夷浪士と戦い、直参と言う身分を手に入れたとたんに幕府が瓦解し、武士が既に代遅れである現実を見せ付けられたのだ。すぐには受け入れられないに違いない。弥助にとっても他人事ではなかった。なまじ剣術の才能があったら、近藤らに従って新撰組に入り、今日の伏見奉行所で戦死していたかも知れないのだ。
「みんな銃を引け」弥助が命じると、ガチャガチャッと打鉄を戻す音がした。
それを見て、暗がりからまた三人の隊士が出てきた。
「ところで君たち、士官はどうした」土方が訊いた。
「今日の戦いで戦傷したので、今は私が小隊の指図役を務めております」弥助が答えた。「第一連隊は、今日の緒戦で百人以上の兵を失ったと思います。我ら三番小隊からも戦死者が出ました。その後、伝習隊などと共に戦いましたが、胸壁陣地に籠る薩州勢を押返すことができず、そのうち伝習隊とも別れ、こちらに退いてまいりました」
「と言うことは逃げ来てたのであろう」若い隊士は敵意を隠しもしなかった。
「そうではあるまい。逃げたのなら、今頃大坂まで落ち延びている筈だ。こんな所にはおるまい」土方が宥めた。「弥助、相談なのだがな、ここから三町ばかり離れた橋のたもとに長州勢が陣を張っておる。おそらく、明日の戦いの足がかりにするつもりだろうが、三十人ばかりが小銃を持っているので、われらでは手が出せん」
「副長自ら斥候にお出ましでしたか」弥助は顔をほころばせた。この人は変わっていない。「夜明けまで、ひといくさするくらいの間はありますな」
弥助が一声かけると、百姓兵たちはきびきびと整列した。第七連隊の兵も、何気なく末席に混じっている。ついさっき会ったばかりの弥助の指揮でも、違和感なく戦うであろう。
(洋式兵学とは、こう言う物なのか)土方は、感嘆の思いで眺めた。これからは、こうでなくては・・・。
(それにしても、この男にこんな器量があるとは思わなかったな)ふてぶてしい指図役顔になった弥助を眺めながら、土方は五年前を思い出していた。
文久二年十二月‐武州多摩郡
「面!」
「銅!」
井上源三郎に抜き胴を取られた男は勢い余って、大地に不様に転がった。周囲から笑い声が起きる。
「弥助は上達せんのう」横で見ていた原田左之介が、呆れたように言った。「源さんは優しいからそんなもんで済んだが、わしだったら突きをくれとったぞ」
「突きなどくれたら怪我をするであろう」近藤勇がたしなめた。「止めておけ」
「私は、稽古も真剣での勝負と思い、一撃で仕留めるよう心がけております。でなければ、例の浪士隊に加わっても『試衛館何ほどのものか』と侮られましょう」原田が憮然として言う。
「浪士隊とは何でございますか」不様に転がった男、弥助は面を取りながら言った。恥ずかしさで顔は真っ赤だった。
「うん、来年将軍家が御上洛遊ばされるのは知っておろう」近藤が答えた。
「父が村役人ですので、御触書などは読んでおります」
「そうであったな」近藤は、最近意識して古武士のような口の利きかたをする。「ところで、京の町は不逞浪士が闊歩し、悪事を働いておる」
「その噂は聞いております。浪士を捕縛した町方の与力様が闇討にあったとかで、御取締も儘ならぬご様子」
「そこでだ、庄内酒井家御家中の清河八郎なる御仁が御公儀に献策してな、江戸で腕の立つ者を募り、京へ送り込んで不逞浪士を捕縛しようと言うのだ」
なるほど、と弥助は思った。不逞浪士による治安の悪化は江戸も同様だ。彼らを採用して京都に追払い、治安対策に使えば一石二鳥ではないか。そうだとしても、合点がいかない事がある。
「将軍家の御警固なら、御旗本衆がお勤めになればよいのでは」
「御旗本衆か」近藤は含み笑いをした。「お主、自分の村の知行主に会ったことは有るか」
「いえ、天野の御殿様にお目に掛ったことはございません」
「その御殿様や若様どもがどれほどの物か、知れば驚くであろう。いや、剣の腕ではない、武士として大切な、そのう」
「太平の世に慣れ切っておりますな」土方歳三が代わって続けた。「公儀の講武所と言う所を見学する機会があったが、みなお義理で出席だけしておるような連中ばかりでな。兵法を伝授する所なのだから、師匠の眼鏡にかなえば、この太平の世で数少ない出世の糸口にもなろうものを、本気で洋式兵法を学んでいるのはほんの一握りだ。ただただ直参旗本であることに満足して、まるでやる気がない。御公儀も、御旗本衆のそんな有様を判っているから、浪士隊を募り、京へ出張させようとしておるのだ」
「それでは、皆様もその浪士隊に加わるので」近藤たちまでが不逞浪士の仲間に加わるのは、何となく不愉快だった。
「その通り、われら試衛館も加わることにした。君に稽古を付けてやるのも、これが最後だな」
弥助はとぼとぼと自分の村への道を歩いていた。なぜか、自分だけ取り残されるような気がした。
黒船来航の年、弥助は十歳だった。多感な年頃を迎えた弥助の目の前で、時代は動いていた。開国と輸出による物不足に端を発した急速なインフレ、それによる生活苦と共に広まる攘夷の雰囲気、これと尊王思想が結びつき、世情は騒然としていた。
弥助の家は代々村役人で、多少は裕福であった。こう言う家は、戦国までは地侍の家柄であったりするのだが、弥助の家はそうでもない。ただ、代々商人的感覚が周りの百姓より少しばかりすぐれていたに過ぎない。代々小金を貯めていたので、弥助の父のとき、開国インフレで窮乏化した本百姓から土地を買い、石高を十五石にまで増やすことに成功していた。
世渡りには教育が必要であることも理解していた弥助の父は、八王子宿で寺小屋をしている市井の国学者のもとへ、三歳上の兄と共に弥助を預けた事がある。代官所からの廻状などを読まされて、すでに基礎の出来ていた兄弟は、国文学や漢籍を貪るように読んだ。半年ほどいるうちに、そこそこの教養を身につけてしまった。謝礼は百姓らしく現物支給だった。米、野菜、ことに卵は喜ばれた。国学者一家がひとりひとつずつ食べた後、残りは妻が売りに行って現金に換えた。「お兄様たちは、いつもあんなおいしい物を食べてるの」と末の娘に言われた時は閉口した。
この「内地留学」は、唐突に終わった。父が、国学の教養だけでなく妙な思想まで吹き込まれては困ると思ったからだ。おりしも桜田門外の変が勃発し、水戸の国学かぶれが大老を斬ったのである。
しかし村に戻っても、尊王派、佐幕派の争いは聞こえてくる。父の村役人の仕事を手伝っていればなおさらだ。
弥助は今の自分を、
「攘夷派だ」
と思っている。開国後の急激なインフレは、西洋人のせいだと思っている。しかし、「夷人を斬れ」式の攘夷激派でもない。アヘン戦争はこの時期より二十年以上も前の出来事で、顛末は日本中には知れ渡っていた。当時の日本人から見れば、中国は超大国だ。これを簡単に打ち破ってしまった西洋の軍事力の優秀さは、百姓でも想像が付く。この単純な力の差をどう解決するのか、攘夷激派から納得のいく説明などなかった。
それでもじっとしていられず、多摩各地を回って剣術の稽古を付けてくれるという試衛館に入門した。そう言う道場が有ると聞いた時、何か行動すべきだという気がしたのだ。多摩でも治安が悪化していたので、親は許してくれたが、剣術は上達しなかった。だが今、試衛館は将軍警固のため京都へ上ると言う。みんな時代に参加しているのだ。自分だけ取り残されてしまった。十九歳の弥助の頬には、いつしか悔し涙がこぼれていた。
弥助の家の手前には、名主の屋敷がある。戦国の世までは地侍だったとかで、立派な門構えだ。その門の前に、人が群れている。弥助の父を含む、村役人衆が勢揃いしていた。
「何かございましたか」
弥助が声をかけた。
「おお」弥助の父が代表して答えた。「天野の御殿様からのお達しだ」
「御代官様でなくて、御殿様からですか」
旗本の知行は二百石から九千石程度まで様々であるが、一ヵ所にまとまっていたとは限らない。例えば、何か手柄を立てて加増されるときには、全国の幕府直轄領から知行主のいない土地を見つけてきて与えるのである。減封されるときはその逆だ。従って幕末ともなると、一人の旗本が別々の地方の数か所の村を領有しているのが珍しくなかった。また、一つの村を数人の知行主で分割領有していることも珍しくなかった。この状態で個別に知行地経営をしようとしても、あまりにも行政効率が悪いので、実際は幕府が各地に設置した代官所に統治を委託しており、そこが各地からプールした米を江戸の浅草蔵前の米蔵から受取るのが普通だった。だから農民側では、年貢を村単位で代官所に収めれば良かった。
村々では(江戸のような大都市でも同じだが)村の富裕層である村役人を中心として自治がおこなわれており、代官所も年貢などに不具合がない限り、介入してくることは珍しかった。
村々や代官所の枠内で解決できない問題、例えば武装強盗団の捕縛などは、「関八州見回り」が関東の大名や旗本の知行地に関係なく警察権を行使できることになっていた。
その様な訳で、知行主である旗本と村の農民との直接の接触は、江戸の屋敷へ奉公にでも上がれば別だが、ほとんど無かったと言ってよい。
その、影の薄い知行主からの書状が、珍しくも届いた。一体何の用事なのか。
「この村から、『兵賦』を差出せとのお言いつけだ」
「兵賦とは何だ、お父」
「読んでみろ」名主が、二通の書類を渡した。「用人の佐々木様が置いて行かれた」
ひとつは、知行主である天野喜太郎の物で、十七歳から四十五歳までの壮健な者をひとり選び、正月十日までに江戸の屋敷へ差出せと命じている。給金は、年十両ともある。
もうひとつは、この命令の元となった文書のようだ。題は「兵賦改定の布令」とある。「御軍制御改革に付」で始まるその文書は、旗本は石高に応じた人数の兵賦を差出す事、兵賦は銃隊に組立てるので陣営に居住させる事、年期は五年、優秀な者は特別に取立てる事も有り得ること、給金は旗本が払うが上限は年十両とする事、などが記載されていた。
「これは、御公儀が御旗本衆に出された御達しではないですか」弥助は驚いた。「こんな物の写しを、わしら百姓に見せても良いのでしょうか」
「まあ、秘密と言うほどの物でも無かろう。江戸には、この様な御公儀のお達しを集めては売っている者もいると聞くしな」
文書には耳慣れない言葉もあった。
「『歩兵組』に入るようですが、歩兵とは何でしょうか」
「さあ、歩く兵じゃから徒歩組のようなものかの」名主も首を傾げた。
「銃隊に組立てるのじゃから、八王子の千人組の様なものでは有りますまいか」村で雑貨屋を兼業していて出歩くことも多い百姓代が言った。
「それでは、西洋式の銃隊でございますか」それなら弥助も聞いた事がある。伊豆から多摩地方にかけての幕府領代官である江川太郎左衛門の指導で、身分の低い八王子千人同心は既に洋式銃隊化されていた。
「そうじゃ」百姓代が、得意げに説明した。「調練を見たことがあるが、それはすさまじい物じゃったぞ。何十人もが一列に並んで、師匠が『放て』と言うと一斉に鉄砲を撃つ。あそこに突っ込んだら武田の騎馬隊でもかなうまい。
面白いことに鉄砲の先に剣が付いておっての、鉄砲を槍として使える。騎馬隊の生き残りが突っかけてきても、穂先を揃えて防ぐらしい。
ただそのような戦い方を、おさむらい様がたは好まれないとも聞いた。我らは鉄砲足軽ではない、と・・・」
「それで百姓を兵隊にしようと言うのか」名主は呆れていた。「何のためのさむらいだ」
江戸時代、鉄砲は足軽の武器であり、武士団中の比率も定められてきた。堂々たる士分の者は槍をかざして騎馬突撃する。戦場の華である。武士がその華に固執すれば、百姓で鉄砲隊を編成する以外にない。
「それで、寄合はどう決まったのでございますか」
「まあ、わしから話そう」弥助の父がそう言うと、村役人たちはそれぞれ名主に別れを告げ、家路に就いた。
兵賦を依頼するのは、川向うの梅婆さんのせがれ竹吉に決し、もし応じなければ金納に替えるよう御殿様にお願いしてみることになったと言う。
水呑百姓(農地を持たない農民)の竹吉は平素から素行が悪く、三十に手が届こうというのにまだ独り者だ。他の兄弟が奉公に出たり、本百姓(農地持ち)に婿入りしたので、母親の梅婆さんと二人で暮らしている。兄弟に比べて特に出来の悪いこの倅を、婆さんが溺愛しているのも問題らしい。
「どこの村でも、こうなるのでないかな」と父はそう言った。厄介払いのいい機会だということらしい。
確かにそうかも知れない。が、そんな事で良いのか、弥助は物足りない思いで、その夜は眠れなかった。
予想されてはいたが、翌日の梅婆さん宅は荒れた。村役人が総出で押し掛けた事が、反って婆さんの神経を高ぶらせたようである。
「お前ら、寄ってたかって、何すんじゃい」梅婆さんは、鍬を振上げて村役人たちを家へ入れようともしない。「兵隊にとるじゃと。竹吉に槍を待たせて、斬り合いをしろちゅうのか。そんなことはさむらいに任せればええ」
「まあまあ。これは御公儀が新たに作る洋式鉄砲隊のお勤めだ。名誉なことだよ」名主がなんとか宥めようとする。弥助は、竹吉が暴れた時に備えて村の若者組ふたりを連れて、近くの木陰に待機させられていた。
「ふん、騙されんぞ。そんな鉄砲隊、どうせ侍どもの盾にされるにきまっとる。大体どこの大名といくさするつもりじゃ。帰れ帰れ」
「給金を村で五両上積みして十五両にするから、なんとか考えてもらえまいか」
「そんなら聞くが」戸口ががらりと開いて、棒を持った竹吉が現れた。「鉄砲隊なら鉄砲が渡されるのじゃろ。わしがその鉄砲を持って、この村に戻ってきて、暴れてもいいか」
「そんなことをすれば、捕り方に鉄砲で撃ち殺されるぞ。勝手に鉄砲を持出したりしたら、棒で殴られるぐらいでは済まんだろ」
弥助はこのやり取りを聞いてはっとした。昨夜から頭の中でもやもやしていたものが、頭の中で焦点を結んだ。
「みんな、聞いてくれ」弥助は木陰から飛び出した。
「兵賦には、おらがなる」
予想もしない展開に、一瞬その場が凍りついた。弥助の父などは、口もきけなかった。
「ははは、みんな聞いたか。坊ちゃんの弥助がなってくれるとよ」梅婆さんが皮肉な調子で言った。
「お前に憐れんでもらう積りはねえ」竹吉も態度を改めない。
「違う違う」弥助は父の方を見た。「広州の変(アヘン戦争)を知っとるだろう。あの戦争では、清国が英吉利に手もなく負けた」
村役人たちは、いきなり何を言出すのかという顔をして聞いている。
「この皇国も、西洋の国々に狙われとる」この時代、皇国という言葉は、まだ後世のように手垢にまみれておらず、ファッショナブルな語感が有った。
「それを防ぐには、欧羅巴と同じような兵備を整えるしかない。そのひとつが、この兵賦だと思う」
だから、鉄砲を勝手に持出す様な人間に任せる訳にはいかないと思った。
「お前、攘夷派では無かったのか」父は知っていたようだ。「西洋のものは嫌いでは」
「だから、西洋と互角に戦える様になりたいんじゃ」
「弥助までがそんな考えを持っていようとはな」名主は天を仰いだ。近ごろの若者は、百姓でも尊王だ攘夷だと政治にうつつを抜かす者が多いが、足もとにもいた。「この日本を夷敵から守りたいとは」
「そうだ。だから、おらが兵賦なる。兵賦になって、おらがこの国も、村のみんなも守る」
梅婆さんは、ご立派な事よと言って家に入った。こうして、兵賦は弥助と決まったが、母親を説得するのがまた一苦労だった。
文久三年正月-江戸
「道中苦労であった」天野喜太郎は屋敷に参集した兵賦たちを前にして言った。多摩の領地から弥助ともうひとり、上総からひとりが集まった。「今日は七草じゃ。多少の酒肴も整えるゆえ、まずはゆるりとせよ」
「徳川家の兵となるからには、剣術の稽古でも付けてやらねばなりませんかの」惣領|(後継ぎ)の伊織が横から言った。喜太郎は書院番の番士、つまり将軍親衛隊の騎兵であるが、近々、伊織に家督を譲る予定である。
「恐れながら、私は町道場に通いましたが、まるでものになりませんでした」弥助がおずおずと言った。
「ほう、どこの流派だ」二十七歳の伊織は興味を示した。
「天然理心流でございます」
「てんねんりしんりゅう?」伊織は首をひねる。「父上はご存知ですか」
「いや、知らぬ。近ごろ百姓町人に剣術を教える道場が増えているからな。流派が増えて、食を得るのにも苦労しているのであろう」
幕末には剣道も形骸化しており、型だけの流派も多かった。その中では、近藤らの天然理心流は実戦的だったらしい。
「そうなのでしょうな。弥助とやら、剣術が不出来なのによく兵賦を申出たな」
「兵賦は銃隊と聞きました由。これは、皇国を西洋の国から守る兵備と思い、申出ました」
「ほう、これは殊勝な心がけじゃ。」喜太郎は素直に喜んだ。「頼もしく思うぞ。とはいうものの、歩兵隊がどんな物かわしにもよく判らぬのだ」
「確かに、洋式銃陣の調練をする所らしいとは、平次郎も申しておりましたな。してみると、高島流でしょうか」
長崎町年寄の高島秋帆は、町人ながらオランダ人からヨーロッパの兵術を学び、私費を投じて高島流砲術を完成させた。アヘン戦争の報に衝撃を受けた幕府が、武州徳丸ヶ原で高島流の展示演習を行ったのが、これより二十二年前の天保十二年のことである。秋帆はその後、あの鳥居耀蔵の画策で投獄されたが、ペリー来航で釈放され、この時期幕府の講武所で砲術師範を勤めていた。
「ところでじゃ」喜太郎は多摩郡から来たもう一人の兵賦を見た。「友蔵、そちは四十三だったな」
「左様で」友蔵は平伏しながら言った。
「この弥助がはたち、そっちの」喜太郎は上総の兵賦を差した。「伊兵衛が二十五。確かに兵賦は四十五までだが、友蔵の歳ではきつかろう。いかなる仕儀でそちが選ばれたのじゃ」
「へい、まったくもって恐れ入ってございます。村の若い者は、老いた親を養うとか、嫁を娶ったばかりとか、幼な子を幾人も抱えているとか、それぞれに事情がございまして、手前が選ばれましてございます」友蔵は御殿様に会った緊張からか、こちこちになっていた。
「それはそうであろうが、そちにはそのような事情が無いのか」
「へい、手前はすでに親を亡くし、末の子供も十七になりましたので、養う者も居なくなりましてございます」「なるほど、そのような仕儀か」どうも納得できぬという顔つきだが、それ以上は追及しなかった。「それから伊兵衛、そちはどうじゃ」
「へい」上総の若者は、顔を上げるとぎょろりとした眼で喜太郎を見た。「暴れ者には兵隊が向いていると言われて、選ばれてまいりました」
「ほう」こうまであけすけに言うとは、喜太郎も予想外だった。「確かにその通りだが、暴れる場所をわきまえてもらわねば困る。上役の下知に従って暴れてくれ。烏合の衆という言葉は、そちも知っておろう?」
「へい」伊兵衛が平伏したので、話はそれまでになった。
兵賦の身分は武家奉公人扱いであり、武士でも農民でもない。食事は、同じ武家奉公人の中間たちと一緒にとることになったが、彼らの中には「兵賦は『小揚の者に次ぐ』のじゃろう」と不愉快な顔をする者もいた。小揚の者とは浅草にある幕府の米蔵で働いている人足の事である。中間は、脇差を差し主人の供をするので人足よりは上だ。武家社会では最下層の身分であるだけに、彼らは些細な差に敏感なのである。
「まあ、お陰でわしらも一杯やれるのじゃ。そう、じゃけんにするな」年長の者が宥めているところへ、何人かの下女たちが、膳を運んできた。弥助のまえに膳を置いたのは、同年輩の若い娘だった。江戸の町育ちなのか、地味な衣服でも垢ぬけして感じられる。
「どうぞ」と言うので、杯に酒を受ける。口に運ぼうとすると、「まだ飲んではなりませんよ」と片手で押さえられた。「乾杯してからです」
何か、香しいものが弥助の鼻の奥をくすぐった。
「若いの、二杯目からは手酌だぞ」年長者が冷やかし、彼の音頭で乾杯した。
それぞれが自己紹介などしていると、床板を踏みならしてずかずかと一人の年配の女性が入ってきた。羽織った内掛けが身分を暗示している。
「これは大奥様、かような所へ」中間たちは居住いを正す。当主の妻が奉公人の部屋へ来るなど、めったにないことである。彼女が大奥様なら、惣領の伊織にも妻がいて若奥様と呼ばれているに違いない。
大奥様が口を開くと、お歯黒をしているのが見えた。眉も剃り落しているので、始めて見る弥助にはかなり不気味だった。
「西洋の銃陣を学びに兵賦を申出たと言うのは誰じゃ」
旗本の奥様ともなると、威圧的な物言いを身につけているものだと思った。
「私でございます」弥助が答えた。
「『私』か。百姓の分際で、上品な物言いよのう」何が気に入らないのか、一人称に文句を付けてきた。「良いか、兵賦となったからは唯々上役の下知に従い、何も考えず、業前を磨いておれば良い。洋式兵法を覚えようなどと思ってはいかぬ。百姓は百姓らしく、士分の上役に従っておればよい。出世など望んではならんぞ。頭を使ってもならぬ」
弥助はあっけにとられた。頭を使ってはならぬと言われたのは、生まれて始めてである。
「母上、そう頭ごなしに言わずとも」大奥様の後ろから、若い武士が現れた。「この者たちは、当家のために兵賦なるのですから」
「お前は蘭学ばかりやっているから、そんな呑気なのです」
諸藩では蘭学を学ぶものが少なくなかったが、旗本御家人などの直参社会は冷淡だった。勝海舟が急速に出世できたのには、その様な事情もある。
「その蘭学のおかげで、新設の陸軍にお役が頂けるのですよ」
すでに、正式に「陸軍」という名で幕府の西洋式地上軍は発足していた。日本「陸軍」を最初に作ったのは、徳川幕府なのである。
「その陸軍というのは、百姓に鉄砲を持たせる所ではないですか。近年は百姓町人まで、蘭学だ、いや尊王攘夷だの国学だのと学問や政治にうつつを抜かし、年貢も満足に払おうとしません。その百姓に鉄砲を教えるなぞ、益々ゆゆしきこと」
「御公儀もいろいろ悩まれた上での事なのです。ここは冷えますゆえ、お部屋にお戻りください」
それでも大奥様は、丸亀の甲斐守様が江戸におられたらこの様な事にはならなかった、などと不平を鳴らしながら奥へ戻って行った。
「すまぬの。母上は最近、癇が強くてのう。動悸がするときは、特に苛々するらしい」若い武士は腰をおろした。「当家の次男、平次郎だ。西洋の軍と戦うために兵賦になったと申したのは、お前か」
ずいぶん波乱を呼ぶ事を言ってしまったと後悔した。
「左様で」
「私も、洋式銃隊となった御持小筒組の指図役下役を仰せ付かることになった。広州の変を知り、夷敵と戦うためには彼らの兵法を学ばねばと思っての、公儀の講武所で砲術を学んだ」
近藤らが見学したものの、幻滅したという講武所であるが、例外もいたらしい。アヘン戦争に危機感を抱いたと言う所に、弥助は特に親近感を抱いた。
「私のような部屋住みの厄介は、新しい学問でも身に付けねば、養子の口とてあるかどうか判らぬ」
それは謙遜だろう、と弥助は思った。千三百石の直参旗本の若様である。そこそこの家柄に婿入りできるであろう。それに安住せず、洋式兵学を学び陸軍に召出されたのは、この時代の旗本としてはかなり優秀と言っていい。
「大奥様のおっしゃる甲斐守様とは、鳥居様のことでございますか」
蛮社の獄で、蘭学者を弾圧した江戸町奉行鳥居甲斐守耀三は、その後失脚して丸亀藩へお預けとなっていた。
「大きな声では言えんが、その通りだ。母上は最近、ひどく洋学嫌いになられてのう。私が、洋式兵学の調練方法をお話し申し上げると、武士たる者がそのようなことをしてはならぬと、ひどく不機嫌になられる。同じく洋学嫌いであった甲斐守様をひどく懐かしんでおられるのだ。
私は洋学で身を立てようとしているのに、どうしたものかのう」
「大奥様は昔風の方でございますので、武士が飛び道具など潔しとしないのでしょう」と年長の中間が励ました。「若様がお役目でご出世なされれば、きっと喜んでいただけますよ」
「左様であればよいのだが」平次郎はしばし物思いに耽ると、
「おまえたちとも調練の場で会うことがあるやもしれぬ。宜しくな」
とさわやかに言って去った。
それからしばらく、何事もない日々が続いた。弥助たちは、ただひたすら屋敷で待機しているだけで、公儀からは何も言って来ない。彼らの面倒をみている天野家用人佐々木の話では、屯所の建築が遅れているようだった。
自分から乱暴者だと言っていた伊兵衛だが、家が副業で村の大工をやっていたので、女たちの依頼で屋敷のあちこちを修繕し、喜ばれていた。弥助も、それを手伝い、大工仕事が存外面白いものだと知った。
友蔵は、長年の農業経験から天野家の家庭菜園の改善を指導し、これまた喜ばれていた。使用人には農村出身者もいるのだが、若いころから奉公に出ているので農業知識は必ずしも充分ではなかったのである。
弥助に膳を運んだ娘は、お志乃と言い二つ年上だった。町生まれのくせに百姓仕事に興味を持ち、よく友蔵を手伝っていた。弥助もそれを見ると落ち着かなくなって、三人で作業するのであった。
二月、清川八郎の例の浪士組が伝通院に集合して上京したとの噂が流れてきた。近藤や土方らも加わったのだろうか。ちなみに、「上京」とは天皇のいる都へ向かう事なので、この時代では京都である。
ところが三月にはまた噂が流れてきて、その浪士組はすでに江戸に戻ったという。とすると、近藤らも帰ってきたのだろうか。単なる風説ではもどかしい。弥助は、かねてより計画していたことを実行する事にした。
用人佐々木の許しを得、歩兵の給金の一部としてもらっていた金を持って出かけた。伊兵衛も、ひとりでは物騒だと言って付いてきた。昌平坂を下り、神田へ出る。
「もし」道行く町人を捕まえて聞く。「御成道とはどこですか」
「おめえさんの立ってる、この通りよ」
町人は礼を言う暇も与えず、そそくさと去って行った。「するってえと、この辺か」伊兵衛には早くも江戸弁が身に付き始めている。「ああ、あそこに古本を売ってるのがいるぞ」
彼らは、道ばたに敷いた蓆に本を並べている男を見つけた。噂どおり、素麺の箱らしきものを机にして何事か書きつけている。
ふたりはその男の前に立ち、弥助が尋ねた。
「藤岡屋さんですか」
男が顔を上げた。もうかなりの老人と言っていい。が、その眼は炯々(けいけい)として知力を未だ失っていなかった。
「そうだが。おめえさんがた、百姓か」
「もうすぐ兵賦としてお勤めすることになっている」
「ほう、陸軍の歩兵組かね」藤岡屋は即座に興味を示した。噂どおりの情報通らしい。「その兵賦が、わしの何の用じゃ」
「先月、庄内藩の清河八郎様率いる浪士隊が京へ上ったがすぐ戻って来たろう。その中に近藤勇と言う御仁がいる筈だが、その消息を知りたい」
「ほほう」藤岡屋は手紙の束を調べ始めた。「整理していない分に入っておったわい」
「本当か。見せてくれ」
「その前に、値を付けるぞ」藤岡屋は、これで飯を食っているのだ。「二百文と言いたいところじゃが、どうじゃろう、陸軍の屯所に入ったら、中の様子を時々教えてもらえまいか」
「ふうむ」弥助は考え込んだ。
「陸軍の様子を教えてもらったら、そのたびに代金を払おう。取敢えずこの二百文はつけておいて、代金から差引くことにしよう。どうじゃ」
「御殿様から給金を貰う以上、御公儀を裏切るようなことはできん」弥助たちには、軍事機密だの守秘義務だのと言った概念はまだ普及していないが、やはり抵抗があった。
「いや、屯所の飯はどんなものが出るとか、調練は何をやったとか、そんなことを教えてもらえればいいのよ」
「それなら、いいじゃねえか。弥助が教えてえ事だけを教えればいい。お上を裏切ることは教えなければ」それまで黙っていた伊兵衛が口をはさんだ。「それに年十両の給金で、義理立てすることはあるめえ」
江戸市民の年収が十両から二十両、決して高給取りではない。
「ふうむ」弥助はまた考え込んだ。「これから、私が教えた事は、帳面につけておいてもらおう。銭で貰うか、その書付を読ませて貰うかは、その時決める」
「よし決まった。帳面に付けておくからな。まずは二百文貸じゃ」そう言いながら、藤岡屋は先ほどの手紙を弥助に渡した。「あっちで見てくれ。次の客がおる」
弥助は十歩ほど離れたところで書付を呼んだ。近藤、土方をはじめ試衛館の面々は、清河らと袂を分かち京都に居残ったらしい。
「見てみろよ」伊兵衛が突つくので顔をあげると、藤岡屋がずいぶん立派な身なりの武士と話をしている。武士から何か受け取ると、書付を渡して読ませている。「商売繁盛してるじゃねえか」
藤岡屋が集めた情報は、江戸市中のゴシップや都市伝説のたぐいから、幕府の公文書・人事異動表や幕閣の動静に至るまで多岐にわたり、「藤岡屋日記」として今日でも見る事ができる。新聞を読む様な感覚で当時を時系列で追体験できる興味深い史料だが、この当時の中小藩の江戸留守居役と言った立場の人々とっても貴重な情報源であった。
武士が帰ると、藤岡屋が手招きした。
「品川沖に、英吉利の軍艦が現れた。例の生麦の一件の弁償金を取立てに来たらしい」
「あれは薩州の仕業じゃねえか。それが何で江戸に来る」伊兵衛が訊く。
「夷国には、公儀が『日本国政府』ということになっている」藤岡屋が説明した。
「せいふ?」弥助にも聞きなれない言葉だった。
「まつりごとをする役所という意味だ。まさに公儀のことだな。西洋の言葉の訳語らしい。徳川家が皇国の公儀である以上、薩州の仕業だから知らぬとは言えまい」
遠くで瓦版売りが声を張り上げ始めた。品川、英吉利という言葉が切れ切れに聞こえる。
「話合いに埒が明かなければ、船将の職権で戦争に及ぶと脅しているようだ。お前さんがたも、早く帰った方がいい」
ふたりは、藤岡屋の元を辞した。英艦出現の情報が伝わってきたのか、町が次第に騒がしくなってゆく。
すると、先に立っていた伊兵衛が、突然弥助を物陰に引張り込んだ。
「伊織様だ」
珍しく着流し姿の、天野家の惣領がそこにいた。
「それならご挨拶せねば」
「出てきた店を良く見てみろ。出会茶屋だ」
訳有りの男女が密会をする場所である。不忍池近辺が有名だが、神田のこんな目立たない場所にも有ったのだ。伊織はすばやく辺りを見回すと、その場を去った。
「二児のお父上が、誰としけこんだ?」
伊兵衛が皮肉な調子で言った。続いて出て来る人物がその答えだ。
「お志乃ちゃんか。歳の割に艶っぽいと思ったら、なるほどね」
伊兵衛は、腰を抜かしている弥助を引きずって屋敷まで戻らねばならなかった。
文久三年五月-西の丸屯所
「去る五月十日、長州が攘夷を決行したと聞く」天野家用人の佐々木が、意外と事情通であることを披露した。「軍艦でもない商人の船を、外国船と言うだけでいきなり砲撃したらしい。いずれ、欧羅巴の艦隊が仕返しに来るであろう。仕返しが、長州だけで済めば良いのだが。西洋式の海軍や陸軍の整備は、もはや急務となった。それもすべてそなた達の精進にかかっておる。たのむぞ」
弥助ら三人は、江戸城西丸下の歩兵屯所に出頭していた。いよいよ陸軍に引渡されるのだ。
「佐々木様、お世話になりました」三人は口々に言った。天野屋敷は仮の住まいであったから、特に心残りはなかったが、お志乃の事が弥助には気掛かりだった。
英艦隊と戦争に備えて、天野家も女子供を伊兵衛の村へ疎開させたが、お志乃はその時暇を出されてそれきりになった。友蔵が下女たちから聞いた所によると、伊織との仲が大奥様の知る所となったらしい。若奥様が後継ぎの男子を産んでいる以上、妾はいらないと言うことのようだった。
代わって、三人の前に青年武士が立った。
「私は、歩兵指図役下役の佐藤数馬だ。今日よりその方らを預かる。講武所では、天野平次郎殿には親しくして頂いた」なるほど、天野家の次男と同年配、二十二・三に見える。「その方らは、西丸下三番小隊に編入される。皆に紹介するから、付いて参れ」
屯所内には、いくつもの小屋が建てられていた。彼らは、「三番小隊」と札のかかった小屋に案内された。中には先に入営した者たちが、たむろしている。
「四十人ほどになる予定だが、これでやっと三十二人だな。皆に紹介しよう。ええとまず、四十三歳、友蔵と申すのは、そちだな」
「左様でございます、旦那様」
「数馬様で良い。陸軍は新しいお役目なので、殿様も旦那様もごっちゃになっとる」江戸の庶民は、旗本の当主をお殿様、御家人を旦那様と呼んで区別していた。「佐藤様も何人か居るしな、数馬様で良い」
あとで判ったことであるが、数馬は五百石の旗本の惣領であり、お殿様が正解だった。
彼は書類をめくった。
「次は、二十五歳、伊兵衛はそちか」
「左様で」
「大工の腕はなかなかのものだと、平次郎殿から聞いておる。陸軍でも築造の時など腕を振ってもらうぞ」
「滅相もございません」
「それから、はたち、弥助はそちだな」
「左様でございます」
「そちは、村役人の倅で、読書きがかなりできると聞いたが」
先輩兵賦の間から、ほうっという声が上がった。お坊ちゃまじゃねぇか、と誰かが言うのが聞こえた。
「はい、お上へのお届出なども書いておりました」
「それは有難い。そのうち、手伝いを頼むやもしれぬ」
「お役に立てますれば」
「うむ。兵賦の年期は五年だが、品によりお取立てもある。三人とも励んでくれ。
それから、皆に言っておくが、人数が揃ってきたので明日から調練を始める。ゆっくり休んでおくように」
それだけ言うと、数馬は去って行った。
小屋で話を聞いてみると、他の兵賦たちもここ二、三日の間に入営した者らしい。村役人の息子がなぜ兵賦になったのか、理由を知りたがった。
「へえ、じゃ何かい、お前さん自分から名乗り出たのかい。おい、寅吉、お前の同類がいたぜ」
三十がらみで、早くもまとめ役になっているらしい清八という男が声をかけた。
「どういうことだ」
と、伊兵衛と同年輩の男がやってきた。聞けば寅吉は秩父育ちの猟師だが、武州のどこかの村の兵賦の代人としてやってきた。鉄砲の腕で、世に出たかったのだという。同類とは志願者と言うことらしい。
「代人とは、その村のもんの代わりと言う事かい」
友蔵がそう聞き返した。
「そう、別に村の人別に限るという決まりは無かろう」
確かに、幕府の通達は人別(戸籍)には言及していなかった。そんなことができるのか、と友蔵はつぶやいていた。
聞けば、寅吉の給金は二十五両だという。
「もっとも、俺が貰うのは十五両で、残りは村の水車を修繕するのに使うそうだ」
これを機に、そんな費用を知行主から搾りとったのである。
天野家も、結局十五両の給金を払うことにしたのだが、聞いてみると他家ではもっと払っている例もあり、金額もかなりのばらつきがあった。幕府の通達では十両が上限だったはずだ。十三両しか貰っていない者は、知行主にねじ込んで来年は値上げして貰うのだと息巻いていた。
「枕を並べて討死するかもしれんちゅうに、こんなに給金が違ってはのう。何で、御公儀が直接兵賦を御雇入れなかったんだ」伊兵衛が腕組みしながら言った。郷里では乱暴者で通っていたかもしれないが、決して馬鹿ではなかった。
「それよ」清八が言った。「聞いた話だと、兵賦は四、五千人も集めるらしい。兵賦ひとり十両として、五千人だと、指折り数えて・・・」と、指を折り始めた。この時代、一般の農民であっても基礎的な「読書きそろばん」の教育は受けていた。二百五十年の平和がもたらした功績だ。が、そのために尊王思想などが普及して幕府を揺るがしたのは皮肉であった。
「五万両ですか」弥助が言った。
「お、早いねえ」
「十両なら桁を一つ上げればええ」横から、愚鈍そうな男が口を挟んだ。
「やかましいやい。お前に言われたかねえや」と言ったところを見ると、本当に算術は苦手らしい。「つまりだ、お上としては毎年新らしく五万両必要になるわけだ。何かと出費がかさんでいるお上としては、おいそれと出せる金額じゃねえよな」
「そこで、御旗本衆に給金を出させたわけですか」
「そうじゃねえかと睨んでる」
旗本が一部を除いて幕府軍の近代化に役立っていない現状では、こうするしかないのかも知れない。
夕方、上等とは言えないが滋養はまずまずの食事が出た。特に白米の飯が出たのには、驚いた。村では庄屋でも雑穀入りの飯を食べて、米を節約しているのである。米は年貢であり、現金収入のための商品作物でもあった。
弥助は、藤岡屋との約束を思い出し献立を書きとめた。ついでながら、三番小隊で筆記用具を持込んだのは、弥助だけだった。
前近代の人たちは、明るくなると目が覚める。活動時間は基本的に夜明けから日没までである。
西丸下屯所での最初の朝を迎えた弥助は、早く目が覚めてしまった。
「起きたか」隣の伊兵衛が小声で訊いてきた。
「ああ」
すると、例の愚鈍そうな男、上州から来た定吉が小声で教えてくれた。
「西洋の六時とかになると、太鼓を叩いて起しにくる。それまでは寝とけ」
確かに、しばらくすると、ドンドンと太鼓を叩く音がやってきた。
「起床!」指図役と思われる武士が、小屋を回っている
「銘々、台所から膳を持て。それから、厠を済ませておくように。調練の途中ではゆけんぞ」
それを聞いて、定吉がつぶやいた。
「厠へは、皆いっぺんには入れんべ。中村様もむちゃを言う」
一同、台所へ行き膳をひとつずつ持って小屋へ戻る。何十人もが集まれば当然行列ができるので、この間に厠を済ませる者もいた。
太鼓の合図で一斉に食事を始める。皆農民の出だから、残す者などいない。今日は暑いからと、湯冷ましも強制的に飲まされた。再び太鼓の音で食事が終ると、弥助ももよおして厠へ立った。
小屋へ戻る途中、衣服の入った駄荷袋を一人ずつ渡される。
「歩兵指図役下役の、橋本新之助である」三十路半ばほどの武士が小屋にやってきた。火事装束の様な、和装とも洋装ともつかない服装をして、陣笠をかぶっている。「これから、配った戎服の説明をするぞ」
耳をそばだてると、ほかの小屋でも同じことをやっているらしい。
「戎服とは陸軍のお仕着せの事だ。拙者が今着ているのもそれだ。士官用だがな」
この時期、「士官」という語は洋式軍隊の幹部を示す言葉として、すでに普及していた。
「では友蔵、ここへ参れ」友蔵はおどおどと前に出た。最年長だから、物覚えが悪いとみられたのだろうか。まずはふんどし一丁にされた。
「まずこれがシャモ袴だ、穿いてみよ。股引の様な物だが、判るか」股引は、江戸時代職人の作業着として広く普及していたが、安土桃山時代にポルトガルから伝わったと言われる。洋式陸軍の制服としては、ふさわしいと言えるかも知れない。友蔵は、紺木綿のその衣服を多少戸惑いながらも身に付けた。
「うむ、百姓はさすがに着慣れておるな」よく見ると、なるほど橋本も同じものを穿いている。武士が最初に身に着けた時は戸惑ったに違いない。「皆も穿いてみよ」
全員が立ち上って、ふんどし一丁になり、シャモ袴を穿いた。
「次は襦袢だ。三枚あるはずだからよく見てみよ」
全員が数を数え、白い襦袢を着る。
「次は胴着だ。西洋風に筒袖になっとる。紺が冬服、白が夏服だ。今は五月だから夏服だな」
西洋式の調練をするのに和風のゆったりとした着物では具合が悪い。西洋式の細い袖を筒袖と言った。要するに、和裁の技術で洋服風に着物を仕立てたのだ。従ってボタンなどはまだ無く、前を合わせて紐と帯で止めた。次に足袋をはき、ついでにわらじの大きさを確認した。
「次はこの革バンドだ。バンドとはあちらの言葉で帯の意味だ。太いほうのバンドを腰に回して、止める。細いほうのバンドを肩に掛けて、腰のバンドを吊るようにする。バンドについている胴乱には、玉薬を入れる」
玉薬とは火薬の事で、つまり「革バント」とは弾帯(ガンベルト)である。もちろん、実弾はまだ入っていない。
「最後に笠をかぶれ。先代の江川太郎左衛門殿が、歩兵のために特に考案されたものだ」
兵賦たちの間から、へぇー、と言う声が上がった。先代の韮山代官江川太郎左衛門英龍は、伊豆、相模、武蔵の幕府領十万石を治め有能な行政官として農民に人気があった。後世、幕府への洋式兵学導入の推進者として知られるが、民政でも有能であった。その二足のわらじのため過労が祟ったか、安政二年に病死してしまった。ちなみに「太郎左衛門」は世襲の名乗りであるので、現在の代官も「太郎左衛門」を名乗っている。
「できたか。では調練場へ出でよ」
屯所から出てきた兵賦たちは、広場に集合した。小屋ごとに、三、四十人の集団に分けられて並んだ。
そこへ、騎馬の武士が現れた。兵賦たちと同じような服装だが、日本古来の陣笠をかぶり、陣羽織を着ていた。
「歩兵頭並の溝口八十五郎である。西の丸屯所の列獅綿多を預かることになった。内外の情勢多難の折、そなた達の出番も意外と速いかもしれん。業前の習得に務め、公辺のお役に立てる様、心がけてくれ。では、小隊ごとに調練はじめ」
溝口が下がると、弥助の集団の前に四十がらみの男が立った。
「歩兵指図役の吉岡英之進である。我らは、西丸下三番小隊と相成った。何をするにせよ、この小隊ごとに行う。一蓮托生じゃ。よく覚えておくように」
どうやら、三、四十人の「小隊」がいくつも集まって、列獅綿多とやらが出来ているらしかった。一小隊四十人、十小隊で一大隊、二大隊で列獅綿多になる構想であるのを弥助達が知ったのは、だいぶのちの事であった。
「そちら存じ寄りのこの三人が、歩兵指図役下役として直接指南する。また相談事があれば、この三人に相談するように」そう言って、数馬、中村、橋本の三人をあらためて紹介した。
調練はまず並び方から始まった。気をつけ、前へならえ、休め、などの号令は、江川英龍がオランダ式兵術を導入するときに考案させた物だと言われる。兵賦たちは、現代の小学生と同じように、整列の動作を繰返した。
二列や四列での整列が出来るようになると、昼食をはさんで、歩調を合わせて歩く練習である。中村が、ブリキ太鼓を叩きながら「いち、に。いち、に」とリズムを付ける。これも、次第に恰好がつくようになってゆく。
日が傾くころ、彼らは疲れきって屯所へ戻って行った。
そう、集団行動の訓練を受けた彼らをもう兵賦ではなく、歩兵と呼ぶことにしよう。
歩兵達が、行進の調練で疲れきったのには訳がある。江戸時代は、歩き方が現代と違ったらしい。西洋人は体を直立し、腰をひねって歩く。左右の腕は、足とは逆方向に振る。靴は、これに適して発達した履物であろう。
当時の日本人は体をひねらず、重心を前へ倒して歩いた。左右の腕を振ることはない。和装に適した歩き方である。
洋式の調練をする以上、歩き方、走り方も西洋式に改めなければいけない。歩兵達は、慣れない動作で慣れない筋肉を使うことを強要されたのである。
当然、翌日の起床時には、「痛たたっ!」と言う叫び声があちこちから上がった。友蔵などは泣きそうであった。
「どれ、わしが揉んでやろう。あんまの心得がある」甚平という四十がらみの男のお陰で、多少楽になった。
それでも調練は容赦なく続いたので、甚平の技術は瞬く間に屯所内に広まった。
調練の始まった五月は西洋暦では六月、梅雨である。雨の日は、小屋で座学だ。数馬が西洋の鉄砲を持ってやって来た。
「これより鉄砲の説明をする。歩兵の鉄砲は、小銃と言う。大砲に対して、小銃だな。お前たちの中で、火縄の和筒を扱った者はおるか」
猟師の寅吉を始め、何人かが手を挙げた。
「それでは定吉、鉄砲を扱う上で一番大切なことは何だ」
「へい」定吉は、愚鈍そうな顔に似合わずよどみなく答えた。「筒先を人に向けちゃなんねぇと言われました。暴れ猪が出た時にお代官様から鉄砲をお預かりしたのですが、猟師の親方にそれだけは厳しく躾けられました。弾が入っていなくとも、人にむけちゃなんねえと」
「その通り。誤って人を撃ったら大変なことだ。だから、普段から癖をつけておくのだ。弾が入っていなくても筒先を人に向けてはならない。皆も知っているように、癖と言うのは恐ろしいものだ。この心得だけは絶対忘れるな。そのほかには」
「火縄の火が玉薬に飛び火しないようにと」当時は黒色火薬しかなく、引火には神経を使った。
「そうだな、和筒は火縄の裸火が、引金を引く事で玉薬に燃え移る。洋銃はそこの所が改良されておる。
まず、火縄を火打石に改めたものができた。こうするだけで、いろいろな面倒が避けられる。寅吉、どう思う」
「へい」鉄砲の実用に関しては、旗本の数馬よりも猟師の寅吉の方が数倍経験がある。「火種をいつも持ち歩かなくても済みます。何しろ、火薬と火種でございますから、一緒に持ち歩くだけでも、気疲れいたしやす」
「そうであろう。そんな物を持って、何日も山歩きをするのだ。さぞ、気骨が折れるだろうな。火縄を火打石に改めるだけでその様な面倒は避けられる。今ではもっと進んで、この雷管というものを使う」
数馬は、小さな金属製の筒を皆に見せた。
「これには、雷汞という敏感な火薬が入っている。金槌で叩くだけで爆発する火薬だ。これを」
数馬は小銃を掲げた。
「この火門という穴に差込む。引金を引くと、打金が落ち雷管を叩いて爆発し、玉薬にも火が着くという仕掛けだ」
数馬はここで小銃を寅吉に渡すと、外を見回してから、
「引金を引いてみよ」
と、庭を指し示す。
寅吉は、庭に向かって小銃を構え、やはり無人を確認すると、引金を引いた。固い金属音と共に打金が落ちる。
「何じゃこりゃ」寅吉が驚く。「引金が固い。狙いがぶれてしまう。これじゃ当たらん」
「その通り」
「それに、よく見ると作りが雑でございますな」
「左様。的に当てると言う事では、実は火縄の和筒の方が優れている」
ほう、と歩兵達は驚いた。西洋の物だからと言って、何でも優れている訳ではないのだ。だがそれには合理的な理由が有る事を、数馬は説明した。
「和筒を使いこなすには、相応の修業が必要だ。洋銃は、あちらでは何万人もの兵に与えるので、作りが簡単で調練も簡単に出来る様作られている。その代わり、当りにくいので何十人もが一斉に放つことでその欠点を補う」
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、皆この諺を思い出した。
「この形式の銃をゲベールと言うが、これは阿蘭陀の言葉で歩兵という意味だ。まさに、歩兵のための小銃だな」
ここで数馬は、先のとがった棒のようなものを取り出した。
「これを銃剣と言う。脇差として皆に配る。ゲベールの先にこうやって取り付けるのだ」
「おお」歩兵達は一様に感心した。「槍だ」
「その通り。洋銃でも一発ずつしか撃てんからな、騎馬の兵などは討ち漏らした奴が突っかけてくる。そのような時は、皆で隊列を組んで、穂先を揃え撃退する。その陣形も稽古して貰うぞ。皆、お互いに護り合うのだ」
この銃剣は真鍮製で、刃は付いていない。ロッド式と分類されるものである。
「ところで数馬様、西洋にはヤーゲルと言う良く当たる鉄砲があると聞きましたが」寅吉が、猟師らしい専門知識を披露した。
「さすがによく知っておるな。和筒もこのゲベールも、筒の中はつるつるだが、ヤーゲルはらせんの溝をきっておる。これに弾を込めて撃つと、らせんのお陰で弾がくるくる回転しながら飛んでゆく」
「弾が回転すると、どうなるのでございましょうか」寅吉は興味津々である。
「皆、子供のころコマで遊んだであろう。コマは回っていればまっすぐ立っている。ヤーゲルの弾も同じ事で、回っているからまっすぐ飛んでゆく」
「なるほど、そういう理屈でよく当たるのですか」
「ただ、円弾を筒口から込めるとき、らせんに引っ掛るので込めにくい。和筒の三倍の時間がかかるので、敵を目の前にして素早く弾込めする歩兵には向かない。ヤーゲルとは猟師という意味だが、確かに猟師向けの銃だな」
「おらは、そのヤーゲルが欲しい」
「まあ待て、私も考えるところがあるゆえ、しばらくはゲベールで調練に励んでおれ。
ところで、明日からは皆に小銃を渡す。まずは、銃に慣れてもらう」
翌日、歩兵達は小銃を配られ、広場に整列した。担え銃、の号令で肩に担ぐ。数馬たちが回って、姿勢が悪い兵をビシビシ治す。そうでないと、長距離行軍などには耐えられないのである。ゲベールは約四キロある。これを担いだまま、行軍隊形から、二列側面縦隊、二列横隊、攻撃縦隊への転換を調練した。数日それをくりかえし、銃の長さと重みを体で覚えた頃、銃剣を付けてまた同じことを繰り返す。それが終ると、また座学である。各部品の名称を暗記させ、装填法を覚える。実弾を込めずに、銃で実際に操作させる。手順を間違えると危険なので、覚えの悪いものは居残りさせてでも徹底的にしごかれた。おかげで、居眠りしながらでも手だけは自動的に動くようになった。
初めての射撃訓練は、屯所内の射撃場だった。最初は指図役が見ている前で装填する。指図役と指図役下役が合わせて四人しかいないので、一度に四人ずつ行う。
弾丸と一発分の黒色火薬は、ハトロン紙に包まれている。薬包と言うが、寅吉が「早合だな」と呟いたように、我国でも類似の工夫が戦国時代から存在した。
「込め銃」の号令で、左手で銃を支えつつ、腰の胴乱からこの弾薬を取り出し、右手で持ちながら紙を食い破って筒口から注ぎ込む。
「それは逆だ、やり直し」と、さっそく叱責の声が飛ぶ。弾丸と火薬を逆さに注ぎ込んだ者がいるらしい。
他の者は、筒口から槊杖を差し込み、二度つついて弾と火薬を押し固める。槊杖は前装銃には必需品なので、銃身の下に収まるようになっている。
次に、打金を起こし、胸の革箱から雷管を取出して火門に差込む。打金をそっと下して、休めの姿勢をとり、待機する。
全員が待機姿勢になると、「かまえ」の号令で打金を再び起こし、「狙え」で照準する。この時代の小銃には、すでに照門と照星が標準装備されているので、照準法は現代と変わりない。「台尻を肩に付けるので、狙いやすい」とは寅吉の感想だった。和筒に台尻は無く、両手で支えるしかない。洋銃より修練がいる理由の一つである。
そして、「撃て」の号令で、一斉に発砲する。「目を瞑るな!」と再び叱責が飛ぶ。発射の瞬間に、目を閉じる者がいたのだ。それでは当たらない。
一分間に三回発砲できるのが、前装銃時代の一人前の歩兵である。これを目標に、繰返し稽古させられた。
この頃、西の丸で火事があった。歩兵達は、消火の道具も無く訓練も受けていなかったので奥女中の避難を手伝うことぐらいしかできなかった。弥助は一人の若い女性が凛とした声で、避難の指示をしているのを見かけた。
「あれは天璋院様だ。噂にたがわぬ男勝りよ」と、指図役の一人が言っているのが聞こえた。
翌日から焼け跡の後片付けに駆り出された。作業の合間の休憩時間に、数馬が内外の情勢を教えてくれる。ついに長州藩が、外国船打払いの報復攻撃を受けたという。まず六月一日、米艦ワイオミングが、砲六門の小型艦なのに長州海軍を壊滅させた。太平洋戦争中に東京初空襲を敢行したドーリットル爆撃隊を思わせる、鮮やかなヒット・アンド・アウェイ作戦であった。六月五日には、仏艦セミラミス(砲三十六門)とタンクレード(砲六門)がやってきて、壇ノ浦と前田砲台を破壊し、攘夷の実行手段を奪ってしまった。
「海軍はすでに蒸気船の時代に入っている」握り飯を頬張る部下を前に、数馬は言った。「機械力対機械力の戦争では、機械の出来が物をいう。和筒と西洋の大砲では、出来が違いすぎる。そこがせめて互角でなければ、武勇も発揮しようがない」
弥助は、攘夷派の自分が幕府陸軍に入ったのは、やはり正解だったと思った。何しろ、腐っても幕府、日本最大の西洋式軍隊なのである。少なくとも、武器の性能で引けを取ることはないであろう。
しかし、敗戦に打ちひしがれた長州で、奇兵隊というライバルが編成されつつあることを、彼らはまだ知らない。
続く七月二日から四日にかけて、鹿児島では薩英戦争が戦われた。生麦事件の賠償問題がこじれて、七隻のイギリス東洋艦隊の襲撃を受けた薩摩藩だったが、かなり善戦し、意外なことに戦死者はイギリス側が多い。しかもその中には、旗艦の艦長と副長まで入っている。兵器の性能差が有り過ぎるため油断したのか、うっかり薩摩砲台の射程内に入ってしまったのだ。さらに、自慢のアームストロング砲にも故障が頻発した。砲身爆発もしたらしい。開発されたばかりの初期段階の後装砲であるため、まだ欠陥が克服されていなかったようだ。「最新兵器」が、必ずしも強いとは限らない。実戦での能力は、カタログスペックを見ただけでは判らないのだ。近代戦の難しさである。
薩摩藩も、鹿児島城下五百戸余りや近代工場の集成館が焼かれ、薩摩海軍の蒸気船もすべて破壊されてしまい、被害は甚大だった。
だが、予想外の手傷を負わされたイギリスが、敵ながら天晴れと、この後薩摩に近づいて行くのは皮肉な現象である。
八月に入った。このころ、洋学者や貿易商人に天誅を加えると言った内容の貼紙がされ、実際に殺害される事件が頻発していた。夷敵と結託しているという訳だ。藤岡屋の記録によって、今日もこれらの貼紙の内容を知ることができるが、その一方的な現状認識には辟易する。テロリストとは、いつの世にもそういうものなのであろう。
標的とされた欧米人の方も、行儀のよいものばかりではない。八月二日、江戸宇田川町岡田屋という本屋で、プロイセン人がたまたま目にした武鑑を欲しがり、売ってくれるまでは帰らぬと居座る事件が発生した。武鑑とは、大名や大身旗本の名鑑であり、大名家の交際や御用商人の営業には必需品の紳士録であった。問題の武鑑には先客があったので、後日同じものをお届けしますと言う意味のことを言ったらしいが、納得せず、数日間も居座ったと言う。奉行所も外国人には手出ししかねる事を知った上での、傍若無人の振る舞いである。開国インフレで生活苦にあえぐ庶民に、この様な外国人の行動がどう映ったか、想像がつくであろう。
そんな中、歩兵組にも事件が起きた。と言うか、起こした。
歩兵には、月に六日の遊歩日が定められていた。その日には、歩兵の三分の一に外出が認められる。
八月十三日、お志乃の家を訪ねるため、弥助と友蔵は外出許可をとった。伊織の家督相続の祝いを述べるため、七月に天野家を訪ねた折、友蔵がなじみの下女から住所を聞き出してくれたのだ。伊兵衛は、夏バテから回復するのだと言って屯所に残った。ちなみに旧暦の八月は、新暦の九月に当たる。
日本橋の北側にある長屋を訪ねた。
「ここいら辺だが」と辺りを見回していると、井戸端にいた娘が振り返った。お志乃であった。
「あ」と驚いた声を発したが、洗いたての野菜を抱えると、「上がっておくれ」と言った。弥助が蓋を閉めながら井戸を覗くと、浅い。巨大な樽のような造りだ。神田上水から給水される上水井戸である。江戸百万の人口を維持するのに、水道は不可欠であった。
お志乃の家に上がると、沢山の縫物がきちんと仕分けて積重ねられていた。
「内職しているのか」と弥助が訊いた。
「食べていかなきゃならないから、当然でしょ」
伊織とは、どうなっているのだろう。
「どうしてるかと思って、様子を見にきた」
「それは気に掛けて頂いて、有難うございます」お志乃は無理におどけた。「でもその御仕着せを着ると、友蔵さんも弥助さんも別人みたい」
「この戎服か。この格好で来ると目立つなあ。それに歩兵は評判が良くないみたいだし」
「そうねえ。こないだも、表の小料理屋でひと騒動有ったわ。なんでも、三番町の歩兵がヒラメの刺身を食逃げしたとかで捕まってた」
歩兵は袖印を付けているので、所属の屯所がすぐに判る。
「困ったもんだ。この江戸の町を守るための陸軍だというのに」
「そんな小難しいことを考えてるのは、お前さんくらいなもんよ」友蔵が言った。「江戸の町を歩けば、美味そうなもんはあるし、面白そうな見世物もやってる。田舎者には刺激が強すぎる。でも、金はねえ。おらには、食逃げする奴の気持ちは良く判るね」
ここで友蔵は腰を上げた。
「ちょっくら、水がめに汲んどいてやらぁ」
友蔵は手桶を持って出て行く。
ふたり、残された。
「ねえ」先に口を開いたのは、お志乃の方だった。「前から思ってたんだけど、なんであたしなんかのこと、気に掛けるの。あんたより年増だし、生娘でもないし」
生娘ではない、と改めて言われるとどきりとした。
「年増だって、まだ二十二じゃないか。それに、訳を聞かれても、自分でも判らん」正直にそう答えるしかなかった。
「それに、生娘がそんなに偉いか」この時代の村落には「夜這い」となどと言う風習があり、庶民の間では処女性にはそれほどやかましくなかった。
「あんたって、ほんとに変わってるわねえ」それから、お志乃はぽつりと言った。「いいことなんかないのに」
友蔵が戻ってきた。いつまでも、外をうろついているわけにはいかない。
しばらく三人で世間話をした。友蔵が別れ際に、「じゃ、また来るけ」と言うと、お志乃は微笑んだだけだった。
屯所へ帰る道々、友蔵が話出した。
「わしは思うんじゃがの、あの子はさむらいの慰み者なぞになっとっちゃいかん。今のままじゃ、妾ですらないじゃないか」
江戸時代までの妾は、公式な立場であり、それなりの待遇をされた。天野の屋敷に住む事もできる。外聞もあるので、ぞんざいには扱わない。それが日陰者になってしまったのは、明治にキリスト教の価値観を受入れてからと思われる。
「わしらは兵賦の身分じゃから、何ができるわけじゃないがの。年季は五年先だし」
弥助は黙ったまま歩き続けた。
呉服橋のたもとまでくると、前から三人の歩兵が血相を変えて走って来るのに出会った。
「喧嘩だ」その中のひとりが言った。「両国の象小屋で、歩兵が殴られとる。お前たちも加勢に行け」
そう言い捨てて、走り去ってゆく。
「あの袖印は、三番町の屯所じゃの」友蔵が言った。
「仲間が殴られとるとなれば、捨ててはおけんな」弥助は向きを変えた。
象の見世物小屋は屯所内でも評判だった。西丸下からも、何人か行っている筈だった。
早足で歩いてゆくと、大手前屯所の袖印を付けた二人連れが追抜いて行く。
「これは大騒動だ」悪い予感に駆られ、走りだす。
「弥助、先に行け。わしは息が続かん」
そういう友蔵を置いて、弥助は走った。
普段他の屯所の者と会う機会はないが、西の丸火事の後片付けでは一緒に作業した。お互い同じように絞られているのが判り、妙な連帯感が生まれたものだ。
人だかりが見えたので場所はすぐ判った。それを掻き分けて行くと、町の若い衆と歩兵が対峙していた。歩兵の中には脇差を抜いている者もいる。町の若い衆も天秤棒など持ち出している。その手元には、ひとりの歩兵がぐるぐる巻きに縛られていた。
「やめろ、やめろ」弥助は、危険なのも忘れて間に割って入った。喧嘩の止め役が一番殴られる。
「何だお前、三番小隊の弥助じゃないか」見ると、西丸下七番小隊の者も居るではないか。
「何があったかは知らんが、喧嘩はよすんだ。わしらは公辺の陸軍、この江戸の町を守るのがお役目だ。その江戸の町で暴れてどうする」
「へ、食逃げの茶袋が利いた風なことを抜かしやがる」意外にも、かばったつもりの町衆の方から罵声が飛んだ。茶袋とは、江戸市民に早くも定着した歩兵の蔑称である。
「おめえらみてえな、田舎者のどん百姓に守ってもらいたかねえや」
「そうだそうだ、江戸の町ぐれえ、俺達で守ってみせらあ、このすっとこどっこい。とっとと在所へ帰りやがれ」
それを聞いて、歩兵達の怒りに火がついた。
「なんだとお、やっちまえ」
双方同時に殴りかかり、入り乱れての乱闘となった。弥助はもみくちゃにされながら抜出し、縛られている歩兵を連れて横丁へ入った。
「いったい、何が有ったんだ」縄をほどきながら聞く。
「どうもこうもねえよ。どこかの歩兵が、象小屋の木戸番と、入れろ入れないで喧嘩を始めたのを見ていたら、若い衆にいきなりぽかぽか殴られてこのざまよ。この戎服を着ているだけで、盗人扱いだ」
その時、表通りから腹の据わった武士の声が聞こえてきた。
「しずまれっい。我らは新徴組である。一同、しずまれっ」
近藤らと別れた清河八郎が、京都から連れて戻った浪士隊は、江戸のテロ対策部隊として働くことになった。それがこの新徴組で、この翌年には庄内藩酒井左衛門尉家の預りとなる。清河本人はラジカルな尊王派であることが露見したために、すでに幕府の手で暗殺されていた。
新徴組隊士は、説諭して解散させようとしたが、彼らを小勢と侮ったか歩兵の方から打ち掛かった。新徴組も止むなしと刀を抜いた。歩兵達は、生まれて初めて白刃を向けられ、腰砕けとなり、逃げ惑った。
「まあ、血が出てるじゃないの」女の声に振り向くと、お志乃と友蔵がいた。
「歩兵が喧嘩だって言うから、もしやと思ってきてみたら。仲裁に入って怪我していたら、世話ないわ」袖から手ぬぐいを出して、弥助の頭を押さえた。また香しいものが弥助の鼻の奥をくすぐった。
新徴組に加え、江戸町奉行所の人数も到着する。逃げ遅れた歩兵達が次々と捕縛されていった。
弥助らも拘束されそうになったが、仲裁に入っただけだと言う事を、周囲の目撃者が口を揃えて証言してくれたので事無きを得た。
すぐ屯所に帰って顛末を報告しなければならない。お志乃は、一本気もたいがいにおしよ、と言って帰って行った。
弥助が西丸下屯所に戻ると、ここも大騒ぎになっていた。情報が断片的であったが、弥助の報告で士官たちにもおおよその輪郭が掴めた模様だった。
「では弥助、書き物の用意をしてついて参れ」小隊長の吉岡新之助が言った。「まだ騒ぎは収まっておらぬ。屯所は皆門を閉めておるが、三番町や小川町では塀を乗り越えて加勢に行く者が続出しておるらしい。まずは最寄りの番所へ出張して、町方と方策を練らねばならぬ」
その様な状況なのに悠長なことを言うと思ったが、黙っていた。
「で、私は何をお手伝いしますので」
「番所に捕縛されている歩兵の取り調べに立会い、口上を書きとめるのだ。町方とは別にこちらでも口上書を作っておく。そちは村役人の倅ゆえ、手代のような仕事ならできよう。」
確かに幕府領代官所の手代は、弥助のような身分から厳しい試験を経て採用された者が多い。弥助も、それならできますと答えた。
「士官は、屯所内を取り鎮めるだけで手いっぱいだ。そちの様に事務仕事ができる者がいて助かった」
「吉岡様」数馬がやってきた。「歩兵達はどこかに集結しているでしょうから、中村様と私はそれを見付けて説諭してみます」
「見付けると言っても江戸は広いぞ」
「象小屋の近辺で待っていれば、向こうからやってきましょう」
弥助は成程と思った。指図役と言うからには、これくらい頭が回らなくてはいけない。
歩兵達は東西橋の番所に拘束されていた。両国の自身番屋から連行されたらしい。時代劇によく登場する「番屋」とは、この自身番屋の事であり、それぞれの町内会で費用を出して設置しているものである。江戸初期には地主自身が番に立ったのでこの名が着いた。従って、人数がいれば町内会で雇った者であり公務員ではないが、交番の原点とも言える存在である。
東西橋の番所は、公儀(幕府)が橋の通行料を徴収するために設置したものである。公儀の陸軍所属である歩兵を、民間の「自身番屋」で拘束するのはまずいと思ったのか、公儀の「番所」へ移したものの様だった。
二十人ほどの歩兵が牢に押込められていた。医師の手当てを受けている者もいる。
吉岡と町奉行所の同心は、別室で打ち合わせている。弥助が、机を借りたいと同心の小者に言うと、冷やかなそぶりで机を指し示した。
「お前さんが、口上を書き留めるのかい」
探偵小説に登場する岡っ引きや目明しの公式の身分は、小者である。彼らは町奉行所与力や同心が私的に雇用している召使いでしかなく、弥助と同じ武家奉公人である。とは言え、町奉行所同心が情報収集のために雇っているのだから、それなりに権力を振りかざす事ができた。
「お上に差出す物だから、全部ひらがなというわけにはいかんよ」
「心配無用。村では、お上へのお届状も書いていた」
「け、うそ付くない。そんな学問のある奴が、歩兵に居る訳ないだろう」
何を、と思ったが机の上の書面が目に留まった。両国の町役人からの届出である。弥助は、その書面をパラパラと開いた。
「おい、勝手に見ちゃなんねえ」
「ここに一分銀がある」弥助は、素早く銭を握らせた。「仲間が厄介になった礼だ、一杯やってきてくれ」
「今はお勤めの最中だから一杯はやれんが、ちょくら小便に行ってくらあ」
弥助は、さらさらと届出を写し取った。歩兵が象小屋に来たが、混雑していたので木戸番が断ったところ、理不尽にも殴りかかってきたと言う。これが相手の主張であるらしい。
写しを懐へ隠すと、ちょうど吉岡達が戻ってきた。続けて、歩兵がひとりずつ引っ立てられてくる。聴取が始まったが、騒動の原因となった者はこの中にはおらず、たまたま通りかかったら象小屋の者が理不尽にも殴りかかってきたとか、騒動を聞いて応援に駆け付けたとか言う者ばかりだった。
途中で数馬らが顔を出した。歩兵達が徒党を組んで両国へ向かう所を掴まえ、解散させてきたという。読みが当たったようだ。
それを聞いた同心は、「お役目御苦労でござった」とほっとした様子だった。
聴取が終わり、弥助が報告書をまとめた頃には、夜半が過ぎていた。
「よしよし、できたか。ほう、お前はなかなか達筆だの」
それを聞いて同心も覗き込む。
「最近の御家人は当て字嘘字が多いが、百姓の方が学問がある様ですな。困ったものだ」窮乏した御家人より、村役人の方が教育費も潤沢なのだから、それも当然だ。同心も御家人の一種だが、付届けなどで余裕が有るし、行政官なので一通りの教育は受けられるのであろう。
「褒美に蕎麦でも食わせてやろう。ああ、あ奴はどこへ行った」同心は、自分の小者を探しに出て行った。
「それにしても、騒動のきっかけがさっぱり判らん」
吉岡がぼやくので、弥助は懐から先ほどの届出を出して見せた。
「こんなもの、どうやって手に入れた」吉岡が驚く。
「番所に置いてありました。写すのに、銀一分かかりましたが」
「一分とはまた張り込んだな。ええい、明日取りに参れ」旗本としては、弥助から一分銀を借りたと言う感覚であろう。
「今は牢の者たちに蕎麦を食わせてやらねばならん」旗本は体面もあり出費が何かとかさむ。懐具合はそれほど良くない。他の屯所の者にも食わせてやらねばな、などとケチくさいことをぶつぶつ呟いていた。
例の小者が呼んできた蕎麦屋で蕎麦を掻き込み、牢の人数分の代金を渡すと、西丸下屯所へ引き上げた。
翌日は奉行所の検分の後、歩兵達は釈放された。弥助はその手続きのため、士官のひとりと奉行所へ出張した。
士官という語は西洋からの翻訳語だが、歩兵組では歩兵指図役並以上に当たる。吉岡は歩兵指図役であるが、当時の幕府の文書を見ると、「西洋一等ロイテナント」に当たり「小隊の指揮」を司るとある。つまり、明治陸軍の歩兵中尉に相当する。
数馬は歩兵指図役下役だが、当時の資料を見ると、カタカナで「セルジアント マヨール」とあり、「(小隊の)半隊の指揮」をすると説明されている。このカタカナ語はおそらくオランダ語で、英語の「サージェント・メジャー」に相当すると思われる。つまり、曹長で下士官なのである。下士官は、兵士から選抜されるのが普通であるが、できたての幕府陸軍には選抜できるほどの人材の蓄積がなく、多少とも洋式兵法を学んだ旗本御家人から任命したようだ。先の「兵賦改定の布令」に兵賦でも品により取立てるとあるのは、百姓からでも能力次第で下士官に抜擢すると言う含みであろう。
ついでに他の階級も見てみよう。陸軍奉行、騎兵奉行、歩兵奉行などといかにも過渡期を感じさせるような名称があるが、これは将官級である。明治陸軍で使われている大将、中将、少将という将官名は、律令以来の朝廷の官職であった。源氏物語には「頭の中将」や「黒髭の大将」が登場するし、幕末でも松平容保が「左近衛権中将」に任命されたため「会津中将」と呼ばれていたことはよく知られている。朝廷の官職名だから、幕府が勝手に使うわけにはいかなかった。明治になって、すべての官職が天皇のもとに一元化された時、律令を参考にしつつスマートな階級呼称が考案されたのである。
さて幕府陸軍に話を戻すと、佐官級は歩兵頭(西洋コロネル、大佐)は連隊長、歩兵頭並(同ロイテナント コロネル、中佐)は大隊の指揮官であった。大身の旗本を任命するなどしたので、この辺までの階級は、能力は怪しいが席は埋まっていた。
が、中隊長である歩兵指図役頭取(同カピテイン、大尉)や歩兵指図役(ロイテナンテ)などの尉官クラスは、常に人員不足であった。歩兵指図役など、記録に名前が残る人数だけでは小隊長の席が全部埋まらないという。
尉官は実地に兵を指導するので、曲がりなりにも洋式兵学を知っていなければならないし、百姓相手に指導力を発揮しなければならない。だから、人材不足は深刻であった。それでも、翻訳された外国の文献などで勉強して、皆必死に兵を指導していた。のちに、イギリスやフランスの伝習を受ける話が持ち上がるもの無理はない。
読者は、翻訳本で兵が指導できるのなら、旗本の中から士官希望者が沢山出ても良いと思うであろう。そして、その中から適格者を選べばよい、と。しかし、そうはならなかったようだ。二百六十年の太平の末、旗本は信じられないほど怠惰になっていたのである。
その怠惰な旗本の代わりに、軍役を担うことになり、象小屋で捕縛されてしまった歩兵達を、弥助は町奉行所から引取った。皆、ひとりになると猫のようにおとなしかった。
屯所へ戻ると、台所へ行き、歩兵の給食を請負っている伊勢屋八兵衛の小僧を、そっと手招きした
「これを、藤岡屋へ届けてくれ」物陰で、手紙と小遣いを握らせる。「残りは藤岡屋がくれる」
象小屋事件の詳細を知らせる手紙である。藤岡屋は生の情報を欲しがったので、両国町役人の届出書などは、そのまま写して送った。
藤岡屋の貸本の得意で真田三代記の愛読者だという小僧は、「繋ぎを付けてくれ」と言う藤岡屋の殺し文句に二つ返事でなびいてしまったらしい。伊賀者でもなった積りなのだ。
八月十七日、大和国で天誅組の乱が起き、慌しい事に翌日には京都で八月十八日の政変が起きた。このクーデターの結果、長州藩を中心とする攘夷勢力が京から放逐された。幕府側で活躍した近藤らが、「新撰組」の名を貰ったこともよく知られている。
天誅組の方は、杜撰な蜂起計画がたたり、ひと月ほどで鎮圧されてしまった。尊王攘夷派の最初の武装蜂起だと持て囃す者もいるが、所詮は革命を成遂げるような器量を持つ者はいなかった。繰返すが、あきれるほど杜撰な計画であったので、攘夷激派公家の三条実美でさえ、止めようとしたくらいである。ただ弥助たちの立場から注目すべきは、この思想的には保守的な武装集団にも、ゲベール銃隊が存在したことだ。さらに、焦点となった高取城攻防戦では、二百人程度の高取藩植村出羽守の人数が地の利を生かして和式の大砲、鉄砲を撃ちかけ、千人の天誅組を四散させてしまった。火力が大勢を決したのである。戦国時代は鉄砲火力により収拾されたが、その認識が思い出され始めたのである。
八月十八日の政変での新撰組の活躍を藤岡屋の情報で知った弥助は、陰ながら喜んだ。
天誅組が掃討されつつある九月十七日、江戸では歩兵がまた騒動を起こした。
天保の改革により、風紀を乱すという理由で江戸の芝居小屋は浅草の一画に押込められた。新たに猿若町と名付けられたその区画が、現場である。
きっかけは、象小屋と似たようなものだ。数人の歩兵が、とある芝居小屋に入ろうとしたところ、木戸番に席は埋まっていると断られた。しかし彼らはどこからか小屋内に侵入し騒いだので、小屋の従業員と言い争いになり、歩兵が脇差を抜いて暴れたのである。当然芝居は滅茶苦茶で、客は逃出した。歩兵達はそれを良いことに、桟敷に残った酒肴で一杯やっていたらしい。今度は、市中警備の岩槻藩大岡兵庫守の人数が出張し取押えたが、その中の一人が脇差でやたらと抵抗するので、重傷を負わせてしまった。直ちに自身番へ運び医師の当てを受けさせたが、その甲斐もなく死亡したので事はさらに大きくなった。各屯所から三百人もの歩兵が浅草寺付近に集結したのである。結局いくつもの藩から応援を呼び、強制的に解散させた。
弥助はこの日は屯所にいた。呼ばれて行くと、清八と定吉が歩兵指図役頭取らの聴取を受けていた。騒動を聞いて現場に駆け付けると、すでに数十人が気勢を挙げていたので、顔見知りの西丸下屯所の者を何人か引張って帰ってきたという。
「それは殊勝な心がけじゃが、いかなる仕儀で抜け出してまいった?」指図役頭取が訊いた。歩兵は、農村から強制徴募されてきたので団結力が強く、仲間が傷つけられたと聞けば仕返しに行くのが彼らの正義だった。仕返しもせず、抜け出したのは合点がいかない。
「それはこの弥助のお陰でございますよ。我ら歩兵組は江戸の町を守るのがお役目、町衆に迷惑をかけちゃならんと、常日頃から言っておりやすからねえ」
「それは違うべえ」定吉がまた横から口を出した。「相馬様の捕り方が見えたんで、逃出したんだべが」
「うるせいやい。黙ってろ」
「まあ、良いではないか」指図役頭取が苦笑しながら続ける。「この屯所の者は、他にもおったか」
「へい、十三番小隊の奴を何人か見ましたが、たぶん今頃巻込まれておりやす」
「ふむ、ゆっくりもしておれんな。これ弥助」
「はい」
「そちは、戻った者の口上を書き止め、お上への届出書の下書きを作っておいてくれ。なるべく、穏便にな」
「かしこまりました」
指図役頭取は、吉岡らに何か指示を与えると、自分は出掛けて行った。
読書きの堪能な弥助は、自然と情報の集まる立場に立たされていた。その日の夕方、再び藤岡屋へ繋ぎが立ったのは言うまでもない。
それから間もないころ、数馬一人に引率され、駒場野の鷹狩場で自然の地形に慣れる調練をしていた時のことである。近くでも、小隊規模の御持小筒組が調練していた。
当時の洋式歩兵には二種類あった。弥助たち歩兵組に期待されたのは、戦列歩兵としての役割である。これは、数百人が陣形を整え、指揮官の指示で一斉に発砲し、一斉に銃剣突撃する兵科である。独仏では擲弾兵ともいう。ナポレオン映画に出てくる歩兵の大集団を想像して頂ければ間違いない。
もうひとつに軽歩兵が有り、独仏では猟兵とも言う。兵士が少人数で独立して戦う散兵戦術で、相手を狙撃したり、小回りの利かない戦列歩兵方陣の側面を守ったりした。御持小筒組は将軍の親衛鉄砲隊として昔からあったのだが、この時期この軽歩兵として再編され、さらに余剰の御家人を送り込んで増強されつつあった。武士だから、各個の判断力が要求される散兵戦術に向いていると考えたのであろう。だが、「鉄砲足軽」にされた御家人の心情はどうだったのだろうか。
小休止していた弥助たちの前で、その心情を吐露するような光景が展開された。
「這って進めぬとは、いかなる仕儀でござるか」
怒鳴っているのは、額が広く眉毛が太く、かなり特徴的な風貌の男である。隣に、やせ型の男が飄々とした風情で立っている。和装である所を見ると、ふたりとも陸軍の所属ではないらしい。
「我らは天下のご直参である。それを地面に這いつくばれとは、それこそいかなる仕儀でござるか」御持小筒組のひとりが言い返す。
「地面に伏せなければ、敵の的になってしまうではござらぬか。簡単な道理でござる。犬死を望まれるのか」眉毛が言うと、複数の隊士が集団で反論する
「我らご直参が這いつくばっていくさをするのでは、公方様がお嘆き遊ばされる。簡単な道理でござる」
「そうだそうだ、そのようないくさの仕方を教えるのは、そこもとら、直参に含むところがあるのであろう」
「やめろやめろ、陪臣の出に、我らの心持などわからぬ。事に、長州のご仁にはな。我らを地面に這いつくばらせるのが、楽しいのであろう」
それまで黙っていたやせ型の男が、口を開いた。
「講武所や開成所の教授である我らに向かい、陪臣呼ばわりとは無礼千万。あれこれ理屈をつけて、業前の覚えが悪いのはいくさに出たくないからであろう。村田君、もう帰ろう。このような者たちより、あちらの農兵の方が見込みがある」農兵とは弥助たちの事らしい。
「そうよのう、大鳥君の持論通り、博徒でも集めた方がいくさには向いているかも知れぬ」
当てつけがましい大声でそう言うと、御持小筒組に背を向け、ふたり連れだって三番小隊の方へ歩き始めた。
「お主ら、直参を愚弄するか!」
と、刀に手をかけたのは御持小筒組の士官(もちろん旗本)であった。弥助は、危ないと思った。が、抜かなかった。ふたりはそのまま、三番小隊の前まで歩いてきた。弥助たちは、ほっと気が抜けた。「斬られるかと思った」と誰かがつぶやいた。
「そんな意気地はないよ」村田君が笑みを浮かべた。
「両先生が、今日はどうしてここへ」数馬はふたりを知っているらしかった。
「御持小筒組に、散兵戦術を伝授してほしいと頼まれてきたのだが。どうも、不様な所をお見せした」大鳥君が、頭をかいた。
「貴公の指揮ぶりを見ておったが、なかなかやるではないか。良い兵だ」村田君がそう言うと、ふたりは去って行った。
数馬によると、村田君は防州出身の村田蔵六、洋学の大家で今まで幕府に仕えていたが、このたび長州藩のたっての願いで国許に帰ることになっていた。
大鳥君は、播州赤穂出身の大鳥圭介、やはり洋学の大家として幕府に仕えており、この時期一八六一年版オランダ陸軍教練書の翻訳中であった。
ふたりとも医家の生まれで、大坂の適塾で西洋医学を学んでいたのだが、黒船来航以後方向が変わり、それぞれ紆余曲折はあったのだが幕府に出仕したので、数馬に洋式兵学を教えることになった。
「長州に兵を送るかも知れぬのに、村田先生を返してしまうとはな。何としても、引き留めるべきだ」
「そんなに、できる方なのですか」
「ああ、引き留められぬなら、斬ってしまった方が良いくらいだ」
数馬の思わぬ激しい言葉に、弥助は驚いた。
「大鳥先生はただの洋学先生だが、村田先生は武将としても、相当できる。この数馬の勘だがな」
村田蔵六は国許へ帰り大村益次郎と改名すると、長州軍の近代化に辣腕を振い、これより二年後、幕府陸軍と激突する。
この頃までに小隊が増え、指図役下役の橋本と中村が隊長として転出していった。十個小隊で一個大隊、二個大隊で一個列獅綿多と言う編制がだいたいできた形である。吉岡と数馬だけでは小隊の面倒を見きれないので、清八が隊のまとめ役に指名されていた。
三番小隊は、大隊での調練のほかに数馬が独自に計画した調練をさせられた。こんにちの体操のように手足を屈伸させて体操したり、高い塀を登ったり飛び降りたりなどしたのである。
ある時などは、数馬が手槍の師匠を連れてきて、着剣して槍術の稽古をさせられた。槍術には、呼吸法など色々うんちくが有るらしいが、唯一弥助たちの頭に残ったのは、ひねりを加えて刺すという事だけだった。相手が刀で払ってきても、鋭いひねりで確実に刺せるのだという。この知識が役に立つまで、そう間はなかった。
翌年の二月、年号が元治と改まった。五月の末、暑いさなか調練中に、友蔵が突然倒れた。
将軍家典医で西丸下屯所詰めでもある松本良順の見立てでは、軽い卒中であった。幸いにしてすぐ回復したが、それでも左半身に軽い麻痺が残った。
「残念だが、わしの西洋医学でも、麻痺はどうにもならん。ただ、気長に調練すれば不自由な手も次第に回復してくる。在所に戻って、しぶとく養生することだ」
と松本は言った。後に彼は脱走幕府軍に加わって転戦し、箱館戦後に一時投獄されるが、釈放後明治陸軍の初代軍医総監になった。村田といい大鳥といい、この時代の医者には熱い男が多い。
天野家用人の佐々木が、下男に大八車を引かせてやってきて、友蔵を引取って行った。
その頃から、お志乃との逢瀬には藤岡屋の家を借りる様になった。茶袋と知り合いでは人目をはばかるかと思ったからだ。が、内職を頼まれているお店からはかえって丁重に扱われているという。
「英吉利から安い木綿が入って来ていて、商売は大変らしいの。それでも仕事を貰えてるのは、弥助さんたちのお陰よ」とお志乃は言った。茶袋に因縁をつけられ暴れられては困る、と言うのであろうが、弥助は複雑な心境になった。
それからしばらくして、友蔵の代人として、天野家から平太と言う男が送込まれてきた。口入屋の紹介で、三河生まれだという。他にも八人の新兵が加わった。これで、定数の四十人が揃ったことになる。
弥助と猟師の寅吉が、これら九人の教育係に選ばれ、三番小隊とは別メニューで調練を施した。
「うんこれで良い」指図役の吉岡は、ある日の調練を見ながら目を細めた。「あの二人、教え方がなかなかうまいではないか」
「左様でございますな。百姓同士、息が合うのでございましょう」数馬もそう評価していた。
この二人の士分が小隊の面倒を充分見られなかったのには訳がある。北関東で異常な事態が進行しており、出撃準備に追われていたのだ。
元治元年七月-常州下妻
「のん、その天狗党とか言うのは、何だん?」
美しい水田に囲まれた道を行進しながら、平太が弥助に訊いた。まだ三河弁が抜けない。
「水戸様の御家中で、尊王攘夷を唱える一派らしい。横浜の夷人街に討ち入り、攘夷実行の先駆けになると言って、今年の三月に筑波山で兵を挙げた。他国の攘夷浪士や、百姓町人なども集まって、五百人ほどにもなるようだ。その連中、権現様にお参りするのだと言って、まず日光へ行った」
「ほう、そら結構なことで」平太は洒落を言ったつもりである。
一行は、先頭のブリキ太鼓の音に合わせて行進している。そうしないと、歩調がそろわず列が乱れるのである。
「けど、五百人が徒党を組んだら、立派な一揆だん」
「ああ、だから日光奉行も入れなかった。天狗党にしてみれば、天朝様の攘夷の思召しを実行するのだから、一揆ではないと言う理屈らしいがな。
そうこうするうち軍資金が無くなって来たと見えて、野州の栃木と言う町で御用金を集めようとした。ところが、断られたので腹いせに火を付けて回った。そのどさくさに三万両もかっぱらったとか。それが、先月六月六日」
この事件は天狗党の指揮者の名を取り、地元栃木市では「愿蔵火事」として永く記憶された。
「なんじゃいそれは、江戸の御用盗と変わりないじゃんか」
一時期江戸でも、攘夷浪士を名乗る強盗が頻発したが、そのほとんどがただの凶悪犯であることは皆知っている。
「天朝様の思召しを行うのじゃん。それが、付け火をして回ったんじゃ、天朝様もさぞお嘆きだら」
「お前、なかなか良いことを言うな」
天狗党事件についてはあまたの文献があるので、ここでは触れない。が、当時の庶民の素朴な感想は、このようなものであったろう。
当初幕府は水戸藩の内紛とみて静観していたが、藩領の外で略奪を働いたという事実は見逃せない。六月九日に正式に追討令を発し、十七日に幕府陸軍の騎兵三百、歩兵六百が江戸を発し、弥助たちは今ここにいる。
「それにしても、下妻はいつ着くのかの。休みが多いのはうれしいけど、江戸を出てもう十日にもなる」
それを聞きつけた数馬が、吐き捨てるように言った。
「軍監の永見貞之丞様は、出立以来病を得たらしい。もっとご壮健な方に代って頂かないと、金ばかりかかって困るよ。これだけの人数を宿泊させるだけでも、大変な出費だ」
ここ数日、数馬は不機嫌になっている。三日もあれば充分な行程に、十日以上も掛けているのだから当然だ。
「北条様と毎晩のようにやり合っているという噂は、まことでございますか」
今回、歩兵は三番町屯所を中心として編成されたので、そこの歩兵頭並(中佐相当)の北条新太郎が歩兵組の指揮を執っている。その北条と永見とが、もめているらしいのである。
「本当らしい。三日前、平次郎殿がその場に出くわしたそうだ」
弥助たちの領主天野家の次男も、御持小筒組の指図役下役(曹長相当)として参戦していた。あの連中を指図しているのか、と駒場野での事件を思い出し、弥助は秘かに同情していた。
「ま、お前にはあとで話そう」
数馬や平次郎ら、講武所出身者は毎夜情報交換をしているのだ。
「明日はようやく、下妻に着く。陣立ての打合せをせねばな」
その夜、清八、寅吉、弥助の三人だけが聞いた話は、歩兵組は歩兵組だけで、北条新太郎の指揮で戦うということだった。総大将は逃げ腰だし、幕臣で編成した歩騎兵も戦意がなく頼りにならないので、最初から当てにしないと言う。
「お前たちを犬死させないためだ」
と数馬は説明した。
なるほど、他の歩兵達には聞かせられない話だった。
下妻藩一万石は、現代の茨城県西部の中央にある。東に十キロほど行くと、天狗党の籠もる筑波山である。一面に水田が広がるだだっ広い平野の真ん中だ。鬼怒川、小貝川に挟まれ、水運にも恵まれている。その鬼怒川の水運によって、江戸から大砲が既に運び込まれていた。補給の便で、策源地に選ばれたのである。永見以下の幕府陸軍勢は、下妻陣屋そばの多宝院という寺に入った。
「陣屋」とは、「地方行政機関庁舎」と言うほどの意味である。城を持てない小大名や、幕府の代官などが陣屋を構えた。
さて、北関東の諸藩も出兵を命ぜられていた。多宝院の近くの新福寺にはこの騒ぎの当事者の水戸藩、雲充寺には高崎藩が入っていたのは良いとして、その他の藩は、茨城県下館や結城、栃木県南部の小山と言った中途半端な位置に陣を敷いていた。戦いたくないという気持ちが、ありありと窺える。関東は徳川家譜代の大名で固めていたにもかかわらず、肝心な時に役に立たなかった。
やる気があったのは水戸藩兵ぐらいで、彼らはこの権力闘争に負ければ藩を追放されるのだから当前だろう。
七月七日、永見は部隊の一部を率いて、威力偵察に出かけた。高道祖と言う村で小貝川を渡河しようとして、天狗党とぶつかった。
幕府陸軍の初戦であるが、鉄砲の数で劣る天狗党が追散らされ、まずは勝った。問題はその後である。
弥助はその日、士官の部屋へ呼ばれて勘定書を付けていた。前線から伝令が戻って来る。
「なに、引揚げて来ると」書状を見た吉岡が言った。「我らの方が出陣して、一気に筑波山麓まで出張るのではないのか」
「橋を取り返されたら、如何する積りでしょう。焼かれると厄介ですぞ」数馬も首を傾げている。
「して、北条様は」
「敵は間者を放つだろうから、下妻市中の巡羅を厳しくせよと」
「なるほど、歩哨も増やさねばならんな。怪しい奴はひっとらえねば」
「明日は、我らも出陣でございますか」弥助が訊いた。
「おう、北条様もその積りだ」数馬が答えた。
が、翌日は動かなかった。例によって永見と北条の間で激論があったが、永見が押し切った。
そして、七月九日の未明、庭に炸裂する大音響で弥助たちは叩き起こされた。
「何の騒ぎだ」定吉が寝ぼけ眼をこすっている。清八が戸をあけて外の様子を見ると、歩哨に立っていたはずの者が走って来るのが見えた。
「どうした」清八が訊いた。
「敵の大砲じゃ」
それを聞いた弥助の頭は、横っ面を引っ叩かれたように回り出した。昔、源平の軍記物で読んだ。夜討ちだ。
「みんな弾込めしろ。身づくろいはそれからだ」
「お下知が無いのに、弾込めして良いもんかの」定吉が危機感の薄い意見を言っていると、清八が庭へ向かって怒鳴った。
「お前ら、誰だ・・・・・あ!」
「どうした」今度は弥助が訊く。
「人足みたいのが、松明を持って来て、本堂の下に投げこんどる」
それを聞いて、皆あわてた。
「隊を二つに分けよう」戎服を身に着けながら、弥助が言った。「清八の半隊が火消し、寅吉の半隊が境内の探索と警備だ」
その間にも、砲弾の着弾する音や、兵の悲鳴が聞こえる。
「清八の半隊ちゅうても、射撃の時の前列か後列かのちがいじゃろ」定吉は釈然としない様子だ。清八が指図役に任命されている訳ではない。兵賦はみな同じ身分なのだ。
「お前が指揮するかい」胴乱を巻きながら、誰かが言った「定吉の指揮で討ち死には、俺は真っ平だぜ」
皆どっと笑った。笑っているうちに、全員身支度が整った。その様子を覗き見て、他の小隊も身支度を始めた。
「よし、行くぞ」
寅吉に従い、弥助以下二十人の歩兵は外へ出た。清八組は消火に走る。慌てふためいて、走り回る人影がそこここに見える。砲撃で浮足立っているのだ。それを見て、弥助が言った。
「寅吉、あの大砲をなんとかせねばだめだ。まず東を探索してみよう」
「なんで東だ」
「宮本武蔵の兵法書に、陽を背にして戦えとある」
「なるほど、もうすぐ夜明けだ。朝日に向かって鉄砲を撃つのは眩しい」寅吉は、猟師だけに判っている。「大砲を据付けるとしたら、陽を背にするか。しかしお前、本当に学があるなあ」
当時の和式大砲の射程は、それほど長くない。近くに居るはずだ。寺を囲む林が途切れる辺りで、伏せて様子を見ていると、少し東南の方角で閃光が走った。遅れて、轟音が轟く。大砲だ。東の空が明るくなり始めたので、目を凝らして見てみると、俵を積んで簡単な陣地にしているようだ。
「このまま這って、後ろに回り込めばやれるか」寅吉がつぶやいた。
「待て待て、お前は猟師だからそういうのに慣れているだろうが、他の者はだめだ。警固の歩兵が何人いるかもわからん」これが三番小隊の初陣なので、自分たちがどれだけ戦えるか判らない。弥助は、慎重に行きたかった。「おらが応援を呼んでくる。その間に、敵の人数や兵備を良く見ておいてくれ」
「よし、伊兵衛、平太、一緒に行け。銃剣を忘れるなよ」
三人は林の暗がりまで這って下がり、着剣して走った。
ある建物の角を曲がったところ、
「あ!」
四人の天狗党浪士と鉢合わせしてしまった。槍が二人、刀が二人、銃は持っていない。三人は小銃を構えた。三十歩(十メートル)ほど離れてにらみ合う。浪士の持つ刀からは、血が滴り落ちていた。仲間の歩兵の血か、と思うと弥助の中にむくむくと復讐心が湧いてきた。
「伊兵衛は左の槍をやれ。おれは右の槍をやる。平太は誰でもいいから一人やれ」
「おお、もうちっと間合いを詰めるか」確実に仕留めるには、接近するのが一番である。村の暴れ者でケンカ慣れしている伊兵衛は、すり足でにじり寄っていく。
「残った一人はどうするのん」平太は手が震えているようだった。血を見て恐怖に駆られている。
「三対一なら、銃剣で充分だ」弥助もにじり寄りながら答えた。「俺が撃つまで待て」
「こ奴ら、逃げんぞ」刀の浪士のひとりが言った。
「鉄砲で強気になっているのよ」槍のひとりが言った。「百姓ずれが。一気に掛かれ」
うおー、と気勢をあげて一気に突進してきた。血刀が迫る。二十歩の距離で、平太がたまらず発砲した。続けて弥助と伊兵衛も発砲した。
槍の二人が倒れた。刀の二人も足が止まった。片方の浪士が、わきの下を見ている。たすきを掛けた袖に、穴が開いていた。
「しくじった」平太がつぶやいた。
「銃剣でやればいい」伊兵衛は冷静に銃を構え直す。
「くそ、相手は百姓だ」刀のひとりは悔しそうだ。「一気に」
「まて、こ奴ら、手槍の心得があるぞ」
「なんだと」
「構えを見れば判る。師匠に付いて稽古しとるぞ」
その時である。規則正しい多人数の駆足の音が、境内の方から響いてきた。浪士は一瞥をくれると、
「無念」
と言い捨てて逃げて行った。
数馬に率いられた清八の半隊が駆けつけてきた。先頭に立ちリボルバーをかざしているのは、北条新太郎であった。
「申し上げます」
弥助が進み出る。
「これより東の方角に、敵が大砲一挺、俵にて陣地しつらえ、据付けでございます。寅吉の半隊が近くに伏せ、物見の最中でございます」
「よし、さっそく加勢に参ろう」数馬は部下の活躍に満足そうだった。
「ところで、お前たちは何故東に向かった」北条は不思議そうである。「数馬君でなければ、誰の指図だ」
「私の判断でございます。私、『五輪書』にて・・・」
「何、宮本武蔵を読んでおるのか。これは参った。それで日の出の方角に向かったのか」北条は額に手をあてた。「洋式兵学を嫌う旗本も多いが、そういう者に限って和漢の兵法書もろくに読んでおらん。百姓の方が、ご直参よりも兵法に通じておるとはな」北条はそこで口を閉じた。
一行は寅吉の部署に急いだ。敵に発見されたらしく、銃撃戦になっていた。濛々と黒色火薬の煙が立ち込めている。
彼らは、地面の凹凸を利用して散開していた。前装銃だから、一発撃つと仰向けになって装填する。斜面を利用するとこの作業はやりやすい。駒場野の猟場で身に付けた、こうした業前が役に立っていた。数馬は、清八隊の兵を寅吉隊の兵の間に入れ、交互に発砲するよう命ずると、寅吉に状況を聞いた。
「敵は、あの大砲をこっちに向けようとしていますが、弾を集めて何とか防いでいます。警固の者は、ざっと二十人ばかり。十五人ほどが、和筒を持っています」
北条は、懐中から望遠鏡を出した。周囲で土がはじける。
「お前の見立ては大体正確なようだ。火縄の見えない小銃があるが、ゲベールか?」
「え、音では和筒と思いますが」
「この者は猟師です」数馬が補足した。
「なるほど、そうか」
そこへ、後ろから声が掛った。
「数馬殿、望みの物が手に入ったぞ」
いつの間にか、平次郎が這ってきていた。北条がいるので、驚いたようだ。
「これだ」と、小銃と胴乱を渡した。
「おお、エンピールだ。ありがたい」
「そなたは、御持小筒組ではないのか」北条も不審がって訊く。「隊を抜け出してよいのか」
「お恥ずかしい事に、おらんのです。いつの間にか、隊が消えてしまいました。そこで、詰所に残っていた小銃を、こうして持って参りました」
「何、銃を残してどこかに行ってしまったのか」北条があきれ顔になった。「では、わしは戻る。ひとりでは心もとないゆえ、そなたも一緒に来てくれ」平次郎が頷くと、「そういうことなら、歩兵組を手伝ってもらおう。士官が足りなくて困っておる」
ふたりは、また這って去って行った。
「寅吉、以前ヤーゲルが欲しいと言っておったな」
「へい」
ヤーゲルとは、ライフルを切った最も初期の銃の事である。
「もっと良い物が手に入った。ミネー銃だ。これは英吉利のエンピールと言う工房で作られたものだ。ヤーゲルのように螺旋の線条が切ってあると、丸玉では弾込めしにくいが、その欠点を改良した銃だ」
言いながら仰向けになり、薬包を食いちぎって火薬だけを銃に流し込むと、弾丸を寅吉に見せた。
「椎の実の形をしておろう。銃の口径よりやや小さいので、素早く込められる。弾の尻にくぼみが有るのがわかるか」
「ああ、くぼみに木栓がはまっておりますな」
「そうだ。玉薬が炸裂した時に、木栓が弾に食込み、そのくぼみが広がって、銃身の線条に食込むのだ。それで、弾が回転する」
言いながら槊杖で弾丸を押し込む。
「先がとがっているから、それを傷つけないように注意だ。そして、カンを付ける」
雷管を差込むと、狙いを定めた。
「くそ、はずした。お前なら当てられるだろう。見ての通り要領はゲベールと同じだ。やってみろ」
「へい」寅吉は、嬉しそうにミネー銃を受け取った。高価なおもちゃである。
寅吉は、最初は慎重に装填した。砲手に狙いをつけると、発砲した。
「くそ、手前に落ちたか。陽が眩しくてよく見えん」
すぐさま仰向けになり、装填する。二発目には癖を飲み込んだらしく、三発目には砲手が倒れた。
「やったぞ」
隊列から歓声が上がった。
「よし、大砲方をもう一人倒せ」
数馬が命じた。その時である。
「一町ほど南に敵!」
歳の割には目の良い甚平の声。いつの間にか、数十人の浪士が匍匐して側面ににじり寄っていた。パンパンと和筒を撃ちかけてくる。
「銃の数は多くないぞ」努めて冷静な声で、数馬が言った。「清八の半隊は南を向け。十人ずつ交代で撃て」
見ていると、天狗党の銃手達も仰向けになって装填している。が、ひどく時間がかかっているようだ。おそらく、この様な装填法を今日まで知らなかったのだろう。弥助たちの行動を見て、真似ているのである。
とは言え、大砲への圧力は減った。浪士達は俵を持って楯にし、大砲を下げ始めた。南の部隊は、この為の牽制攻撃に違いない。
「くそ、何とか南の連中を追い散らして、大砲をやれないか」
数馬はあれこれ考えていた。銃は十挺ほどだが、刀槍装備の浪士は多数いる。農民出の歩兵を突撃させることはためらわれた。それで、肝心なことに思い当った。
「撃ち方止め。弾を撃ち尽くすと、斬り込んで来るぞ」
一瞬凍りついたように、射撃が止んだ。その機を逃さず、俵の楯に隙間ができ、砲口が覗くとドカンと発砲した。
砲弾は距離が足りず、歩兵達の前に落ちた。轟音と共に、土くれが歩兵達に降り注ぐ。
「みんな無事か」数馬が叫んだ。
「うわ」誰かが叫ぶ。
「どうした」
「小便ちびっちまった」
恐怖で失禁したらしい。それを聞いて、何人かが股間に手を伸ばした。
「心配するな、俺もだ」甚平の声だった。
ほっとした空気が流れた。
「他の者は」数馬は、けが人が出なかったのを確認して、安心しているようだった。
「南の連中も下がっていきますな。あ、立ち上った」伊兵衛が報告する。見ると、二百メートルほどの距離で、陣羽織を着た男が膝立てでこっちの様子を見ている。
「寅吉、あ奴を狙え」
寅吉が狙いを付けると、その男はまた伏せたが、陣羽織なので目立つ。寅吉が発砲すると、ひっくり返るのが見えた。仲間が三人ほど集まり、抱え上げると一目散に走り出した。
何人かがパンパンと追い撃ちをかけたが、ゲベールなので届かない。エンピールの装填が終った寅吉がまた発砲したが、距離が開いたか当たらなかった。
「逃げられましたな」弥助が言うと、数馬は立ち上がった。
「本堂の方の銃声も止んだな。敵は引上げたようだ。敵が残して行ったものがないか、探せ。砲弾などが落ちていても、触ってはならんぞ」
さすがに負傷者や砲弾は残していかなかったが、落し物はして行った。寅吉は火縄銃を見つけて持ってきた。
「数馬様、これを見てください。カンを付けられるように改造してあります」カンとは雷管のことである。
「なるほど、銃身の後部に穴を穿って、カンを差し込めるようにしたのか。どうりで火縄が見えない訳だ」
「これなら、我らのゲベールと同じでございますよ」
太平の世が続き、日本の軍事技術は確かに遅れていたが、この程度の改造で取敢えず追いつく事ができた。これがあと二十年遅れていたら、機関銃、後装砲、無煙火薬と言った新技術が普及してしまい、とても追い付けなかったであろう。日本は、実に危ういタイミングで開国したのである。
一同揃って本堂に戻ると、負傷兵が集められていた、刀で斬られ、腕をなくしたり、腸がはみ出している者もいた。凄惨なうめき声が聞こえる。その中に、小隊長の吉岡がいた。負傷はしていない。
「おう、皆、今までどこにいたのだ」
それはこっちのセリフだと、弥助は思った。
「本陣の東で、浪士共の大砲とやり合っておりました。北条様はご存知ですが、お会いになりませんでしたか」数馬が答えた。
「いや、会わなんだ。みな無事で良かった」
北条は、歩兵組の指揮を執っている筈である。その北条に会っていないとは、どう言う事か。
「永見様のご下知は?」軍監が、どんな指示を出しているのか知りたいところである。
「それが、お姿が見えんのじゃ。馬を引出している所を見た者がおるそうじゃ」
「馬を?それは困りましたな」
「炊出しをさせているので、とにかくゆるりと休め。わしはもともと蘭方医のはしくれじゃから、戦傷の手当てをせねばならん」
吉岡はくるりと背を向けた。股間が濡れていた。それでも馬で逃亡したやつよりはマシか、と弥助は思った。
永見の指示は、なんと結城から来た。結城は、下妻の北西十二キロほどの所にある。歩兵隊の士官が集められたが、何故そんな遠い所にいるのか、皆不審がった。
「それもだ」北条が書状を読んでいる。「歩兵隊も結城まで引き揚げよとのご下知だ」
「それはどういう事でござるか。軍監がこちらに戻り、雪辱を図るのが筋ではござらぬか」
「我らがいなくなったら、下妻藩はどうなるのでござるか」
若手の士官は、口々に不満を漏らした。慶安の軍役令によると、一万石の大名は二百三十五人の動員義務がある。総兵力はもっとあるだろうが、千人と言われる天狗党に、かなうはずない。
「兵糧がないというのが理由だ」
それを聞いて、吉岡が言った。
「確かに、兵糧は焼かれてしまいましたな。江戸から送って貰うにも、手続きなども有り、十日か、二十日か」
「うむ」北条も腕組みしている「兵糧を手配するにも、永見様の名前でなければの。我らが勝手に手配しても、勘定方を通らぬ」
結局、結城へ移動することになった。大砲方も加え、隊列を整えて出発した。途中で下妻藩の使者が追いすがり、我らを見捨てるのでござるかと訴えた。
事実、この二日後にはまた天狗党の襲撃が有り、藩主井上伊予守は、なさけなくも陣屋を焼いて江戸に避難する羽目になる。
結城には戦闘中姿の見えなかった者も、三々五々集まって来ていた。
後日、「志摩守様がお呼びだ」と数馬がいうので、弥助と寅吉がついて行く。
引き合わされたのは、藤沢志摩守次謙と言う人物である。歩兵奉行並(少将相当)に任ぜられて半月と経っていない。幕府軍の指揮を執るために派遣されたのだが、下妻の戦闘に間に合わなかったのだと言った。
「さて弥助とやら、そちが兵賦の身分で小隊を動かしたことを問題にする者がおっての」
弥助は、襲撃時の状況をありのままに述べた。
「そこで聞くのじゃが、『五輪書』を読んだのは判ったが、所詮は二百年も前の兵法書じゃ。今の兵法に通用しなかったら、如何するつもりじゃ」
「天狗党も、さして戦争の経験はございません。ならば、昔の兵法書通りのいくさをすると思いました」
「なるほど、道理じゃ」
余談ながら太陽を背にして戦え、はジェット戦闘機にも通じる喧嘩の鉄則である。宮本武蔵は、やはり天才だった。
「いずれにせよ、そちのお陰で、大砲一挺が沈黙したのは事実じゃ。士官の下知を待っておったら、その大砲で我方はもっと痛手を受けたであろう。正しい判断だったと思うぞ」
どうやら、藤沢は道理の判る人物のようだ。この人を、最初から軍監に任命すればよかったのだ。
「次に、寅吉、そちが御持小筒組のミネー筒を使ったことも問題になっておっての」
「置き捨ててあったと聞きましたゆえ。いつでもお返しいたしますが」
「そう嫌味を申すな。猟師がミネー筒を持つと、どんな戦いぶりか訊きたいだけじゃ」
藤沢は、素直に寅吉の話に耳を傾けた。時々発する質問からすると、野戦での狙撃の有効性に興味があったようだ。
「こちらで手配いたすゆえ、ミネー筒はそのまま持っておれ。小隊にひとりぐらい遠撃ちの名人がいると、タクテキに幅がでて、重宝するはずじゃ」
「お聞き届け頂き、有難うございます」即座に平伏したのは、数馬だった。タクテキとは、いくさにおける駆引きの事だと、弥助たちは後で聞いた。
「その方ら歩兵が力戦していた事は、相判った。ご老中にも報告いたすゆえ、皆にも苦労であったと伝えてくれ。下がってよいぞ」
正確には、力戦していたのは百姓出の歩兵だけであった。そこが問題の核心であった。
藤沢は翌日慌しく出発した。江戸に戻って体勢を立て直すためである。
十七日には、弥助たち全軍が江戸に発った。大名の正規軍でもない天狗党浪士に、幕府が敗れた格好になってしまった。
江戸に戻るとすぐ、吉岡が陸軍方の事務仕事に転属になり、数馬が歩兵指図役に昇進して、弥助たちの隊長になった。吉岡様は実戦向きでは無かったからな、と歩兵達は噂しあった。
そうかと思うと、藤沢志摩守が御役御免になったと言う話が伝わってきた。
「まことでございますか」
弥助は確かめずにはいられなかった。
「まことだ」
数馬もこの話題には不機嫌だった。
「ご老中への報告書で、『第一、軍に将帥なし。あの様にてはとても軍事は相立ち申すまじご人選にて』、とやったらしい」
「それが、事実ではございませぬか」
「だからさ。『軍事は相立ち申すまじご人選』をしたのは誰か。だから、ご老中のカンに触ったのさ」
「はあ?」弥助の眉間にみるみるしわが寄った。「志摩守様は、戦争の実態をよくご存じでございました。私の様な百姓の言葉にも、道理があれば耳を傾けてくださいました。にもかかわらず御役御免とは・・・」
「少し前までは、言路洞開と言って、若年寄だろうがご老中だろうが、意見を直接言上できた。ところが今では、それが駄目になった。各人の入説を許していると、御公儀の方針がなかなか定まらず、ひいては御公儀の御威光にかかわるという理由でな。うるさく進言する者は、左遷されてしまう。これでは言路閉塞だ」
「そんなことで、夷敵と互角に渡り合える国ができるのでしょうか」
「まことだな。清国の円明園が欧羅巴の軍隊に蹂躙されたと聞いたが、浪士ふぜいにてこずっているようでは、この江戸の町も同じ目に遭う。ところが今のご老中は、朝廷と長州のことで頭がいっぱいだ」
七月十九日には、京都で禁門の変が起きている。幕府陸軍の仮想敵は、今や長州藩であった。
その長州藩には、八月には四国艦隊が押寄せ、馬関戦争が戦われた。奇兵隊は、強敵を相手に実戦経験を積み重ねつつあった。
七月二十九日、若年寄老中格の田沼玄蕃守意尊に率いられた幕府軍が江戸を出発した。余談ながら、あの田沼意次の曾孫である。その数一万三千。千人の浪士に対してこの過大な兵力は、幕府の焦りを示している。弥助たち西の丸の列獅綿多も、歩兵頭並城織部に率いられ、ほぼ総動員であった。北条新太郎も、三番町組を率いて参加していた。
弥助たちは、水戸、那珂湊と転戦したが、決定的な勝利は収めなかった。歩兵達はよく戦ったが、上級指揮官の不手際が原因だったらしい。
そして九月、逃げる天狗党を追って、戦場は磯原(現在の北茨城市)へ移った。歩兵組は、塹壕に籠って敵と対峙している。
この頃の塹壕を、胸壁と言う。現在の塹壕は、人がすっぽり入る溝を掘って土を前(敵側)に積上げる。胸壁は、前に溝を掘って土を積上げ、肩の高さにする。大砲の威力がまだ低かったので、人が溝に隠れる必要がなかったものと思われる。
もうこの時期になると、歩兵の戦死の多くが銃創だったことが、藤岡屋の記録を見てもわかる。それが火縄銃であっても、火器が戦いの主役になっていた。
旧暦の九月は、もはや寒い。朝食に配られた握り飯を頬張りながら、味噌汁が欲しいな、などど言っていると、砲戦が始まる。
「大砲方は、朝飯を食ってる暇もねえな」伊兵衛が言う。歩兵は、伍と言ってふたり一組になる。弥助の相棒は伊兵衛であった。
「まあ、大砲方はお武家だから、文句は言うまい」弥助も応じた。「武士は食わねど高楊枝」
大砲は高級技術とされていたからか、幕府軍でも早くから武士がなじんだ兵科であった。もっとも、本当に技術を必要とするのは、火薬の量と角度を決める人間なので、少数でよい(それでさえ、数表になっている)。あとは、この金属の塊を引張る力仕事でしかない。
砲声を聞き、弥助たちは握り飯を水筒の水で胃に流し込んだ。皆いくさ慣れして来ている。
ひとしきり砲戦が続く間に、敵は陣地を出て、小銃兵を先頭に匍匐前進して来るのが見える。こちらも歩兵が小銃で応戦する。この日の戦闘は、銃が熱くて持てなくなるくらい長時間に及んだ。
「みな残弾はどれくらいだ」数馬が訊くと、みな口々に十発です、八発です、などと報告する。五発と言う者もいた。
「数馬様」清八が報告する。「敵が、派手な陣羽織をひらひらさせてます」
確かに、戦場の数か所で、棒の先につけた陣羽織が揺れている。味方の歩兵の弾がそこに集中しているようだ。
「いったい何のまねだ。射撃の調練でもあるまいし」数馬も不審がる。
命中弾が出て、陣羽織が少しずつ千切れて行く。が、銃声が急速にしぼんで行った。
弾切れだ。
「撃ち方止め!斬り込んで来るつもりだぞ。弾込めして着剣!」
弥助たち三番小隊は、下妻の経験から残弾には気を使っていた。だが、他の小隊にはそこまでの経験はない。敵を見ると、やたらと無駄弾を撃つのである。
「敵の大将らしいのを見つけました」寅吉が言う。「指図しています」
「よし、寅吉は撃っていいぞ。他の者は二列横隊」
数馬が言い終わらないうちに、敵が一斉に立ち上がり突進してきた。
地味な衣装ながら、槍をかざして先頭に立つ武士が見える。寅吉がエンピールを構えて、ゆっくりと引金を引いた。先頭の武士が倒れた。が、敵の勢いは止まらない。
「前列、撃て」
前列の半隊二十人が発砲した。何人かが倒れた。すると敵は、左右に分かれて三番小隊の正面から消え、他の小隊が守る胸壁へ突進した。
左右の小隊から散発的な銃声が轟くと、胸壁を捨てて逃げ出す者が出始めた。臆病風に吹かれた軍隊は脆い。
総崩れだ。
あっと言う間だった。左右の陣地が占領され、弥助たちは孤立してしまった。
「囲まれてはかなわん。我らも下がるぞ」
数馬は、左右に一斉射撃をさせ、敵の気勢を殺ぐと叫んだ。
「走れ、一目散に逃げろ」
小隊は蜘蛛の子を散らすように走り出した。刀槍装備の敵が追って来る。弥助は、リボルバーを抜いた数馬と並走しながら訊いた。
「隊伍を組んで後退した方が良いのでは」
「大砲がないならそうする」
隊伍を組んだ所に大砲を撃ち込まれてはかなわない。成程と思って振り返ると、年長の兵が三人ばかり敵の槍兵に追い付かれそうであった。息が上がっているのが見て取れる。
「そちは先に行って、隊をまとめろ」
数馬は弥助にそう命じると、年長の兵の方へ戻って行った。リボルバーを発射するが、走りながらでは当たらない。間に合わず、三人は穂先に掛けられてしまった。
弥助は止まって装填し、命令に背いて数馬を追いかけた。
今度は数馬が槍兵に追いかけられる番である。至近距離でリボルバーを発射し、ひとり倒したが、弾が尽きた。数馬は剣を抜く。
弥助は、数馬も剣術は得意でないとにらんでいた。まずい。
弥助は発砲しようとしたが、数馬が邪魔になって撃てない。ちっ、と舌打ちすると、別の方角から発砲音がした。敵がまたひとり倒れる。
見ると、寅吉が5人ほど連れて加勢に戻っていた。しかも、寅吉を含め三人は再装填中だが、三人は射撃体制を取っている。
敵も気勢を殺がれ足が止まった。が、動こうとしたので、弥助が発砲した。敵はどの方向から撃たれたのかと、見回してる。その間に数馬は難を逃れ、皆走って逃げた。
この日大砲まで取られた幕府軍だったが、歩兵組の歩兵頭並北条新太郎、城織部らは、すぐさま反撃の計画を立てていた。
が、そこへ本陣から連絡がきた。新手と後退させるので、西丸下一番から五番小隊までを江戸に引揚げさせよとの命令だった。
「冗談ではない。これらの小隊は、下妻以来のつわものだぞ」北条は、これらの兵の実力を熟知している。
「しかも攻撃の中心になる小隊だ。新手の兵では、この策はこなせまい」城織部も困惑している。
「わしが本陣へ行って、田沼様と掛け合ってこよう。引揚を十日伸ばして貰う」
北条は直ちに本陣へ馬を飛ばした。が、何があったのか、北条は罷免永蟄居になってしまった。
実情を訴えたのに、罰を受けるのでは話にならない。城は逆襲をあきらめ、五個小隊を江戸に返した。
(第2部へ続く)
近日中に第2部も投稿します。