【9】
西谷さんの家は、電車で三駅ほど離れた閑静な住宅街にあった。
造りや雰囲気が、伯母の家に似ていた。歳の離れた従兄が生まれる少し前に建てた、といっていたから、同じ頃に建てたとして、築3、40年といったところか。
優しそうで、知的な雰囲気があった。同じ職業についていると、個性も似てくるのだろうか、撫でつけられた白髪交じりの髪も、小太りな体型も、営業所のちょっと偉い人と似ているなと思った。
急な訪問にもかかわらず、西谷さんは嬉しそうに俺を迎え入れてくれた。
「妻は、公民館の手芸サークルに通っていてね、昼もそこの連中ととってくるんだ。
お茶くらいしか出せなくて、悪いね」
「いえ。あ、あの、これ、枕森の前の、和菓子屋さんで買ったんですが、よかったら」
「わざわざ、悪いね」
ここに来るための手土産として買ったわけではなかったが、ちょうどいいと思い、さっきのきんつばの包みをテーブルに置いた。
西谷さんは、コーヒーを入れてくれて、俺の前に置き、テーブルの紙包みに複雑そうな視線を投げた。
俺が、西谷さんと同じバス会社で運転手をしていたこと、枕森について聞きたいと思っていることは、電話で告げてあった。
「定年で退職してから、会社の連中とはなかなか連絡を取る機会がなくてね。
同期のやつらとは、たまに飲みに行くけれど。
梶宮君みたいな、若い人が訪ねてくれると、うれしいね」
リアクションに困って、薄く笑って俯いた。
そんな風に喜ばれると、西谷さんに会いたかったというより、ただ、枕森の話が聞きたいだけ、という事実が、何か少し、後ろめたい気がした。
「枕森の話、だったね」
空気が少し、冷えた気がした。
西谷さんは、にこりと笑みを作ってから、話してくれた。
バス会社には、昔から、秘密の、不思議な言い伝えのようなものがあった。
何年かに一度程度の割合で、6番路線、枕森前経由を担当する運転手が、突然失踪してしまう、というのだ。西谷さんの部下も、そうしてある日、姿を消した。
口数は少ないが、素直で、穏やかで、西谷さんと馬が合って、弟のように可愛がり、お互いが休みの前には、何度か飲みにつれて行った事もあった。
「いなくなる少し前、ひどく怯えるようになって。
何があったのか聞いても、硬く口を閉ざして。
初めは、悪いところから借金でもして、恐ろしい借金取りに脅されているのかとも思ったが、そういう手合いは、会社にもなんらか言ってくるのが普通だった。最近は、そんな事はないのだろうが、その当時は、そんな事がよくあった。
けれど、そいつは真面目で、ギャンブルや女に嵌まるようなヤツじゃなかったし。いなくなった後も、借金取りが来るようなことはなかった。何も言わずにいなくなるなんて、思い当たる理由はなくて」
西谷さんは、彼の実家にも行ってみたのだという。
が、故郷の人たちに不安の種を植え付ける以外、なんの成果もなかった。
住んでいたアパートも、荷物も、生活の痕跡を残して、そのまま。帰ってから洗うつもりだったのだろう、汚れた食器が、洗い桶に張った水の中につけられたままだったという。
西谷さんは、枕森について調べ始めた。
「あそこは、沼があったそうですね」
和菓子屋の老婆に聞いてきた話を語ると、西谷さんは頷いた。
「あの近くには、昔、遊郭があったのだそうだよ」
ゆうかく。映画か何かでみた。昔の、女の人を買うところだ。
「ひどい場所だったようだ。逃げようとしたり、いう事をきかない遊女を見せしめに折檻して殺してしまったり。病気になると、治療もせずに手足を縛って生きたままその沼に沈めてしまったそうだ。
不思議な沼でね、死体でもなんでも、一度沈むと、二度とは浮かんでこなかったという。子供ができれば、その沼に半日浸かっていれば、流れてしまった、という話も伝わっている」
悪夢の中で、バスの床を這うように蠢いていた、水風船のような物体を思い出していた。あれは、もしかしたら。いや、きっと。
西谷さんは、調べるうち、いなくなるバスの運転手は、失踪の少し前、ひどく怯えて妙な事を言い出すという話に行きついた、といった。
家の水回りが怖くて、風呂に入れないとか、枕森に呼ばれている、とか、バスに、10代半ばから20歳前くらいの黒髪の女が乗っているのだが、いつ乗って、いつ降りたのかわからない、とか。
そういえば。
6番、枕森前経由の路線は、始発も終点も、営業所。営業所を出て、営業所へ戻る。その間、運転手の交代はない。
あの女子高生は、いつ、どのバス停で乗って、どこで降りたのだろう。
乗り降りすれば、気付かないはずはない。全く覚えがないなんて、おかしい。
「遊郭がなくなった後、その沼は埋め立てられて、鎮魂のための社が建てられたそうだ。今はその社も取り壊されて、大きな木と石碑が残っているだけだが。
枕、という言葉自体、体を売る女性を指す隠語だ、という人もいる。
元は、枕を守ると書いて、まくらもりと呼んでいたのが変じた、とも。
君は、出身はどこだい?」
不意の問いに、生まれ故郷の地名を告げた。
西谷さんは、同情をこめて俺を見た。
「いなくなる運転手は、少し遠い地方から出てきた者、というのも共通点のひとつなんだ。あいつも、そうだった」
名越さんが、あの夜、俺に、なぜ出身地から離れたこの地で、バスの運転手をするようになったのか聞いたのは、もしかしたら、彼も、この事を知っていたからじゃないのだろうか。
「梶宮君は、これから、どうするんだ?」
「故郷に帰って、仕事を探すつもりです」
「そうか、そうだな、それがいいだろうな」
西谷さんは、ほっと息を吐き、疲れきたようにソファの背もたれに体を預けた。
西谷さんの家を辞し、電車に乗った。
嫌な、悲しいことを思い出させてしまった。
アパートに帰る気にはなれなかったから、このまま故郷に帰ってしまう事にした。両親は、呆れるだろうか、失望するだろうか。どうでもいい。もうそんな事、心底、どうでもいい。