終話
――いつの間に眠ってしまったのだろう。
遠いようで近くにある記憶が頭の中をチラついている。
浅い眠りだったのだろうか。夢を見ていたようだった。
夢の中で僕は、花が咲き乱れる草原に立っていて、淡く光る無数の蝶が舞っている。
月の光がこの場所を照らしだし、幻想的な世界を作り上げていた。
「あそこに揚羽蝶がいるよ。」
「ほんと。綺麗な蝶々ね。」
「ほら、あそこには紋白蝶も。」
まだ幼い自分が母と父に手を繋がれて無数に舞う蝶を見つめていた。
とても懐かしく、暖かい夢だった。
目を覚ますと、僕は岬にいた。
打ち寄せる波の音がすぐ近くで聞こえている。
(確か昨日は旅館に宿泊したはず…。)
まだ朦朧とする意識。絡まる記憶に僕は混乱していた。
(なんでここに…?)
昨夜、揚羽の後ろ姿を見送った後、外の風が止んで再び夜が静寂を取り戻していた。
――自分らしく生きて。
その言葉に勇気をもらい、もう少し頑張ってみようと決心した。
そこまでは確かに覚えている。
しかし、その後の記憶が全くない。自分がどうやって部屋に戻ったのか。どうやってここまで来たのか。
一体、どこまでが夢だったのだろう。
振り返ると、階段前にバイクが停まっていた。昨日はなかったはずのバイク。
キチンとロックもかけられており、動かされた形跡もなかった。
狐に包まれる感覚、というのはこういうことなのだろう。
首を何度も傾げながら僕はバイクにまたがり岬を後にした。
朝焼けに輝く海は、昨日の表情とは打って変わって希望に満ちているようだった。
まるで僕の背中を押すように。
――それから僕は、実家に戻り再就職をした。
と言っても、今は田舎で農家を営む父と母の手伝いをしているだけで、前みたいに組織に属しバリバリ働いているわけではない。
しかし、日が昇ると畑に出て、日が沈む頃には家に帰って家族の時間を過ごす。質素であったが、人間らしい生き方が戻って僕は満足をしていた。
就職する前は考えてもみなかった。田舎での農家暮らしを。
あんなに嫌がっていたはずなのに。
これが揚羽の言っていたことなのかもしれない。
それならば揚羽のように生きてみるのも悪くはない。
これが存在の証明なら。
――5年後。
僕は実家を継いだ。
両親はとても喜んでくれた。見合いで結婚もした。
親は仕事を引退し、これからは僕達夫婦がこの畑を守っていかなくちゃいけない。
新しい自分が新しいレールの上を走りだす瞬間だった。
ある日、たまには二人で旅行でも、と言う両親の言葉に甘え、僕達はあの岬を見下ろす旅館へと足を運ぶことにした。
新幹線に乗って、そこからタクシーで30分ほど走ると、懐かしい港町が見えてきた。
岬は、今も変わらずあの時のままだ。
「あ、この辺でいいです。」
僕が財布を取り出すと、タクシーの運転手は不思議そうな顔をして僕達夫婦を覗き込んだ。
「お客さん、この岬に観光でも来たのかい?」
「いえ、あの丘の上の旅館に宿泊するんです。古くさい迎えのバスがここまで来るはずなんですが。」
タクシーの運転手は静かに頷くともう一度車に乗れと僕らに言った。
迎えのバスで旅館まで行きたいという僕を、お代はいらないからと、半ば強制的に車に押し込み再び走りだした。
バスで旅館に向かった時は生い茂る林の中を進んでいったように感じたが、今回は綺麗に整備された道を10分ほど走ると丘の上についた。
妻が窓から身を乗り出し、不思議そうに問う。
「ねえ、旅館はどこ?」
一番驚いていたのは自分自身だ。ここにあった巨大な建物は跡形も無く、だだっ広い草原が広がっているだけだった。
「あれ、ここにあったんだよ。大きな旅館が…。」
そう言う僕を見て、タクシーの運転手がゆっくりと口を開いた。
「確かにありましたよ。でもそれは20年前の話です。」
20年前?
そんなはずはない。
僕は確かに5年前、ここの旅館にたどり着いた。そして旅館に宿泊したんだ。
温泉も入った。夕食も食べた。白羽という女将が出迎えて、揚羽という娘と話もしたんだ。
ただ不思議そうに僕を見つめる妻と、再び狐に包まれたような顔をする僕。
「たまにね、いらっしゃるんですよ。ここに宿泊したって人が。」
タクシーの運転手は窓の外を眺めながらこう続けた。
「あなたはここに泊まって、こうしてここにいる。感謝すべきことですよ。さて、行きましょうか。別のお宿をご紹介します。」
そう言って運転手は再び車を走らせた。
僕は振り返ってもう一度、あの旅館が建っていた場所に目をやった。
草原の真ん中に一匹の揚羽蝶がヒラヒラと舞っているのが見えた気がした。
丘を降りて海沿いの道路を走りながら、運転手はこの町に伝わる不思議な話をしてくれた。
「天野六輔という人がいましてね。昔あそこで温泉宿を経営していたんです。その人はたくさんの珍しい蝶を庭で飼っていて、それはそれは美しい宿だったと聞いております。特に水玉模様をした幻の揚羽蝶がいると巷で噂になり、毎日たくさんの観光客が幻の蝶を一目見ようと宿を訪れていたそうです。しかし、あの岬で一人の人間が身を投げたことから、いつの間にか岬は自殺の名所として有名になってしまいました。なんでも身を投げた人は夜中に幻の蝶を見たとか…。それから不吉な蝶の噂が流れ、客足はぱったりと止まってしまったそうです。噂が噂を呼び、ついには町が動きました。主人は幻の蝶などいない、ただの揚羽蝶だと主張しましたが、死を呼ぶ蝶は町のイメージを壊しかねないということで20年前、ついに宿の取り壊しが決まったのです。死を呼ぶ蝶使いと町民から呼ばれるようになった天野六輔は、町を追いやられることになり、最後に自らもあの岬で命を断ってしまったのです。」
車内の空気は重く、妻が怯えた表情で僕の手を握っていた。
「じゃあ、あの旅館は、一体…。」
「まだ続きがありましてね。取り壊されてからも、ちょくちょくあの宿に泊まったと言う人が現れるんですよ。つい最近も女性の方を乗せたんですけどね、言うんですよ。さっきあの宿から出てきたんだって。何でも、生きるのに疲れて気付いたら岬に立っていたそうです。もう死んでしまったほうが楽になれる。そう思った時、赤い光が見えて、バスが迎えに来たと。」
全く一緒だった。
僕も確かに死のうと思って岬に歩を進めていた。その時、赤い提灯を持った老婆が現れたんだ。
「不思議なことにね、皆さん口を揃えて言うのが、美しい女性に会ったと言うんです。白い着物の女性に。あそこの主人は男で、女将はいなかったはずなのです。従業員もほとんどが男性で、女性従業員は地元のパートタイムとして働く方達ばかり。」
白羽さんのことだとすぐにわかった。僕を出迎えた美しい女性。確かに会っていた。
けど、話と違う点がある。
僕はもう一人会っている。
「あの、僕はもう一人会っています。黒い着物の女性です。黒地に青と黄色の水玉模様をした。名を揚羽と…。」
運転手は、ほほぅと唸ってみせた。
「それは珍しい…。私は初耳です。水玉模様とは、まるで幻の揚羽蝶ですな。」
運転手は声高に笑った。
タクシーはホテルの前で停まり、僕は清算を済ませた。もうこの辺もリゾート開発が進んでいるのだろうか。素朴な風景には似合わない立派なホテルだった。
運転手は、ふと何かを思い出したかのように降車する僕らにひっそりと語り掛けた。
「そうそう。あの宿。確か真世庵と言いましたな。でも町民からはそれをもじって迷い庵と呼ばれております。何かに迷った迷い人が最後にたどり着く場所だとか…。何でも、その宿に宿泊した人は近いうちに大きな幸せを掴むという言い伝えもこの町にはありましてな。見るところ、あなたは既に…。」
運転手は清算を完了させると車から降りてドアを開けてくれた。
「案外、死を呼ぶ幻の蝶は幸福を運んでくる幻の蝶の間違いだったのかもしれませんな!」
緑の瞳で僕を見つめながら無邪気に笑う揚羽の姿が甦る。
漆黒色に、艶やかな水玉模様をあしらった着物でヒラヒラと舞いながら、今日もどこかで迷い人を導いているのかもしれない。
迷い庵と呼ばれる、最後の地で。
――闇夜に紛れて、一人岬に立つ女性の姿。
思い詰めた表情で暗黒の海を覗き込んでいる。
「もし、そこの御方。」
赤い光が女性を照らしだした。
「お宿は、もうお決まりですかえ?」