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物語の始まり

 序章 物語のはじまり


「それじゃあ鉛筆を止めてください。後ろの席の人は前の人に答案用紙を渡してください」

 試験監督の合図とともに、教室全体の空気が一気に弛緩する。

(これでようやく一段落だな)

 一番後ろの席に座っていた六宮大悟ろくみやだいごは、試験管の合図を聞いてから小さく息を吐き、前の席に座っている生徒に答案用紙を手渡した。

 第一志望の清心せいしん高校。その入試の全科目がちょうど終了したところだった。

 伸びをして凝り固まった肩をほぐす。テストの手応えもそれなりにあったし、合否が出るのはもう少し先のことだが、とにかくこれでようやく落ち着いた気持ちになれた。

(そういえば、秀人たちも受けてるんだよな)

 会場に着いてから、入試が終わるまでずっと気を張り詰めていたせいで、周囲を見渡す余裕すらなかった。ようやく周囲を見渡せる余裕ができたので見渡してみると、教室の中にいる四十人ほどいる受験生の中に見知った顔は一つもなかった。どうやら友人たちは別の教室で受験をしているようだ。

(っていうか、あいつがこの場にいたらすぐに話しかけてくるはずだよな)

 試験監督が全員の答案を回収すると、解散の旨を告げて教室から出て行った。それと同時に、試験が終わった開放感から、他の生徒達の緊張が解ける様子が伝わってきた。

 大悟は教室から受験生が退出していく様子を、頬杖をついて席に座ったまま眺めていた。

 それはこの空気感に浸っていたい、とかそんな感傷的なものではなく、単純に昇降口が混雑するだろうと予測して、他の受験生と時間をずらしたかっただけだった。

 教室からほとんどの受験生が出て行ったところで、大悟もようやく重い腰を上げる。

 廊下を歩いていると、すでに校内に残っている受験生もほとんどいなくなっており、他の受験生とはほとんどすれ違わなかった。同じ高校を受験した友人たちも試験が終わったらさっさと帰宅してしまったようで、その姿は見当たらなかった。

 四月からもう一度この校舎に通えることを願って、人がほとんどいなくなった昇降口で靴を履き変えて外に出た。

 二月上旬、窓の外は気持ちのよい太陽が照らしているが、昨夜まで降り続いた雪のせいで地面は真っ白に染まっている。

 おかげで、雪が溶け始め、地面が滑りやすくなっている。

(この期に及んで滑るとか、到底笑えない冗談だよな……)

 テストが終わったばかりの疲れた身体に太陽の光がしみ込んでくる。凝り固まった脳みそがゆっくりとほぐれる様子を堪能しながら、大悟は校舎の入り口を出て校門へ向かって歩き始めた。

 予想通りツルツルと滑る足下に注意しながら歩いていると、目の前を歩いていた少女が豪快に足をもつらせて尻もちをついた。

「――キャッ!」

 可愛らしい悲鳴を上げた少女は、地面に打ち付けた小さなお尻をさすっている。

 地面を覆っている雪は雨と寒さのせいですでに固まってしまっているので、クッションのような役割は期待できない。よって、かなり痛そうだった。

「……大丈夫?」

 大悟は自分も足を滑らせないように注意をしつつ少女の元へとかけよって、その背後から手を差し伸べた。

「ふぇ?」

 唐突に背中から掛けられた声に、綺麗な髪を揺らしながら振り返った。

 彼女は呆けた表情で、声の主である大悟を見つめた。

 彼女との視線が交錯した――その時だった。

 視覚を通して、大悟の脳が彼女の顔を認識すると同時に、ありとあらゆる世界の動きが停止する。空から舞い降りた衝撃が大悟の脳天を貫いたような感覚だった。

 陳腐で軒並みな表現になるが、運命という言葉はこの瞬間のためにあるものなのだと確信に近い気持ちを、このときの大悟は抱いていた。

 十五年間の人生で、人並みに恋はしてきたが一目惚れというのはこのときが初めてだった。

 その少女は顔のパーツ一つ一つが芸術的なくらいに整っていた。まん丸の瞳にそこから伸びる長い睫毛。すっきりとした鼻梁に引き締まった口元が瞬間的に大悟の心をかき乱した。

「あ、ありがとう」

 彼女は透き通った声を発しながら、手を差し伸べたまま固まっている大悟の手を掴んで起き上がった。

 冷たくて柔らかい彼女の手のひらが、大悟の手のひらの神経を刺激する。

 起き上がると、彼女は大悟の手を離し、両手で制服のスカートについた雪をぽんぽんと払う。

 彼女の身に纏っている衣服は、このあたりではあまり見覚えのない学生服なので、おそらくはこのあたりの学生ではないのだろう。しかし、この時間に校舎近くを歩いているということは、自分と同じように清心高校を受験した受験生の一人なのだろうと推察することができる。

 押せば折れてしまいそうな華奢な身体と、そこから伸びるしなやかな四肢。透明感のある白い肌、スカートからチラチラと覗く柔らかそうな太ももは、思わず大悟の視線を釘付けにしてしまうほどだった。

 ただ大悟が知るのはもう少し先になるが、天は二物を与えずと言う言葉通り、どっからどう見ても美少女な彼女にも一つだけ大きな欠点があった。しかし考えようによっては、その欠点こそが、彼女という存在を構成する上で重要な要素の一つなのかもしれない。

「試験が終わったばっかりだっていうのに、いきなり滑るなんて、どうにも縁起が悪いですね。あはは」

 少女は可愛らしい唇を動かして、少し照れくさそうに頬をかいた。そんな仕草も愛らしくて、無意識のうちに鼓動が早くなる。

「も、もう試験は終わって俺らにできることなんてないんだから、むしろ試験後でよかったと考えられるんじゃない?」

 大悟はしどろもどろになりながら、フォローの言葉を返した。

「うん、それは一理あるかもね。それに前向きに考えれば、今のうちに滑っておけば結果発表のときに滑らなくなるかも。だったら今のうちに何回も滑っておこうかな?」

 そんな冗談を言って、彼女は「前向き前向き」と自分に言い聞かせるように頷いていた。

「こんなところを歩いているってことは、あなたも清心高校を受験した受験生ですよね?」

「うん、まあね」

 大悟は彼女の綺麗すぎる顔を直視することができず、所在なさげに視線を彷徨わせていた。そんな内心の思いを彼女に悟られないように、平常心を保とうとした結果、どこか無愛想な返事になってしまった。

「えへへ、春になったら、お互い同級生になれるといいですねっ」

 そう言って、愛想をいっぱいに詰め込んだ屈託のない表情で微笑み掛けてくる彼女。

 その瞬間、その笑みを写真に収めて保存したい、という衝動に駆られた。が、生憎カメラの類は持ち合わせていなかったし、その衝動に任せれば間違いなく彼女に不審者認定されることになるので、むしろカメラを持っていなかったことは幸運といえるかもしれない。

「ああ、そうだな」

 彼女の言葉は社交辞令の一種だとわかってはいたものの、ひょっとして自分に好意的な感情を抱いてくれているのではないだろうか、という短絡的な期待から、大悟は胸の高鳴りを抑えることができなかった。

「それじゃあ、助けてくれてありがとうです。本当はもっとお話したいんだけれど、ボクはちょっと用事があるのでこれで失礼します」

 急に駆け出した彼女は、今度は転ぶことなくツルツルな地面の上を器用に走っていく。完全に彼女の表情に目を奪われていた大悟は彼女に言葉を返す暇もなく、その背中を見送っていた。

 ――ボク?

 その一人称にわずかな引っかかりを覚えたものの、元気な表情が似合いそうな彼女には妙に似合っている気がしたので、引っかかりが違和感まで発展することはなかった。

「四月にまた会いましょう~。今日助けてくれたお礼はいずれしますので~」

 転ぶことなく校門の前まで走りきると、全身を使ってぴょんぴょんと跳びながら、ぶんぶんと手を振ってきた。

 大悟は、恥ずかしさを抑えきれず、小さく右手を挙げるだけで彼女のそれに答えた。

 やがて彼女の背中が見えなくなっても、大悟はしばらくその場に佇んでいた。

 さっきまで彼女が立っていた場所には、彼女の残り香のようなものと、雪の上に打ち付けた彼女のお尻の跡がうっすらと残っていた。

 無意識のうちに大悟の視線は、自分の右手へと注がれていた。

(手、柔らかかったなあ……)

 右手から彼女のゆくもりを逃がさないように、拳をぎゅっと握りしめる。

 晴れているとはいえ、雪が降ってもおかしくないような気温の低い日にもかかわらず、大悟の全身は真夏日のように分厚い熱に覆われていた。

(あっ、名前、聞いとけばよかった……)

 大悟は少しの残念な気持ちを抱え、これから彼女と過ごす三年間の高校生活に思いを馳せながら帰路に就いたのだった。

 自分も彼女も清心高校に通うことが決まっていたわけではないが、大悟の中ではすでに清心高校に通う自分と彼女の絵面が出来上がっていた。

 帰り道、大悟は甘美な妄想に口元のニヤケを抑えることができず、周囲の人間から不審者を見るような視線を向けられたが、そんなものはまったく気にならなかった。というか、完全に浮かれていた大悟はその視線に気づきすらしなかった。


 ――その時から、六宮大悟はこの物語の主人公となった。

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