お伽話の魔女
太陽が昇っていてもその光はほとんど届かないような、深い森のずっと奥。そんな場所に災厄の魔女が住んでいるーーーそれがこの国のお伽噺である。
それは子供をおどかすための空想上の魔女であると民はみな知っていて、やんちゃの盛りの男児などは悪さを叱る母親に、魔女にお仕置きされると言われては泣き出してしまう。のどかなこの国の、どこにでもあるような伝承だった。
「今さらそんな説明されなくったって、俺だって知っている。この国で育ったんだから」
この国の王子である男が気怠げに言ったのは玉座の前であった。
「そうか。お前は肩苦しい書物ばかりよんで、絵本のひとつも知らないとばかり思っていた」
「父上、それは嫌味ですか」
軽口を叩くような関係、それがこの国の第一王子と国王の関係である。
「それで、わざわざ俺をここに呼んだんだ。そのお伽噺がどうしたっていうんです」
「キシュ。答えを急ぐなといつも言っているだろう」
王子の名を呼びたしなめる国王は、この国の国民性を写したようである。どこまでもおおらかで、揺るがない強さがあった。
しかし、王と同じくこの国で生まれ育ったキシュが話を急かすのには理由があった。差し迫る剣の鍛錬の時間に遅れたくなかったからだ。
幼い頃から彼は剣が好きだった。それは王宮の誰もが知るほどに努力を重ねていた。だから息子がどれほどその時間を大切にしているかは父である国王も知っているはずで、それを妨害しても良いほどの大事でなければキシュは納得できなかったのだ。
「お前の縁談がまとまりそうだ」
ふいに、国王は真面目な声色でそう言った。
「…そうですか」
冷めた様子で返すキシュは、全く結婚というものに無頓着であった。もちろん王族として子孫繁栄に貢献することは大事な責務だと思っているし、経験がないというわけではなかったが、何せ女にはいい思い出がないのだ。
そんなわけで彼はだれが王太子妃になろうがどうでもいいと思っていた。つれない息子の様子に、国王は溜息をついた。
「もっと興味深そうにしないか」
「元より相手を選べるわけでもないでしょう。俺は日常を壊さぬ妃である事を願うことしかできない」
政略結婚とはそういうものだと早いうちに割り切る貴族が殆どだ。なにもキシュの態度が捻くれているわけでは無いはずなのに、父の表情はどこか悲しそうであった。
「現在は隣国との情勢も安定している。が、しかしリュティスティよりお前に第三王女をと打診があった」
「そんな大国がこの国に?何か裏があるのでは?」
リュティスティといえば東の軍事大国だ。農耕ばかりでのどかなこの国とは全く性格が違う。いくら呑気な国王でも、疑いから入るのが普通だろう。
「…そうだな。しかしその王女の母君は末の王妃でな。私の従兄妹殿だ」
眼を細める仕草は、遠い思い出を懐古するかのようだった。家系図で彼の国に嫁いだ娘が王の従兄妹である事は知っていたが、ひょっとすると、その従兄妹とやらとは其れなりに仲が良かったのかもしれないとキシュは思う。
「はあ。そんな末端の姫君をわざわざこの国へ。ますます見返りが気になる」
「その所は私がきちんとする。お前は姫を迎える準備だけしておけ」
「それはまあ、いいですが。最初のお伽話とどう関係が?」
どこかもやもやとする気持ちのまま、キシュは訪ねる。どうも国王は何かを隠しているーーそう感じていた。
「お前が魔女を知っているか、確かめたかっただけだ。久しぶりに昔のことを思い出したからな。我が妃がよくその魔女の話をしていたから」
王妃、つまりキシュの母親は彼が産まれてすぐに亡くなった。記憶も無い母だった。新しい妃を迎えないままの国王は王妃を愛し続けているというのはこの国の美談で、町の酒場ではよく酒の肴として語られているそうだ。キシュにとっては他人事のような、そんなひとだ。彼にとって最も愛情を向けてくれたのは乳母で、母よりもひと回りも年をとった彼女を母親のように慕っているのだから。
「母上が。そのような話は初めて聞いた」
「…そうか。もう話は終わりだ、キシュ。これからお前の大好きな剣術を磨くのだろう?」
先程までとは違うからかうような笑みを浮かべて、国王は玉座を立つ。その時になってやっとキシュはすでに騎士団の鍛錬の時間に遅れていることを思い出し、慌てて王の間を出たのだった。