【8】
営業所に行き、今日限りで辞めると告げた。
寝癖放題の髪と、きっと、真っ青な顔をしていただろう俺を、誰も引き止めなかった。
「田舎に帰るのか」
名越さんがそういったので、頷いた。
「いろいろ、ありがとうございました」
肯定するように頷き返してくれたので、お礼を告げ、営業所を出た。
ジーワ、ジーワと、蝉の声が響き、駅舎の影でタクシーの運転手が汗をぬぐいながら立ち話をし、日傘を差した女性が歩いていた。
ふらりと、枕森を目指して歩いた。
バスのフロントガラス越しに見慣れた景色も、歩きで通ると、また違った風に見える。
枕森前のバス停に立ったが、あの石畳の路地はなかった。
なんとなく、納得した。やっぱり、そうか、という思いがどこかにあった。
バス停の少し先に、昔からやっていそうな、古い和菓子屋が見えた。店内を覗くと、老婆が一人で店番をしていて、俺を見て一瞬ぎょっとして、すぐに、いらっしゃい、と声をかけてくれた。
店内を見回し、ショーケースの中に並べられているものの中から、
「きんつばを、5個ください」
と、告げると、うれしそうににこにこと頷いて、白い紙の上に並べ、包んでくれた。
代金を支払い、戸惑って、思い切って聞いてみた。
「あの、枕森って、なにがあるんですか」
老婆は表情をこわばらせ、俺をじっと見て、周囲をうかがうようにし、諦めたようにため息をついて口を開いた。
「淵があったんだよ、あそこには」
「淵? 川? 池、ですか」
「池、というより、沼、かねえ」
「沼、ですか」
そんなものは、見当たらなかったが。
さらに突っ込んで聞こうとすると、老婆は慌てたように遮った。
「話さん方がいいよ、気に掛けるとね、道ができちまうから。
聞かれん方が、いいのよ」
道。
つながり、と、理解していいのだろうか。聞かれん方が、というのは、何に?
これ以上は、ここでは何も聞けない。おずおずと頭を下げて店舗を出た。
ビルの合間に、こんもりと濃く葉を茂らせる樹が見える。
「お兄さん」
呼び声に振り向くと、老婆がショーケースの向こうから、わたわたと手招きをしていた。
俺が戻るのを見て、レジの近くの引き出しから何かを取り出し、メモをしているようだった。手元を覗き込むと、さっき辞めてきたバス会社の名刺があり、西谷という、聞き覚えのない名が記されていた。紙は少し黄色く変色し、手書きで電話番号が書き足されていた。
「前にもね、枕森の事を聞きに来た人がいたんだよ。
何かあったら連絡をくれ、ってね、調べているんだって言っていたんだよ。
バスの会社の人で。この人と、話してみるといいかもしれないよ」
老婆は、名刺の人の名前と、書き足されていた電話番号を写したメモを俺にくれた。突然の展開に驚きながらも、丁寧に礼を言って店から離れた。
何度見ても、やはりあの石畳の路地はなかった。
バス停の前、あの路地があったはずの場所は、少なくとも10年以上は経っているだろう建物に遮られていた。俺も、バスでこの前を通るとき、確かに、この建物があるのをみていた。昨日今日できたものではないし、不自然な感じもない。
駅まで戻って、ケータイを取り出し、老婆からもらったメモにかかれた番号をコールした。