其の一
上手く生きることができなかった。
小学生で大人が信じられなくなり、中学生で人が信じられなくなり、高校を出る頃には自分を見失った。
今、振り返ってみると一人の時間が多かったように思える。
唯一、趣味と呼べるバイクで時々海を見に行った。
それだけが自分を人に近付ける手段だったんだと思う。
決して優秀ではなかったが、大学をなんとか卒業することが出来、ここから電車を一時間ほど乗り継いだところの小さな会社に就職もした。
――朝、準備もままならない状態で家を飛び出し、人一人がやっと立つことのできる快速急行に乗る。
鉛のような重く冷たい空気が流れる事務所で延々パソコンの相手をし、気付いた時には、もう日付が変わろうとしている。
最終電車のアナウンスが流れる駅で電光掲示板の明かりが消えるのを確認してから、再び電車に乗って朝へと戻ってゆく。
食事、というものは習慣ではなく、欲でもなく、ただ生きる為の義務として行っている感覚。
朝昼夜。どのタイミングで食事を取ればいいのか既に忘れていた自分は、コンビニに置かれている、今喉に通りそうなものをいくつか選んで体に無理矢理流し込んでいた。
機械。自分が機械になれたらどんなに楽だろう。
冷たい感情が支配し、時間を失った世界。
街を歩く群衆が皆のっぺら坊に見える。
今日も最終電車に乗って、暗く歪んだワンルームの扉を再び開いた時、自分の存在が既にこの世界から消えかかっていることに気付いた。
ようやく気付いた、と表現する方が今は正しいのかもしれない。
もう人間として生きてすらいないと悟った時、三年間繰り返した生活を一枚の紙切れで終わらせることにした。
不思議なもので。
空になったはずなのに、自分の中に一つの欲求があったことを知る。
また海を見たい。
駐輪場で金食い虫に成り下がっていたバイクに命を吹き込み、勢い良くアクセルを回す。
懐かしむように大きな音を立てて、バイクは僕を乗せて走ってくれた。
どれくらい走り続けたのかは覚えていない。
すっかり辺りが暗くなった頃、海が一望できる岬に僕は立っていた。
遠くに港町の明かりがうっすらと見える。
波の音は一定の間隔で、ザザー、ザザーッと鳴っていた。
夜の海はこんなにも不気味で、冷たくて、それなのに母の手の中のような深い優しさを感じる。
どこまでも続く闇がとても心地よい。そっと僕を包み込んで、無へと流してくれるようなそんなことを思う。
どうせ消えかかった存在。これからの目標もなく、目的もない。
ついには生きる意味を見失ってしまった。
何もない。もう何もない。
ただここに残る肉体を葬ってしまえば、少しは楽になれるのだろうか。
切り立った岬に歩を進める。吸い込まれるような闇に体を預けようと。
ふと足元に目をやると一枚の写真が落ちていた。
これは…家族写真?
仲の良さそうな夫婦の間に制服を着た少女が写っている。
なぜこんなところに。
まさか。
岬から海を見下ろした。
波が岩場に打ち付けられる音しか聞こえず何も見えない。
ただ、そこには闇があるだけ。
闇がさっきより深さを増しているように思え、少なからず恐怖というものを感じていた。
「もし、そこの御方。」
後ろから声が聞こえ、驚いて振り返った。
そこには赤い提灯を持って綺麗な着物を纏った老婆が立っていた。
僕は持っていた写真を、とっさにジーパンのポケットにねじ込んだ。
「宿はもうお決まりですかえ?」
赤い光が僕を照らす。
「いえ、まだ。でも宿を取るつもりは…。」
さっきまで人の気配など感じなかった。何時の間に。老婆の持つ提灯がユラユラ揺れて辺りを赤く染めてゆく。
「でしたら、お食事だけでも取っていかれたらどうでしょう。わたくし、この先にある宿の案内人をしております。」
老婆はそう言って、海とは反対側を指差した。
小さな丘に、明かりが灯っているのが見える。
今まで気付かなかったが、かなり大きな建物のようだ。
背の高い林からあれだけ顔を出しているんだ、間違いないだろう。
自分が空腹を感じているのを知り、最後の晩餐も悪くないと思った。
「そうですね。夕食だけ頂いてもよろしいでしょうか。」
老婆はゆっくり頷いて歩きだした。
後をついて僕も歩きだす。
「あれ…。バイクは…。バイクがないぞ。」
岬に続く階段前に停めておいたバイクが無くなっていた。キーでハンドルロックもかけ、太い鉄のチェーンもしたはずなのに。
誰かが持っていった?
いや、大型バイクだ、誰かが持ち上げるのは不可能だ。車やトラックで運んだとも考えられない。こんなに暗く、静かな場所だ。
車やトラックが近付いてきたらすぐにわかる。
じゃあ、バイクはどこに?
…でも、もう必要ないか。帰る手段があっても仕方のないことだ。
「わたくしが来た頃には何もありませんでしたが。明日警察に届けてみてはいかがでしょう。小さな町です。どこかに置かれているならすぐに見つかるでしょう。」
老婆がそう言った後、暗闇の向こうから一筋の光が近付いてきた。
旧い形をした送迎バス。昔に家族と一度だけ温泉へ行ったことがある。その時に乗ったバスにそっくりだった。
「さぁ、お乗り下さい。」
老婆が僕の背中を押す。
「あなたは?乗らないのですか?」
「わたくしは、案内人でございます。」
赤い光に照らされた老婆は、微笑みながら頭を下げた。
「どうぞ、ごゆるりと。お気の済むまま。」
バスはゆっくりと丘を目指して走りだす。
薄暗い車内から、暗黒の海を眺めると、改めてその不気味さと永遠の安らぎを与えてくれるような静寂さの共存を確かめることができた。
10分ほどだっただろうか。
林を抜けたその先には、見上げるほどの巨大な旅館があった。
こんなところにこんなものが。
少々驚きながらも、感動に似たものを感じていた。
湯気が奥から立ち上り、全ての部屋に明かりが灯っている。
有名な温泉宿なのだろうか。
石畳の先にある玄関をくぐると、白く透き通るような着物を纏った女性が出迎えてくれた。
「ようこそいらっしゃいました。わたくし、女将の白羽と申します。」
「あ、さっき案内人の方に…。」
「話は聞いております。まずはお部屋に御上がり下さいな。」
そう言って女性は優しく微笑んだ。綺麗な白い袖がヒラリと舞い、思わず見とれてしまいそうなほど美しい人だった。
「でも…予約もしてないですし。」
「お部屋はございます。まずは温泉で汗をお流し下さいな。すぐにお食事をお持ち致します。」
こんな大きな旅館に予約もなしで?
外から見た時はえらく繁盛しているように感じたが。それほど部屋数があるのだろうか。
さぞかし、高いんだろうな。
財布を取出し、思わずキャッシュカードを確認した。
「揚羽!お客様をお部屋に案内して頂戴。すぐに温泉に行かれるわ。」
女将がそう声を掛けると、奥の廊下からもう一人顔を出した。
「今違うお客様のご退室の準備をしてるのよ!私は何人もいないんだから!」
黒に山吹色の水玉と、雨上がりの空をイメージさせる群青の水玉をちりばめた、艶やかな着物の女性が忙しそうにしている。
「なんて言葉使いを…。申し訳ございません。まだ新人なもので。」
「ああ、大丈夫です。」
黒い着物の女性が、小さなカバンを持って、そそくさとこちらにやってきた。
その後ろに続いて、もう一人、分厚いパーカーを着た少女の姿が。
「お客様お帰りになられます。バスは?」
「ええ、表に。」
黒い着物の女性は、少女にカバンを渡し、深々と頭を下げた。
カバンを受け取る少女の腕には、包帯が巻かれていた。
見覚えがある。
この人、どこかで…。
「お世話になりました。ありがとう。頑張ってみます。」
少女はそう言うとにっこり笑って玄関を出ていった。霧に包まれたかと思うとすぐに見えなくなった。
「さ、お待たせしました。私、揚羽がお部屋へとご案内致します。」
よく見ると、女将によく似た、とても美しい人だった。緑の瞳をしたその人はどこか儚げで、不思議な雰囲気を持っていた。
――これは、僕が過ごした、たった一夜の出来事。
「ようこそ。真世庵へ。」