1977年、夏(2)
その後も披露宴は滞りなく進み、終わりも近くなった頃、となりに立つゆかりに、こっそりと声をかけられた。
「それにしても、沙穂ちゃんと浩平、ほんとにくっつくとは思わなかったな」
1人、デザートのアイスにしたつづみをうっている浩平を一瞥すると、くすりとしながら試すように見つめられる。
お人形のように長いまつげは昔から変わらずに、くるんとゆかりの瞳を彩っている。
その目で甘えるように見られ、それが魅力的にうつらない人間なんているはずがない。
「……そうかな」
「うん。浩平の気持ちはずっと知ってたけど……、それこそ、浩平が初めて沙穂ちゃんに会ったときから、わかってたけど……沙穂ちゃんは浩平のこと、好きにはならないんじゃないかと思ってたよ 」
含みを持たせた視線が私の肌を刺していた。
「……」
「羨ましいな、浩平。
沙穂ちゃんといるだけで、あんなに、幸せそうに笑ってる。
……ねえ、幸せになってね、沙穂ちゃんも」
ゆかりは、にこっ、と笑った。おもむろに、彼女の細い指が私の手をにぎる。
ひんやりとした感触。
「うん。ありがとう」
ゆかりもね、と答えると彼女は表情を変えずに笑っていた。
(幸せになってね、沙穂ちゃん。)
しこりのように、ゆかりの言葉が胸に溜まっていた。
胃がむかむかとするのをかんじる。
これ以上……ゆかりに見られていたくなかった。
さっとその場を離れると、デザートに夢中だったはずの浩平が私に気づく。
お手洗いにいくと告げると、
「場所、わかるか。
着いていこうか? 俺」
そのまま本気で着いてきそうだったので、さすがにそれは遠慮しておいた。
その様子を見て、ゆかりがくすくすと笑う。
「もう、浩平。ほんとに沙穂ちゃんにべたぼれね。
お手洗いまで、って、過保護過ぎると嫌われるわよ」
会場をでると、一度に騒がしさがなくなって、辺りは心地よいBGMのほかには静かだった。
誰かに場所を聞こうと思っていたがホテルの関係者はその場にはいないようで、そのまま自力でお手洗いを探していると、不意に、来客用のソファーに腰かけている男の横顔が目に入る。
くらり、とした。
どうしてだろう。
服装も違う。
髪も、のびた。
分かるはずがないのに……。
どうして私は、どんなに時間がたってもなお、後ろ姿だけであいつが、分かってしまうんだろう。
視線が呪いのように動かずに見つめつづけていると、やがて彼は私の存在に気づいて、ちら、とこちらを振り返った。
無造作に整えられた黒髪が、さらりと揺れる。
冷たいガラス片のような瞳が、3年ぶりに私をとらえた。
「荻野」
「……どうして」
どうしてここにいるの。
ことばは途中でかき消えた。
……息が。
息が、できない。
「久しぶり。」
黒いスーツに身を包んだ、とりもなおさず夜のような岩谷秋斗は、立ち上がり、ゆらりと私に近づいた。
やめて。
……カチリ。
また、スイッチが押される。
……それ以上近寄らないで、と、こころがさけんでいる。
一歩距離が狭まるごとに、重力が強くなって、骨がきしむくらいに苦しくなる。
「まだ、あれ、やってんの?」
相変わらずぞんざいな言葉にキラキラの笑顔をくっつけて、それで会話をすすめようとする。
強引で有無を言わせないのに、催眠術のように、相手にそれを全く感じさせない怖い人、記憶の中と寸分たがわない岩谷は今、目の前にいる。
まだ披露宴は続いているのかと尋ねられているとわかったのに、微動だにできずにいると、何を感じたのか岩谷はすっと目を細めて、それから会場に足を向けた。
すれ違いざま、やはり岩谷の体は甘い香りを孕んでいるのだ、と思った。
「来ないの?」
扉に手をかけたまま、一緒に会場に入らないのか、と尋ねられ、私は無言のまま彼に背を向け、廊下へ足を進めた。
混乱していた。
とてつもなく。
のろのろと動いていた足がだんだんに速くなり、とうとう駆け出した。
途中でお手洗いを見つけ、駆け込むと、個室に鍵をかけ、壁にもたれ掛かるようにしゃがみこんだ。
息が上がっていた。
……どうして。
来ないだろうとおもっていた。
岩谷はきっと、菜摘の人生の門出を祝う日になんて、あらわれることはない。
色のない瞳を持ったあいつは、もうどんなことをしても私たちのもとに戻っては来ない――
そうおもっていたのに。
*
披露宴にもどると、もとの私の席のまわりでは、ゆかりと浩平、それから花嫁の菜摘までもが、興奮した様子で岩谷を囲んでいた。
「お前、今まで何してたんだよ?
全然連絡つかねーしさ、心配してたんだぜ」
「ほんと、ひさしぶりだね。
岩谷、あんた、あんまり変わってないな。遅刻グセも含めて」
「はは。でも弘瀬は、キレイになった。
あ、もう弘瀬じゃないのか。
遅れてごめんな、おめでとう」
岩谷が微笑むと、回りの女性がはっ、吐息を飲むのが分かった。
どうやら、岩谷を前に驚き、興奮しているのは、親友だった私たちだけではないらしい。気付くと回りはみんな、あの美しい男はいったい誰なのかと、興味深そうになおかつさりげなくこちらに意識を向けていた。
そんなことには気づかず、ありがと、今はもう笹木だよ、と菜摘は嬉しそうに笑う。
「あのあんたが、ここに間に合うように来てくれただけで、もう十分だ」
嫌みではなく、半分以上本気でそう思っていそうなそのことばに、さすがに岩谷は苦笑いを浮かべた。
ゆかりがいつも以上にキラキラと潤んだ瞳で、ほほを上気させながら岩谷のスーツの腕をつかんだ。
くりくりの瞳が上目使いに岩谷をとらえている。
「岩谷くん……今は何してるの?」
岩谷はピクリとも表情を変えず、暖かく見える笑顔のままゆかりに目を移した。
「美容師。
一度東京にでて、またこっちに帰ってきたんだ」
これにはゆかりたちだけでなく私も驚いた。
まさか、岩谷が、この街にまだ住んでいたなんて。
「え……全然、知らなかった。」
卒業してからずっと街を出ていない菜摘でさえ、びっくりしていた。
「というか、あんた。
東京や大阪からわざわざきてくれたみんなが朝一で疲れてるのに、すぐちかくにいたあんたが昼間まで寝てたとは、いい度胸ねえ。
そんなんで社会人、つとまってんのかしら!!」
菜摘の言葉に、岩谷がおどけてふるえるまねをした。
「 もう、分かってるって。本当に悪かったよ。
こえー、この迫力。さっきは外見でああいったけど浩平、菜摘は変わんないんだな。」
「だろ? 俺もさっき、脅されたんだ。
昔から俺らは肩身がせまいんだ。この、男勝りな女には、敵わないな」
「それはそれは、最高の日に、最高の誉め言葉だな」
菜摘は勝ち気にほくそえんだ。
それから、菜摘は主役の席に戻っていき、さっきよりも1人が増えたテーブルで、私たちは会食にもどった。
ふたりとも、待ち望んだ人物の登場にすっかり舞い上がっていた。話題はつきず、常に岩谷を見つめ、岩谷もふたりを見ていた。
その折、とつぜんに、
「そういえば、岩谷くん知らないよね?
浩平と沙穂ちゃん、付き合ってるんだよ」
ゆかりは思い出したように、浩平と私の手をとると、ジャンプしそうなほどはしゃいで笑った。
「あ、ああ。実は、そうなんだ。
皆、応援してくれてたよな。
秋斗にも、報告したかったけど……連絡先、しらねえし。」
ゆかりは浩平のことばにこくこくとうなずいた、
「あのころ、あんなにうじうじしてたからもう、浩平はダメなんじゃないかとおもってたよね。」
岩谷は、へえ、とつぶやいて、爽やかに微笑む。
「おめでとう、浩平、荻野。
お似合いだと思ってた」
そのとき、ゆかりがちらりと私の方を見たのは分かっていた。
気づかずに浩平は、照れ臭そうに頭をかいた。
「お前にそう言われると、本当に嬉しい。
ありがとよ」
そこで、岩谷は魅力的な瞳をはじめて、私に向けた。
「荻野、浩平のことよろしくな」
岩谷に話をふられ、私は平然とうなずく。
一言も話に入っていないのを誤魔化せたのはよかった。
もう少しで披露宴は終わる。
はやく、時間がたてばいいのに……
席を離れ、デザートのテーブルに向かう。
チョコレートやチーズのケーキが艶々と光っている。
美味しいもので吐き気のするような気分をやり過ごそうと思っていたら、
「どれも、旨そう」
隣におもむろに立ったのは、岩谷だった。
深く、甘い声音が耳元で響くと、首筋がぞくりと寒くなる。岩谷は、必要以上に近い位置で首を傾げて、私の目を見つめていた。
……どうして、私に構うのだろう。
そんなふうに、何事もなかったかのように、話しかけてくるのだろう。
私たちはもう、幼馴染みじゃない。
あの頃のような……私が思うような岩谷は、最初からどこにもいなかったのだから。
私たちはもう二度と、会うべきじゃなかった。
はやく、デザートを一つ選んで、浩平たちのところへ戻ろうと思うのに、からだがしびれて、うまく動けない。
「荻野はどれにする?」
「……」
岩谷は、先ほどまでの皆といるときの……呪われたような笑顔をすでになくし、ただ無機質な声音と、不躾な瞳で私を見下ろした。
それらすべてを聞こえていないかのように、見えていないかのように振る舞っていると……、
岩谷は私の手をとり、そこにある物を落とした。
「今日はもう、帰る。
これ、返しに来ただけだ」
それを目にいれた瞬間、私は息を飲んだ。
心臓が雷にうたれたように感じた。動悸が……止まらない。
記憶が流れるように、私の前を滑り落ちていく。
……カチリ。
(荻野、キレイ。本当に、キレイだ)
(不思議な女だな。
お前は……)
(いい女なのかもしれない)
カチリ。
(お前に、いいこと教えてやる)
(俺は……)
カチリ。
(お前が、……憎い。憎くて、憎くて、たまらない。
おかしいよな。お前は、そんな俺を愛してるという。
……知らないだろ。俺が何度、お前を手にかけようとしたのか)
混乱していた。
わけもわからないほど。
あいつといるときはいつだって、分からないばかりだ。
何故。
何故今頃、こんなもの……
岩谷はそのまま、身を翻すと、本当に会場をあとにした。
浩平たちは今も、岩谷がデザートをもって帰るのを待っている。
そんなことを気にもしていない様子で、彼は、私があのころ見つめていたキレイな後ろ姿のまま招待客の波をかき分け、一人、誰にも気づかれることなく消えるようにいなくなろうとしていた。
浩平たちが気づいたら、どう思うかしら……
突然、いなくなった岩谷のことを。
何があったのか、と驚くかしら。
余程の事情があったのだ、と納得するのかしら。
皆、想像もしないだろう――本当の、岩谷のことを。
手のひらの中にあるものは、確かにあの日のものだった。
数えきれないほどのどうしてが、私を押し潰しそうだった。
(今日はもう、帰る。これ、返しに来ただけだ)
私は、知っていた。
岩谷がもう、決して私たちの前にあらわれることはないことを。
何故か、そのことだけは寸分違わず、痛いほどに分かっていた。
今日だって……あいつは、本当は、菜摘を祝いになんて来ていない。
浩平に、ゆかりに、そして私にも……、会いに来たわけでも、顔が見たかったわけでもない。
岩谷は、私たちが自然と他人に抱くような執着心――愛着という縛り――を、持ち合わせていないから。
そもそも、はじめから、岩谷は陰だった。
まるでここにいるように見せかけて、本当はそこにはなにもない。
岩谷はどこにも……いない。
初めてその事に気づいたときの恐怖は、……はじめから、ずっと一人だったのだと、気づいたときの思いは、今でもありありと思い出すことができる。
自然と、人が怖くなった。
あんな人間のことは、わすれてしまおうと思うには、私はあいつと、長くいすぎた。
深く、知りすぎてしまった。
彼の毒はもう、全身ふかくまで巡って、生涯抜けることはないのだと思う。
それでもきっと、いつか苦しみはうすまって、鈍い痛みとなり私と同化して、私は私のままを認め、許して生きていくことができるのだろう。
でも……
あの人は毒のなかでしか生きられない。
そんな、かわいそうな、かわいそうな、ひとりぼっちの男。
だけど同じくらい、
……私たちが痛んでも、苦しんでも、死んだとしても、けほどにも気にしないのだろうあいつを……、私は憎いと思う。
そして、そんな男が、私の前に再び現れようとした理由を図りかねる。
たったひとつの、この、これだけを、渡すために……
……岩谷は、あの日の出来事を、どう思っているのだろうか。
ずっと、あの日からずっと、彼はなにも感じないのだと思っていた。
あの微笑みの下に隠されているのは、闇だ。真っ暗な闇。どんなことをしても、どんな言葉をかけても、決して心には届かない。
でも……本当にそうだったのだろうか。
私ははじめてそう思い始めていた。
本当に、岩谷は……、
(初めまして。隣に引っ越してきた、岩谷秋斗です。
よろしく、荻野さん)
あのときも、あのときも、なにも感じていなかったのだと言うのか?