1-8 男の娘のお誘い
「とりあえず行ってみるか」
放課後の教室。
朝から何度も岬と言葉を交わす機会はあったものの、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて昨夜見た夢の話を、岬本人に切り出す気にはなれなかった。
『明日の放課後屋上に来て』
それでも夢で会った岬の言葉ははっきりと耳にこびりついている。
馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、放課後になると、大悟は導かれるようにして屋上へ足を運んだ。
階段を上り屋上へ続く扉を上げると、春の風が大悟の肌に吹き付けてきた。
扉の向こうから入ってくる日差しが眩しくて、手でひさしを作る。
「ふふっ、来てくれると思ったよ」
風が止み、視界の向こうでは、岬が目を伏せながらフェンスに寄りかかっていた。
まるで最初から大悟が来るのがわかっていたかのように、岬はこちらを振り向きもしない。
大悟と岬の二人しかいない屋上。眼下に広がっているグラウンドからは、運動部が大声を張り上げて練習に励んでいる。おそらく秀人もその輪の中にいることだろう。
大悟は後ろ手でドアを閉めながら岬へと近づいた
「岬、おまえ――」
「うん。ボクはね、昨日の夜、大悟クンが影に襲われる夢を見たことを知っているんだ。だってボクはその場にいたんだからね」
「どういうことだ……?」
思い出されるのは岬の手の感触。
夢の中で出会った岬はいつだって、現実感を伴っていた。現実で岬と触れ合った感触が鮮明に残っていたからだと思っていたが、それは思い違いだったのかもしれない。
「断片的に説明するよりも、きっと一気に全部を説明した方がわかりやすいと思うんだ。だから質問にはそのあとに答えるよ」
一歩ずつ岬が近寄ってくる。大悟は足に根っこが生えてしまったかのようにその場から動けなくなった。
大悟の本能が、面倒になるから岬とは関わるなと告げていた。だけど大悟はどこまでも深い岬の瞳に魅入られてしまっている。
「こうやってここに来たということは、大悟クンはボクの秘密が知りたかった、という認識でいいんだよね?」
いたずらっぽく目を細めて首を傾げるのは、大悟をからかういつもの岬だった。
「別になんとなくだ。気の迷いって言い換えてもいい。正直に言って、夢の中のおまえの言葉を信用していたわけじゃない。ただなんとなくこのまま帰るっていう気分でもなかったんでな。そんだったら、夢で会ったおまえの言葉でも確かめようとしてやってきたら、本当に岬がここにいたってわけだ」
「そっかあ。気の迷いかあ」
ニタニタと笑いながら、岬が大悟を見上げている。
「大悟クンは迷いの多い男だもんね。だってボクの性別を知るまで完全にボクのことを、本気で狙ってたもんね。あれも気の迷いだよね」
「なっ――」
顔が熱に支配されていく様子が自分でもわかる。
「べ、別にそんなこと……、一回も考えたことねーよ。おまえの自意識過剰なんじゃねーか……」
慌てふためいた大悟の言葉は、呂律が完全に不自由だった。
「あはは、はいはい。そういうことにしてあげるよ。っと、大悟クンと話をしてると、ついつい脱線しちゃうね。それじゃあ本題に入ろっか」
と、岬がいつものようなふざけた表情から、色のない真剣な表情へと変化する。それは大悟が一度も見たことのない岬の顔だった。
「夢の中で、大悟クンはボクと出会った。だけど、大悟クンは昨夜の夢の内容をどこまで覚えているの?」
「影が現れたときから、影をぶっ倒して岬が出てきたところまではっきり覚えている。あの妙な影を殴った感触も、どうにか思い出そうとすればなんとなく思い出せるくらいかな」
何気なく言うと、岬は口元に手を当てて驚いたように呆けた表情をしていた。
「大悟クン、キミはなんでもないような言い方をしているけれど、何も知らないキミがアレを素手で、しかも一人で倒したって相当すごいことなんだよ。うん、大悟クン、すごい」
岬はひとりぶつぶつと呟きながら楽しそうにクルクルと回っている。
「あ、ありがとう……」
言っていることの意味はまったくわからなかったが、自分が褒められているということだけはなんとなく理解できたので、それほど悪い気分ではない。
「っとと、浮かれている場合じゃないよね。それじゃあ続きを説明するね」
きりっと表情を引き締めて、岬が説明を続ける。
「大悟クンを襲った影。アレの正体は通称夢魔。夢の中にだけ現れて、その人の夢を侵そうとする存在。そしてそれらの野望を阻止するのが、ボクのような退魔士だよ」
「夢魔……、退魔士?」
舌で転がすようにその言葉を反芻する。
「夢魔がどこから現れているのかは、ボクたちにも詳しいことはわからない。夢魔の棲む世界が何かのひずみで、人間の夢の中と繋ぎ合わさることがあって、夢魔たちが流れ込んでくるなんて説もあるけれど、それが本当かはわからない」
岬は小さくため息をついて肩を竦めてみせる。
「だけど夢魔の目的はわかっているんだよ。夢魔は夢の中でしか生きられない存在なんだ。夢から現実世界に出てきたくても、器を持たない夢魔は現実には出てこられない。だからその器を得るために夢の中で宿主の精神を排除して、抜け殻になった人間の身体を器として乗っ取ろうとするのが夢魔の性質なんだよ」
「それじゃあ、俺が昨日の影、いや夢魔を放って置いたとしたら、俺の身体はその夢魔とやらに乗っ取られたってことか……?」
今さらになって、昨夜の夢を思い出して寒気がしてきた。
「そうだね。だけど、そうならないためにボクは大悟クンの夢に立ち入らせてもらった。ただボクが参上する必要はなかったみたいだけどね」
ははっ、と頭を掻いて、岬は照れくさそうに笑う。
「普通はね、夢魔に襲われた記憶なんて残らないはずなんだよ。だって夢の中での出来事なんて普段は綺麗に忘れちゃうでしょ。でも大悟クンは違ったし、それだけじゃない。何も知らない大悟クンは素手で夢魔と渡り合うどころか、夢魔をやっつけてしまった。大悟クンがどう思ってるかは知らないけれど、それってかなりあり得ないことなんだよ」
「…………」
昨日の夢を思い出すかのように、右手を見つめてみる。かなり薄れてしまったとはいえ、そこにはかすかに影――夢魔を殴った感触が残っている。
「大悟クンにはきっと退魔士としての素質があるんだよ」
「俺に……?」
「うん。そこで相談なんだけれど、夢魔っていうのはそこら中に蔓延っているものなんだ。大悟クンがどう考えているかはわからないけれど、夢魔に魅入られる人間は大悟クンの想像以上に多い。実際に大悟クン以外にもこの学校で夢魔に取り憑かれていた生徒もいたくらいだしね」
「それで、岬はこれからも俺のときと同じように、その夢魔を退治して回るわけだ」
「そういうこと、察しが良いね。でもボクだけじゃ手が回らないかもしれない。だからボクたちに力を貸してほしい」
「『たち』ってことは、退魔士ってのは、岬以外にも複数人いるのか?」
別に気にするところでもなんでもないのかもしれないが、妙に引っかかったので聞いてみた。
「まーね。夢魔ってのは無差別にいろいろな場所に現れるわけだから。でもこの地域を担当している退魔士はボクともう一人だけ」
「もう一人ねえ……」
その言葉に潜む何かが大悟の胸中にちくりと突き刺さった。
大悟の知らないところで、岬はその誰かと一緒に二人で夢魔とかいう得体の知れない生物を倒して回っているのだろう。
「って、いきなりこんなこと言われてもびっくりしちゃうよね。だから別に断ってくれても構わないし、時間が欲しいっていうんなら、この場で答えを出してもらう必要なんてないから」
大悟が難しい顔をしていたことで旗色が悪いと察したのか、普段のような圧しの強い岬からは考えられないようなしおらしい態度だった。
「それにもし断っても、大悟クンの安眠はボクが守るからこれからも枕を高くして眠ってくれれば――」
「いいぜ、やってやるよ」
「そうそう。だからそういうふうに断ってくれても――えっ……?」
信じられないようなものを見るように岬は目を白黒とさせている。
(――なんだかな)
相手が男だとか、女だとかそんなことじゃなくて、目の前に困っている友人がいる。そいつがこちらに手を伸ばしているのに、それを拒む理由があるだろうか。
「イマイチ状況は理解してないけれど、やってやるよ、退魔士とやらを。俺にできることなんてたかが知れてるだろうけど、それでもやれるだけのことはやってやる。どうせ部活もやってねえし、放課後にやることなくて暇してたところだしな」
「ホント……?」
真意を確かめるように上目遣いで見つめてくる岬。
しつこいようだが、こいつは男だ。それはわかっているはずなのに、そんなふうに見つめられるとつい目を逸らしてしまう。
もとより大悟は断るつもりなんてなかったのだが、そんな目で見つめられて断れる人間がこの世にいるのだろうか。少なくとも大悟には無理だ。
「ああ、男に二言はねえ」
「ありがとう。やったああああああーーーー!!」
そのままタックルするような勢いで岬がしがみついてくる。
「お、おい、離れろ」
華奢な体つきをしているが、やはり岬の腕力は男だ。大悟が引きはがそうとしても簡単に離してくれない。
ただ大悟が本気で岬を引きはがそうとしているわけでもないのも、岬を引きはがせない要因なのかもしれない。
「それじゃあ、お礼はボクの身体で」
大悟から離れた岬は、肩をはだけさせてスカートの裾を持ち上げる。
不覚にも心臓が跳ね上がってしまう大悟だったが、
「ふざけんなら帰るぞ。この話はなしだ」
さっと背中を向けて歩み出そうとすると、背中から岬が巻き付いてきた。
「ゴメンって。ホントはふざけるつもりなんてなかったんだけれど、大悟クンが引き受けてくれて嬉しくって、それで舞い上がったちゃって……」
大悟の背中に顔を埋めて掠れるような声で呟く岬。
別に本気で帰るつもりは微塵もなかったのだが、そんな態度を取られたら罰が悪い気分になってくる。
「わあったよ。とりあえず離れろ。それで俺は何をすればいいんだ? 知らんうちに夢魔を倒したとはいえ、右も左もわからねえ初心者なんだからな」
これ以上、しがみついていられると色々と心臓に悪いので、岬を引きはがした。
「ふふん。そこはボクにお任せあれ。大悟クンを立派な退魔士に育てて見せましょう」
岬は薄い胸をどんと叩いて、得意そうな顔をする。
「ま、いいけどな」
不安に思う反面、これからのことを思うとどこか胸が沸き立つようなこそばゆい感覚があった。
――その時だった。
「…………!!」
扉のほうからから、ガタッ、と物音がしたので、大悟と岬の視線がそこに向けられた。
視線の先では、いつの間にか屋上の扉が開いており、扉の影からひょっこりと顔を出していた薫が「しまった」という顔をした。
「な、なにやってやがる……、薫」
震える声で告げると、薫は観念したように扉の影から姿を現した。
別に、大悟としても疾しいことなんて何もないはずなのだが、何か見られてはいけないものを見られてしまったような変な気分に陥ってしまう。
「ふむ。ばれてしまったか……」
薫は相変わらず男子用のブレザーを身に纏って、相変わらず凜々しい顔をしたまま、ぱっちり二重の瞼でこちらを見つめている。
「話は聞こえなかったし、なにやら逢い引き現場のようだったから黙って去ろうとしたのだが……、ただ逢い引きをしている二人に見覚えがあったので、少しばかり状況を観察しようと思ってな」
「なんか誤解してないか?」
額に玉のそうな汗を浮かばせながら問いかけると、薫は平然とした顔で答える。
「いやなに、大悟が怒る気持ちはわかるが、こちらとしても覗き見をするつもりはなんてなかったのだ。僕が到着したときは二人が抱き合っていたようだったし、そのあとはなんだか楽しそうにじゃれ合っていたし、誤解なんていっさいないから安心したまえ。キミたちの仲の良さは僕だってよく知っているからね。ただちょっとばかり好奇心に負けてしまったことは許してくれ。それにこのことは僕だけの心の中に閉じ込めておくから安心するといい」
「んで? いちおう聞くけどよ……。九曜はこの現場を見てどんな感想を抱いたんだ?」
「とても仲の良い恋人同士だな。これが青春というやつなんだな、と」
少し照れくさそうに言う薫の言葉を聞いて、大悟の体温が急上昇した。
「さて、それじゃあ、僕はこのへんで失礼するよ。あまり二人の時間を邪魔すると恨まれてしまうからね。今度は覗きなんてしないから、存分に二人で愛を語ってくれたまえ」
爽やかに言い残して、姿勢良く階段を下りてゆく薫。
「キミたちが、少し羨ましいな……」
淋しさを含んだような憂いを帯びた言葉を残して、薫の背中は完全に階段の下に消えて行ってしまった。
「おい待て。やっぱりおまえは何かを誤解をしている……!」
退魔士となる決意をした大悟の初めての仕事は、友人の誤解を解くところから始まった。