【7】
毎日、毎日、暑かった。
今年は、特に暑さが身に堪える。
朝、今日も暑くなるのだろうという予感にうんざりしながら家を出て、日中の熱気に耐え、やっと暴力的な陽が沈み、寝苦しい夜が終われば、また朝が来る。永遠に夏が終わらないように思えた。気が狂いそうだ。
周囲の誰とも最低限の会話しかせず、重い水の中を歩くようにゆるゆると夏の日々は過ぎて行った。
名越さんの家に泊めてもらってから、どれくらい経っていただろう。
あれ以来、6番路線を担当することはなかった。
なぜだろう。その日のシフト表を見て、やはり今日も、と思っても、配車係に問い質すことはしなかった。
日が過ぎるごとに、あの夜の出来事は記憶の奥に沈んで行った。
あの頃は疲れていたんだ。いろんなことを気にしすぎて、余裕がなくて。
だから、あんな幻覚を。
やっぱり、この忙しさが落ち着いたら、実家に帰ってみよう。この状況から少し離れて、ゆっくり休めたら、気持ちがリセットできるだろう。
風呂で汗を流すと、体が軽くなって開放的な気分になる。
今日一日、するべき事、ノルマみたいなものが片付いて、あとは好きな事をして寝るだけ、という。脱衣所で体を拭き、さっぱりとしたボクサーパンツと白いTシャツを身に着け、ドライヤーのスイッチを入れた。
と、視界が暗くなった。
あれ。
ドライヤーのスイッチをオン、オフしてみたが、カチカチという音以外、反応がない。まいったな、停電か? ブレーカーが落ちたのかもしれない。
ブレーカーの位置は、玄関か。懐中電灯がどこかにあったはずだ。
思考をフル回転させているうちに、少しずつ暗闇に目が慣れてきた。
そんなに広い家でもないし、何がどこにあるかは把握している。けれど、無暗に動き回るより、もう少し目が慣れるまで待った方がいいかもしれない。停電なら、すぐに復旧するはずだし。
どこから漏れてくる光なのだろう。意外と、明るいものだな。外の街灯か、近所の灯りがついているのなら、やはりうちだけが。
ドライヤーを手にしたまま考えていると、ぽた、ぽたという水音が耳についた。
シャワーヘッドに残っていた水が滴っているのだろうか、と思った。が、いつまでも水が落ちる音は続いている。栓をきっちり閉めなかったのかもしれない。電気がついたら、確認しよう。
たち、たち、ぴちゃり。ガコ。ガラン。
え。
続いた音には聞き覚えがある。洗面器か風呂で使っている椅子を動かした音。
浴室のドアは、半透明のプラスチック製。そちらから漏れる光が揺れる。 誰かが、何かが、いる。
半歩後ずさって、何かを踏んだ。その感覚は、そこにあるべきではないはずもの。
ゆっくり顔を巡らせて足元に視線を落とす。
そこにあったのは、室内の暗闇より、一層暗い、冷たい闇。うねり、小山になっている、水底から引き上げたばかりといった風の濡れた、長い、長い髪。
手元からドライヤーが滑り落ちた。あの、古い水の臭いがする。
バン。
浴室の半透明のドアを強く叩く音に、咄嗟にびくりと顔を向けた。
ドアの向こうに、白い小さな手が透けて見えていた。きっと、女性の。
バン、バタ、バタバタバタ。
次々に、手が。
ドアを埋め尽くすように、向こう側から。
さらに小さな、幼児、乳児の大きさのものまで。
無意識に遠ざかろうとして、重く絡み付く髪の山に足を取られて、尻餅をついた。
ドアが、ぎい、と、軋んだ音を立てる。開けられてしまう。
やめろ。来るな。来ないで。
尻餅をついた体制のまま、なんとかじりじりと下がろうとしたが、べたりと絡み付く、湿った髪に滑ってうまく動けない。動くたびに、髪の中に沈んで行ってしまいそうだ。
洗面台の鏡が、青白く光っているのに気付いた。
その正面は、壁。反射する光源なんてない。
バン、バンバン。ドアの半透明のプラスチック面を叩く手が増えていく。
ミシ、ミシ、と、ドアが揺れる。
バチ。
不意に起こった音に、洗面台の鏡を見る。
ガラス窓の向こうからそうするように、ぺたりと張り付く、青白く光る両手のひらがあった。
さらりと、黒い髪がこぼれ、その闇に縁どられた、若い女性の顔が覗き込んだ。
何かを探すように、眼球を動かし、床にへたり込む俺に気付いて視線を留め、鏡の向こう側から、窓に額をつけるように首をかしげて、嗤った。
その紅い舌の上には、さらに色鮮やかな濃い桃色の、小さな星が乗っていた。
愛らしく、艶めかしく。一粒の、金平糖。
「つれていって」
耳のすぐそばで発せられた声を聞いたあと、意識は暗転した。
バスに乗っていた。
夜なのだろうか、暗く、景色は灰色だった。
路肩側の席だったので、車窓の外、木々の枝が後ろへ流れていくのがみえた。
ただ茫然と、バスの振動に身を任せて座っていた。
(次は、枕森前、枕森前です。御降りの方は、ブザーでお知らせください)
いやだ。
両目から涙が溢れて頬を伝うのは感じたが、体は動かなかった。
苦い涙が、鼻孔の奥から喉へ流れ込んでいく。
なんとか視線を上げると、ルームミラー越しに運転手の顔上半分がみえた。
深沢さんだ、と思った。
バスは速度を落とし、左に寄って行った。
停車し、ビイ、という、かすれた不協和音のブザー音とともに、ドアが開いた。
灰色の煙のようなものと、あの、古い水の臭いが流れ込んできた。
煙が、バスの床を覆っていく。俺の足元も。悪寒が走るような、冷たい気配。
女性が乗り込んできた。次々に。年齢は、10代半ばから30代くらいの人がほとんど。だんだんと、人の顔を保っていないものになっていった。ゾンビのよう、という表現が合う。髪はザンバラに抜け落ち、顔はどす黒く、皮膚は溶け、所々、骨らしきものが見える。
ぼた、ぼたという音に視線を落とすと、手のひら大の水風船のようなものが床の上を引き摺るように動いている。
バスは、満員になった。
(発車します。走行中は席に着くか、つり革か手すりに――)
車内アナウンスを聞きながら、ふと、意識が途切れた。
次に気付くと、朝だった。
脱衣所に仰向けに倒れ、すぐそばにドライヤーが落ちていた。
床の上で一晩過ごしたせいだろう、冷え切って軋むように痛む体をなんとか宥めながら、ゆっくりと起き上った。
洗面所の鏡には、はっきりと、両手をついた跡が残っていた。浴室と脱衣所を仕切る、プラスチック製のドアにも、無数の。
自分を抱きしめるようにして、泣いた。
もう、限界だ。