1-2 夢の中での再会
深夜の住宅街。住宅から漏れる窓の明かりすら消失しているような時間帯に、六宮大悟は必死に走っていた。何から逃げているのかは自分でもわからなかったが、「何か」から逃げていたということだけは確かだった。
「はっ――、はっ――」
息が絶え絶えになり、足も思うとおりに動かせなくなってきている。それでも後ろをひたひたとついてくる「何か」から逃れるために足が千切れてもいいから、という思いで駆け続けた。
(まだだ。まだついてくる)
後ろを振り返る余裕はないが、背後から迫ってくる恐怖感が、それから逃げ切れていないことを告げている。
「…………っ!!」
しかし体力の限界とともに、背後から迫ってくる足音が大きくなり、それと比例するように恐怖感が増していく。
体力が有限の大悟とは対照的に、背後の「何か」は一切ペースを乱すことなくついてくる。
やがて、体力の限界に近づいた大悟は、足がもつれて地面を転がってしまった。
地面に手をついたままの姿勢ですぐさま背後を振り返ると、「何か」は目の前まで迫っていた。
這うようにして「何か」から逃げようとする大悟だが、そんな大悟を逃がすまいとして、「何か」の本体から飛び出した影が、大悟の身体を串刺しにする。
「――がっ」
うめき声とともに地面に伏してしまった大悟。
「だ、だれか……」
回らなくなった舌を動かして、大悟は月に向かって手を伸ばす。
コンクリートの無慈悲な冷たさが後頭部に刺さっている。
それに対して、身体全体が灼熱に覆われているかのように熱くなってくる。身体の構成を維持する力が全身から抜け落ちていくような感覚だった。
気を抜けば意識が空の彼方に跳んでいくような錯覚。
お腹のあたりがやけにひんやりする。手を動かしてお腹の状態を確認してみると、べっとりとした血液が手のひら全体に付着した。
周囲に散乱する赤い絵の具は一種の芸術なのだろうか。
それらが自分の血液だという認識はあるものの、自分の体内にこれだけの血液が眠っていたことが信じられなかった。
いつの間にか、自分を追いかけてきた「何か」の気配がなくなったが、この期に及んでそんなことは些末なことだった。
(な、なんでこんなことに……)
そんな胸中の疑問に答えてくれる人間はいない。そもそも周囲に人の気配すら感じられないのだから、答えようもない。
自分の身に起きた出来事を思い出そうとするが、それだけの気力すら沸かなくなってきた。かろうじて思い出せるのは、背後から迫ってきた「何か」の手によって自分の命がもうすぐ尽きようとしていること。
そもそも、なぜ自分があの影に終われていたのかも思い出せない。
コンクリートの冷たくて嫌な感触が、後頭部から全身に染み渡り、熱が引いていき今度は全身が冷え切ってゆく。
その時、「死」というたった一文字が、重く重く大悟の身体にのしかかってきた。
頭の中が真っ赤に染まり、生と死の境界が見えなくなくなったと言えばいいか。いまや完全にその境界の行き来を自由になった状態になりかけていた。
(お、おれがなにを……、したっていうんだ)
開いた瞳孔。せり上がる眼球。迫り来るあらゆる活動の停止。
神に誓えるほど潔白な人生を歩んできたなんて、自身を過大評価するつもりがないが、それでも誰に対しても成実にそして学生として真面目に人生を全うしてきたつもりだ。見知らぬ誰かに対して表だって文句を言われるような人生は歩んできていない。
(なんで俺だけがこんな目に遭わないといけないんだ……)
それは逆恨みに近い感情なのかもしれない。数ある人間の中からどうして自分がこんな理不尽な目に遭わないといけないのか。
大悟は残った力を振り絞って、ぼやけた視界の隅で、見えない誰かに向けて恨みをぶつけるかのように唇を噛みしめた。そんなことをしてもこの状況が好転しないことはわかっている。だけどそんな簡単な感情じゃない。
ただただ憎い。
「た……、助けてくれよ」
そんな負の感情を昇華するかのように、力が抜けて垂れ下がってしまった手を、ゆっくりと天に向かって持ち上げる。その手は月まで届くことはなかったが、大悟の手のひらが何かを掴んだ感触があった。
その手の感触には覚えがあった。簡単に忘れることなんてできない彼女の手の感触。
ほぼ霞んで見えなくなった視界の隅で、大悟は人の影を見た。月明かりに照らされたその姿は、天から舞い降りた神の使いかと見間違うほどに神秘的なものに思えた。
「大丈夫。今度はボクがキミに手を差し伸べる番だから。ボクは何度だってキミに手を差し伸べるからキミは安心して眠っていて……」
優しく語りかける彼女の声を聞いた瞬間、自分の生に意味を見出せた気がして、とても穏やかな気持ちになった。
掠れゆく視界の中で彼女の顔をはっきりと認識した瞬間、大悟の意識は闇に溶けていった。
(あのときの、女の子……?)