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其の二

揚羽と名乗ったその女性は僕を二階にある客室へと通した。

いくつものドアが並ぶ長い廊下。所々に海が描かれた水彩画が飾られており、床は驚くほど綺麗に磨かれていて、まるで鏡のようだった。

しかし建物の豪勢さに比べると、部屋は幾分か質素なもので小さな畳の間の先はガラス張りの大窓があるだけだった。

丘の上にあるだけあって、そこからの眺めは大したものであったが。


「温泉は一階の突き当たりです。夕食はその後持ってきますね。何かありましたら呼んでください。」


白羽という女将に比べると、やはり揚羽の言葉は少し若者言葉が交ざっており、話すイントネーションもフワフワと軽い感じがした。

失礼しますと(ふすま)が閉まる。

同時にこの部屋に静寂がやってくる。大窓から波の音が微かに聞こえている。

暗闇からザー、ザーと鳴る波の音、カタカタと窓を鳴らす風の音は、昔家族と来た温泉旅行を思い出させる。

懐かしさが込み上げ、しばらく海を眺めたまま動けなかった。


一階突き当たりに、男湯、女湯と書かれた暖簾(のれん)がぶら下がっている。僕は暖簾をくぐり、脱衣場に入った。

がらんとした脱衣場に人の気配はなく、着物入れが規則正しく並べられている。綺麗に整頓されている、というより何もない、という印象。

ここにたどり着いた時は、えらく繁盛しているように思えたのだが…。

温泉へと続く廊下も、異様に静かで誰ともすれ違うことがなかった。

こんなに大きな旅館なら、それなりに従業員の数もいるだろうに。

しかしここまで、僕の知っている人は女将の白羽、黒い着物の揚羽だけだった。

()に落ちない部分を抱えながらも、混雑しているよりマシかと思い、服を脱ぐ。

ジーパンのポケットに手を突っ込むと、一枚の写真が出てきた。

岬で拾った一枚の家族写真。

そういえばポケットに入れちゃってたんだな…。

その家族写真を再び見た時、さっき玄関での出来事を思い出した。

この真ん中に写っている制服を着た少女。先程小さなカバンを抱えてこの旅館を出ていった少女。

少し痩せていて、私服だったせいもあり、さっきはわからなかったが紛れもなくここに写る少女本人だった。

よかった。生きてたんだな。本当によかった。

いつの間にか、誰かを心配できるほどの余裕が僕には生まれていた。


――部屋に戻ると既に布団がひかれており、お膳に夕食が並べられていた。

さすが港町といったところか。

テレビくらいでしか見たことのない、新鮮な海の幸だ。

下の階から人の騒ぎ声が聞こえる。宴会でも開かれているのだろうか。

やはりたくさんの宿泊客がこの宿にはいるようだった。

どういう流れで一泊することになったのかはよくわからない。気付いたら僕は部屋の明かりを消し布団に潜り込んでいた。

海が見たいと思った。

引き寄せられるようにやってきたこの岬で海を眺めていると、このまま身を投げてしまいたい衝動に駆られた。

このまま消えてしまっても…そう思った。

その時、突然現れた老婆に赤い光を照らされて…。

風が強くなって波が荒れている音が聞こえる。

なかなか眠ることができない。


(もう0時過ぎか。)


僕は起きだし、何か飲み物でも、と思い廊下に出た。

相変わらずシンと静まり返った廊下。淡い光が道を照らしだし不思議な感じがする。

一階のロビーに腰掛けてペットボトルのキャップを回す。

風はどんどん強さを増し、玄関の戸をガタガタと鳴らしている。

海の夜はこんなにも荒々しくて、人を不安にさせるのか。僕の闇にスッと入り込んでくるようで、少なからず恐怖というものを感じていた。


「どうかしましたか?」


暗闇から誰かの声が聞こえた。

揚羽がこちらを見て優しく微笑んでいる。


「ちょっと眠れなくて…。」


揚羽はフフフと笑うと僕の横に腰掛けた。甘い花のような香りがする。改めて見ても本当に綺麗な顔立ちをしている。透き通った緑色の瞳が僕をじっと見つめていた。


「さっきはごめんなさいね。」


「さっき?」


「ほら、あなたが旅館にやってきた時。私バタバタしちゃって。」


「ああ、かまわないよ。繁盛してるみたいだね。」


揚羽は笑った。

片方だけ生えた八重歯。

この人はこんな風に笑うのか。まだその笑顔には無邪気さの欠けらが残っていた。


「あなた、学生さん?」


「いや、とっくに卒業しているよ。一応は社会人。今は社会人だったと言ったほうがいいかな。」


そうだったんですね。

揚羽はそう言って一つ呼吸を置いた。


「あなたもまた、道に迷っているのですね。」


「え?」


「今日ご退室された女性も、あなたと同じ。迷い人でした。学校でひどく辛い経験をされたようで。でもその人はここで新しい自分に出会うことができたみたいでした。」


やはりあの時の少女は自分と同じ、一度あの岬から身を投げようとしていたようだった。腕に巻かれた包帯も、恐らくは、その辛さの傷跡…。


「そうだ、これを。ここに来る途中に拾ったんだけど。」


僕は写真を取り出す。


「これは。わかりました。こちらで預かっておきます。あの人にとってとても大事なものだと思います。これこそ、あの人に新しい自分を与えた存在ですから。」


揚羽はそう言って写真を受け取った。


「あなたの存在の証明って、何だと思います?」


緑色の瞳が再び僕を見つめる。


「存在の証明?」


「私の場合はこの場所がそうです。今はそう思えます。私、ほんとは演劇をやりたかったんですよ。中学も演劇部で。高校でも演劇をやろうと思ってたんです。舞台に立つのが夢で。でも、ここが私の実家だから。」


「後継ぎ…か。」


「一人娘ですからね。」


揚羽は無邪気に笑っている。


「この旅館も忙しくなって、人手も足りなくなって。高校も中退しちゃったんです。私もこの旅館に入るために。」


「そうだったんだね。」


「はい…。」


伏し目になった揚羽が急に大人びた表情を見せた。

白羽さんによく似ている。


「私の場合、最初から歩く道が決められていた。ただそれだけです。」


「でも、君のやりたいことは?」


「私にとって、それが必要なものだったのかはわかりません。今もずっと。でもお母さんにとって私が必要な存在でした。もちろん私にとっても。だから旅館に入る覚悟もできたんだと思います。今はここで働けてよかったと思っています。あなたにも、こうして会えて話すことができました。」


自分は随分小さなことで頭を抱えていたのだと感じた。まだ若いこんな子でさえ、自分を受けとめ、運命を受けとめている。

僕はこの先が見えなかったんじゃない。見ようとしていなかったんだ。

強く自分を生きる揚羽は、僕よりずっと大人びて感じる。


「これから…見つかるかな。自分の存在する意味を。」


「あなたが望むのなら。迷ったら少し休んでまた歩けばいいだけです。まだ無限に道は広がっていますよ。」


揚羽は再び僕を見つめ、優しく微笑みかけてくれた。僕の中の闇がゆっくり中和されはじめ、晴れやかな気分を与えてくれる。

揚羽の言葉、一つ一つに強さを感じた。

その気付かせてくれた言葉こそが、僕の生きる証明のきっかけになったのかもしれない。


「揚羽!宴会場の片付けは終わったの?」


奥の廊下から白羽さんの声が聞こえた。


「あ、やば!お母さんだ!すぐ行きます!」


揚羽は急いで立ち上がり深々と頭を下げた。

奥の廊下に消えていく揚羽。振り返りざま、揚羽は最後にこう言った。


「例えどんな形でも、自分らしく生きて下さい。」


黒い着物を(ひるがえ)し、そのまま夜に溶けていった。

ちりばめられた水玉が更に色を増し、美しく闇に冴える。

それはまるで、夜空に浮かぶ揚羽蝶のようだった。

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