2-10 気心の知れた友人
夕方と呼ぶには少し早く、昼間というには少し遅いような時間帯、時計の針は午後四時を示していた。
金曜日に学校を休んだ薫は、日曜日になってもその気分をまだ引きずっており、自室のベッドに腰掛けて読書に耽っていた。
(こんな晴れている休日なのに、何をやってるんだろうな、僕は……)
太陽が西に傾き始めているとはいえ、窓の外は鬱陶しいくらいに爽やかな日差しに包まれていた。中学時代の自分を考えると、こんな天気に何もせずに部屋でのんびりしているということは、とても考えられないことだった。
身体のだるさと鈍い感じの頭痛が頭に残っているとはいえ、こんな天気に部屋でじっとしているほうが、余計に気分が悪くなりそうな気がするが、やはり外に出かけるという気分にもならない。
手元の文庫本に目を落として読書を続けていると、玄関のほうからチャイムが聞こえてきたが、自分には関係ないものだろうと考えて、あまり気に留めなかった。
すると間もなくして玄関のほうが少し騒がしくなり、二つの足音がこの部屋に近づいてきた。一つは母親のもので、もう一つは来客者のものだろうか。
本から顔を上げて、扉の向こうの気配を探っていると、扉越しに母が声を掛けてきた。
「薫ちゃーん、秀人君がお見舞いに来てくれたわよ」
「秀人――!?」
意外な名前を告げられて、慌てる薫。
とはいえ、よく知っている相手なので、今さら取り繕っても仕方ない。上下ジャージというかなりラフな部屋着のままだが、わざわざ着替える必要もないだろう。
「あ、ああ。入ってくれ」
薫が答えると、扉を開けて入ってきたのは、見慣れた母親と、母親と同じくらい見慣れた秀人だった。
「よっ、元気か? 九曜が学校休むなんて珍しいから、俺も珍しいことをしようと思って、お見舞いに来たぜ」
いつもと同じように右手を挙げて挨拶する秀人。
母はその姿を見送ってから、薫に穏やかな笑みを浮かべて薫の部屋を後にした。母のその笑みにどんな意味が込められていたのか、薫には推し量ることはできなかった。
二人きりになった部屋で、秀人は近くのクッションを持ってきて、その上に座った。
「元気――とは言い難いかな。とはいえ、心配されるほどでもないさ」
「よく言うぜ。どうせインフルエンザにかかったとしても『心配ない』とか言うタイプなくせによ。とは言っても、見る限り顔色は、おまえの言う通りにそんなに悪くなさそうだな」
まじまじと見つめてくる秀人。いくら気心が知れた相手とは言え、こうして見つめられるのはやはり気恥ずかしいものがある。
その気恥ずかしさから逃れるために、薫は咄嗟に話題を転換させた。
「今日は部活だったのか?」
「まあな。けど午前中だけで終わりだよ。中学の時みたいに一日中練習ってわけじゃないみたいなんだよ。少し物足りない気もするが、進学校なわけだし、野球だけに力を注ぐわけにはいかないからこんなもんだろうな」
「そうか……。楽しいか? 部活は」
「ま、それなりってところかな。それよりも、九曜は、何か部活はやらないのか?」
「どうしようかな……。たとえ何を選んだとしても、一定以上の成績を残す自信はあるが、如何せん、野球で燃え尽きてしまった情熱を再燃させるのは難しそうでね。まだ考え中だ。とはいえ、何もせずにいるのも不健康だから、ゴールデンウィーク前後くらいには決めるさ」
「くくっ、すごい自信だな。でもそれは自惚れとかじゃなくて、冷静な自己評価なんだろうな。相変わらず、おまえは変わらないな」
(変わらない? 僕が? そんなわけないだろ……)
秀人の言葉にちょっとした反抗心が芽生え、薫は胸中でぼやいた。
(まったく、野球のときは、鋭い指摘を連発してきたくせにな……)
マスクを被った秀人はいつも冷静沈着で観察眼も鋭いのに、マスクを脱いでしまえば、薫の変化すら見抜けないほどに、その眼は曇ってしまうようであった。
「だけど、それが秀人らしさなんだろうな……」
「ん? なんか言ったか?」
薫の呟きは、どうやら秀人の耳まで届いてなかったらしい。もともと秀人に聞かせようとして呟いた言葉ではないのだから聞こえない方が都合いい。
「いや、なんでもない。聞こえなかったのなら気にしないでくれ」
「そうかい。とにかく、さっさと風邪を治せよ。これ、お見舞いの品だ。六林道のシュークリーム、おまえ甘い物好きだろ」
秀人から受け取った包みを開くと、甘い匂いが薫の鼻腔をくすぐった。その匂いだけで、幸福度が跳ね上がるような幸せな香り、それは紛れもなく薫の好物である六林道のシュークリームだった。
「秀人、キミは中々気が利くじゃないか。こんなものを持ってきてくれるのなら、こうして体調を崩すのも悪くはないのかもしれないな」
「馬鹿言え、そう何度も買ってきたら、あっという間に俺の財布は空っぽだよ」
秀人は呆れたように口元を綻ばせて肩を竦めてみせた。
「そういえば、さっき街中で大悟と岬ちゃんを見かけた。あいつらは場所を弁えずに相変わらずイチャイチャしてやがったぜ」
「ふふっ、どっからどう見てもお似合いの二人だからな。あの二人にとって、性別なんて些細な問題なのだろう。もっとも大悟がそれを認めるかは別問題だろうけどね」
そんな二人を薫は羨ましいと思う。
「さて、用事は果たしたし、俺はそろそろお暇するかな」
「なんだ、もっとゆっくりしていけばいいじゃないか」
立ち上がって身支度を整えようとする秀人に声を掛ける。
「わりいな。今日は家族全員で飯を食いに行くことになってんだ。そんなわけで、今日は早く帰らないと」
「そうか。ならば仕方ないな」
「んじゃあ、またな」
そう言って、秀人は部屋を出て行こうと扉に手を掛けた瞬間、言いにくいことを切り出すように、ゆっくりと口を開いた。
「ところでよ、壁一面に貼ってあった野球関連のポスター。全部剥がしたんだな」
「ああ、僕には、もう必要ないからな」
「そっか……」
こちらに背中を向けたまま、その先に続く何かを紡ごうとした秀人だったが、彼はそれを飲み込んだ。
「それじゃあな。明日はちゃんと学校に来いよ」
「ああ、体調が良くなったらな」
そう言い残して、今度こそ秀人は薫の部屋を後にした。
秀人がいなくなった室内で、薫は読書を再開することもなく、ただ天井を見上げていた。
昔は用がなくても、秀人とはお互いの家に出入りしたものだが、いつの間にかこうして用事がなければ家に訪れることもなくなってしまったのだと思う。
(僕は、それを少し寂しく感じているのかな……)
けれど、それこそが時間の流れというもので、お互いの関係が徐々に変わるというのは仕方のないことなのだろう。
薫は胸に手を当てて、口元をつり上げた。
手のひらには女である象徴とも言える、二つの膨らみの感触がある。
薫は実力が足りなかったわけでもなく、野球への情熱が失われたわけでもない。ただ秀人たちとは違う、この一点だけが、薫が次のステージあがることを拒んだのだ。
(僕にはもう必要ない――か)
胸中で、秀人に告げた言葉を反復する。
(もう、終わったんだ……。だって、それは仕方のないことなのだから……。受け入れるしかない)
そんな胸中の言葉とは裏腹に、薫は諦めきれないような表情で自分の右手の平を見つめた。
中学時代は、週に何百球と投げ込みをしていたせいで、指先にしょっちゅうタコができていたが、いつの間にかそれらの痕が消え、女の子の手のひらに相応しい綺麗なものになっていた。
(あのころに戻れるのなら、僕は……)
そんなマイナスなばかりを考えてしまうのは、体調が悪いから仕方のないことだったのかもしれない。あるいは、マイナスなことばかりを考えてしまうせいで、体調を崩したのか。
――それは薫にもわからない。
気分が暗くなっていることを自覚しつつも、薫はその気分に身を任せることにした。なんとなくそういう気分だったから。
――そんな薫を見つめている一つの影があることに、このときの彼女は気づいていなかった。




