【6】
名越さんのアパートをちらりと見上げて、言われた通りに歩き出した。
道の片側は金網で仕切られ、駐車場や空き地が多く、人通りはない。オレンジ色の街灯がぼんやりと道を照らし、側溝からチャラチャラと音が聞こえる。コンクリートの蓋を通り過ぎ、鉄製の網の脇を通るとき、一段と音は大きく聞こえた。生活排水だろうか、水が流れているようだ。
進む先にはコンビニの看板が見え、その先が駅らしかった。
いつものクセで、いろんなことを考えながら歩いた。
インスタントラーメン、うまかったな。今度、買ってみよう。
休日に書店を歩いたり、コーヒーショップに寄ったりするのも楽しいものだ。仕事にも慣れて余裕ができてきたし、これからは趣味のようなものを見つけるのもいいだろう。
今日は意外な発見が多い一日だった。
初めてあの横道も歩いたし、枕森にも行ったし。
そういえば、枕森は、なぜ枕森という名前なのだろう。あの大きな木が、どこか枕のように見えるからだろうか。
「まっくらだからだよ」
すぐ耳元で聞こえた声に、咄嗟に振り向いた。
誰もいない。
見通しのいい一本道、隠れる場所もない。
あの、枕森で感じた気配。気のせい? けれど、でも。
誰かがいる。すぐ、背後に。俺を見ている。
本能が告げる。
もう、振り向いちゃいけない。上を、みてはいけない。
「まあああぁぁあっくらあぁぁぁあぁあ、なんだようううう。
キィィヒャアハハハハハアアァアァアァ」
古い、水の臭いがした。
生乾きの洗濯物や、藻や水草がはびこる、昏い水の臭い。
冷たく、熱く、邪悪な者の悪意。
足は思うように動かず、気を抜くとがくりと崩れ落ちてしまいそうだった。
一度地面に膝をついてしまったら、きっと、立ち上がれない。
夏の夜の生温い空気の中、もがくようにコンビニの明かりを目指した。
「いらっしゃいませ」
コンビニの店内にはいると、じん、と、何かがほぐれる気がした。もう大丈夫だと思うと、抑えようとしても涙が溢れてきた。
なんなんだ。いったい、なんだったんだ。
少し気分を落ち着けて、飲み物と菓子でも買い、急いで帰ろう。
泣いているのを店員に気取られたくなくて、窓際の雑誌コーナーの前に立った。
なんとなく、雑誌のタイトルを目で追いながらゆっくりと呼吸をした。
コンビニの明かりは、店舗の前を照らしていた。
ガラス窓の向こう、駐車場のアスファルト。
誰かが立っている。
黒く長い髪、紺色のハイソックス、黒のローファー。
ひざ上のプリーツスカートの、制服姿。
体が、動かない。目が逸らせない。
彼女の口元が、すうっと上がる。その姿の向こうに、さらに先の景色が見えた。
透き通っている? なんで?
違う。
映っているんだ。
窓の向こうに立っているんじゃない。立っているのは、俺のすぐ後ろ。コンビニ内の通路はそう広くはなく、一歩でも下がれば、棚があるはずの。
首に、息がかかった。甘い、合成甘味料と香料の香り。
ふふ、と、声がした。黒い、ガラス窓の中の彼女もまた笑っている。
弾かれるように走った。
体当たりをするようにドアを押し開け、コンビニを出て闇雲に走った。
すぐに、名越さんのアパートが迫ってきた。さっき、出たばかりのドアを、力任せに叩いた。
怖い。
まだ、いる。俺を、見ている。
だれか。だれか。
安普請のドアがすぐに開いて、目を見開いた名越さんの姿を見た途端、声をあげて泣き出してしまった。
名越さんは、何も聞こうとはせず、泊まっていけ、とだけいって、布団を用意してくれた。何も話す気にはなれなかったから、ありがたかった。
風呂は? と、聞いてくれたが、とてもじゃないが、一人になって風呂に入るのは無理だった。じっとりと汗をかいていて、布団や、貸してくれたTシャツを汚してしまうだろうという懸念はあったが、そんなことに構う余裕なんてなかった。礼もそこそこに着替えて、暑かったけれど布団をかぶり、声を殺してまた、泣いた。
名越さんに起こされて、目を開けると朝だった。いつの間にか眠ってしまっていた。
朝風呂を借り、朝食を用意してもらい、やっぱり無言のまま、一緒に営業所まで歩いた。
朝の光の中では、全てがばかばかしく思えた。
昨夜の出来事さえ、本当の事だったのか、確証が持てない。
むしろ、本当に起こった事だったとして、だからなんだ、くらいに気が大きくなっていた。名越さんに対する気まずさや申し訳なさ、大きな借りを作ってしまった負い目のようなものもあったし。
その日のシフトに、枕森前経由の路線がなかった事には、心底ほっとしたけれど。